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書評:
『眼に映る世界: 映画の存在論についての考察 』(叢書・ウニベルシタス) [単行本] 原書名:THE WORLD VIEWED:Reflections on the Ontology of Film スタンリー カヴェル (著), Stanley Cavell (原著), 石原 陽一郎 (翻訳) http://www.amazon.co.jp/dp/4588009737 目次 仲間たちをめぐる自叙伝 視覚と音 写真とスクリーン 観客、俳優、スター 類型的人物、シリーズ、ジャンル 起源についての諸説 ボードレールと映画の神話 軍人と女性 ダンディ 神話の終焉 映画のメディウムとメディア 死すべきものとしての世界―絶対的年齢と若さ 全体性としての世界―カラー 自動性 余論―いくつかのモダニズム絵画 展示と自己言及 カメラの介入 テクニックの言明 沈黙の認知 続・眼に映る世界 訳者解説 「なぜ映画が哲学の問題たり得るのか?」 索引 /////以下書評////// 本書はドゥルーズ『シネマ』と並べられる存在らしいが、映画に存在論を適応しているところからして、それはあくまでドゥルーズの『シネマ1』と対応するのであって、そうした存在論が無効になった歴史的段階を描いた『シネマ2』には対応しない。 (ドゥルーズ『シネマ』と質的に比較できるのはタルコフスキーの『映像のポエジア』だけだ。) それゆえカヴェルがゴダールを酷評し、パゾリーニに言及しないのも無理はないのだ。 カヴェルはあるモデル(後述)を無意識に考えているからだ。 ただ、言いたいのは蓮實重彦なども本書のようなレベルの本は書けなかったし、日本の知識人はこのレベルの映画関連書を書いてこなかった。小林秀雄が生きていたら、柄谷行人が本気を出したら、武田泰淳や埴谷雄高がもう少し映画に時間を割いたら、、、本書のレベルの本は生まれたかも知れないが。 アメリカ超越主義(分析哲学は大学の中だけのことだ)の良き伝統を受け継ぐカヴェルの裏テーマとも言うべき思考モデルを類推するなら、性行為、結婚生活*が挙げられる。 (ちなみにドゥルーズ『シネマ』では、狂気と系列が裏テーマだった、と思う。さらに言えば、ジジェクなら性的倒錯だけが意識的にクローズアップされるだろう。ジジェクによるポルノ映画の定義、見られることなく見る、はカヴェルが本書で展開する主題でもある。) そこにカヴェル独自の芸術映画に限定されない、商業主義映画の再評価の規準があると思うのだが、その部分は「自動性」「メディウム」といった純理論的、グリーンバーグ経由の芸術論を読みたい人には関心を呼ばないかも知れない。本書の懐の深さはまさに結婚、性生活という主題を隠蔽/開示しているところにある、と思う。 *注: 本書の解説で紹介された季刊「nobody」に掲載されたカヴェルのインタビューがそれを示唆していた。また本書でもルノアールの『ゲームの規則』以上にオペラ『フィガロの結婚』が規準としてあり(87頁)、ヴィゴの『アタラント号』が結婚という観念を扱った最高の映画とされる(257頁)。 ちなみに表紙写真はキートン『探偵学入門』。 この映画は本書でその自己言及性がコメディとして評価されるのだが、(映画を見ている人にはわかるが)ハッピーエンドとは言い切れないテイストを持った結婚生活を暗示するラストが特に優れているのは言うまでもない。
書評:
ヴァーグナー試論 [単行本] テオドール・W・アドルノ (著), 高橋 順一 (翻訳) http://www.amazon.co.jp/dp/4861823544/ 原書:Versuch über Wagner, Knaur, 1964. 目次: クナウル社ポケット版への助言 I. 社会的性格 II. 身振り III. 動機 IV. 響き V. 音色 VI. ファンタスマゴリー VII. 楽劇 VIII. 神話 IX. 神と乞食 X. キマイラ 索引 付録「ヴァーグナーのアクチュアリティ」(1963年9月講演) 解説にかえて「仮象と仮象を内破するもの――アドルノのヴァーグナー認識について」高橋順一 ヴァーグナーの作品概要 訳者あとがき /////以下書評/////// アドルノによるワグナー(ヴァーグナー)批判はワグナーのナチズムとの近縁性をあげつらうような単純なものではない。 それはアドルノに、アドルノ自身の、さらに20世紀のドイツ全体にこびりついた弁証法的思考形式から脱する機会を探るものだからだ。 アドルノによってショーペンハウエルの対立物としてヘーゲルに近いと規定(215頁参照。『指輪』は『精神現象学』に対応する)されるワグナーは、楽劇という現実以上に現実的な幻想によって「労働を隠蔽」するがそれは当初はプチブル批判でもあったのだ(実はミイラ取りがミイラになったとはいえ、ファンタスマゴリー=魔法幻灯(100頁)に対する批判ですらあった)。 つまりワグナーは小市民批判という一点おいて、アドルノと立場が近いのだ。 では、それならば如何にしてワグナーを批判するのか? (以下私見…) それは具体的には「反復進行(Sequenz)原理」(38、47、207頁)によってである。 否定弁証法の有効性は文化産業批判という限られた範囲内のものであり、幻想の現実化としての資本主義の産物である芸術の内在的批判には無力だが、この「反復進行原理」は新たな批判基盤を提出する。それはカントの超越論的批判に似ているのではないか?と個人的には思う(感性=音楽、悟性=詩、理性=楽劇、といったヒエラルキーではなく、アンチノミーの維持がその特徴だ)。 25年を隔てた2種のワグナー論は、この原理の深化によって区別される。 ただし、この反復の称揚は、アドルノ自身によって自覚的に展開されたとは言えない(初期には反復は否定的に考えられていた〜39頁~)。 『ジークフリート』第3幕の単独公演を提唱(210頁)したりすることに端的に現れるように、全体性(全体主義)にはそれに対する断片化で対抗できるとアドルノは考えているようだ(弁証法はそれら断片の安易な再構成を保証する)。それでも戦後の論考は弁証法に縛られた思考からの脱却が見られるのは確かだ。 むろん本書の大部分を占める戦前の論考が無効というわけではない。アドルノによる文化批判の舌鋒はするどく音楽関連の書と、文化産業批判の書をつなぐ位置に本書はある。 だからワグナーはアドルノにとって最重要の音楽家ではないが、本書はアドルノにとって最重要の書なのだ。 アレゴリーを単純に支持できない、アウラ(後光)の喪失が前提である世代としてベンヤミンと異なる立場から芸術の政治的(というより現実的)再生を探るアドルノの苦闘が読み取れて、本書は秀逸だ。
ゴダールはロッセリーニはソクラテスだと言ったそうだが、そのロッセリーニは晩年、教育的な歴史映画シリーズの一環として、西欧の偉大な哲学者を題材にした作品を作っている(「ソクラテス」(1970) 、「ブレーズ・パスカル」(1972)、「デカルト」(1974))。
上記作品は全編ネット上で見ることができる。 Sócrates - filme completo http://youtu.be/SlJSF-V6yBA 参考: http://shahr.exblog.jp/12516561/ 古代世界の午後雑記 : 古代ギリシア歴史映画1971年版「ソクラテス」 Blaise Pascal - Filme Completo http://youtu.be/C3fhX3q0-SQ Descartes - Filme Completo http://youtu.be/T9cq7G8hoAE 字幕がなかったり、ポルトガル字幕だったりするので内容はよくわからない。ソクラテス以外は英語字幕版が発売されているようだ。 デカルト以外は主人公の死で終わる。まるでパゾリー二映画みたいだ(逆か?)。 近代を題材にした方が出来がいいように思える。 以下はデカルトの英語字幕版(一部のみ)。
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|行政|歴史|農業|音楽| |__政__孝__礼__| | |叛乱| |詩経| |__|__徳__|__| |年齢|知 |中庸| 聖| |__学__|忠_仁君子| |経済|言葉|日常| 死| |__|__|信義|弟子道____ | | 天 →クリックすると別サイトへ。別ブログ。 付録: 宥坐の器(ゆうざのき) 敧器ともいう。 満杯に注げば、確かに覆る。覆って、水が入っていない状態では傾いたままになる。 中庸の重要性を孔子はこの器で弟子に説明した。 出典 (明治書院)新釈漢文大系53『孔子家語』宇野精一著 118頁 巻第二 三恕 第九 孔子觀於魯桓公之廟、有敧器焉。夫子問於守廟者曰、此謂何器。對曰、此蓋爲宥坐之器。孔子曰、吾聞、宥坐之器、虡則敧、中則正、滿則覆。明君以爲至誡。故常置之於坐側。顧謂弟子曰、試注水焉。乃注之水、中則正、滿則覆。夫子喟然歎曰、嗚呼夫物惡有滿而不覆哉。 孔子、魯の桓公の廟(べう)を觀(み)るに、敧器(きき、傾いた器)有り。 夫子(ふうし)、廟を守る者に問ひて曰く、此れ何の器と謂ふ、と。 對へて曰く、此れ蓋(けだ)し宥坐(いうざ)の器(き)爲(た)り。 孔子曰く、吾聞く、宥坐の器は、虡(むな)しきときは則ち敧(かたむ)き、中なるときは則ち正しく、滿(み)つるときは則ち覆(くつがへ)る。 明君、以て至誡(しかい)と爲(な)す。故に常に之を坐の側(かたはら)に置く、と 顧みて弟子(ていし)に謂ひて曰く、試みに水を注げ、と。乃(すなは)ち之に水を注ぐに、中なれば則ち正しく、滿つれば則ち覆(くつがへ)る。 夫子(ふうし)、喟然(きぜん)として歎じて曰く、嗚呼(ああ)、夫(そ)れ物は惡(いづ)くんぞ滿ちて覆(くつがへ)らざるもの有らんや、と。 (ほぼ同じ内容が、『荀子』宥坐篇、『淮南子』道應訓、『説苑』敬愼篇、『韓詩外伝』巻三にある) http://plaza.rakuten.co.jp/siawasesuper/diary/200510200000/ 以下上記ブログより引用。 これは「宥座の器(ゆうざのき)」というものです。 中国の孔子という人が桓公の廟(おたまや)に参拝したところ、そこに傾いてつるしてある「器」がありました。 孔子は廟守(びょうもり)に 「この器は何というものでしょうか」と尋ねると、廟守は「これはたぶん『宥座の器』というものでございましょう」と答えました。 それを聞いた孔子は、 「宥座の器ならば、中が空ならば傾き、程ほどならば正常になり、一杯に充満すれば転覆すると聞いています」と言って、傍らのお弟子さんに向って、「器に水をついでごらん」と言った。 御弟子さんが水を器に注ぎました。 中ほどのところでは正常の位置になり、 水が一杯になるとガクリと転覆し、 水がこぼれて空になると、またもとの傾いた状態になりました。 そこで孔子は言いました。 「世の中の万事、すべてこれと同じだ。結局満ちて覆らないものはない」 虚なれば即ち傾き 中なれば即ち正しく 満なれば即ち覆る
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プロフィール
横浜在住。ナマケモノ倶楽部、TCX会員。参加している地域通貨は、Q(ID名は6463749)、三鷹seeds、鴨川安房マネー、多摩COMO、千姫プロジェクト(IDは「ヨウジ」)、千葉ピーナッツ、ccsp各種(IDはyojisekimoto)です。 お気に入りブログ
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