セイレーンと啓蒙の概念


アドルノは『啓蒙の弁証法』でオデュッセウスを論じ、セイレーンについて触れた部分では、オデュッセウスを精神労働、乗組員を肉体労働者としている。神話が啓蒙のはじまりでもあり、啓蒙の行き着く先が神話だとするアドルノの二重の態度はわかりにくいが、この『啓蒙の弁証法』における指摘は分かりやすく興味深い。

<オデュッセウスは歌声を聞く。だが、彼はマストにつけられたままだ。(略)自らは歌を聞くことがない仲間たちは、歌の危険を知っているだけでその美を知らない。オデュッセウスと自らを救うために、かれらはオデュッセウスをマストに縛ったままにしておく。(略)縛られている者はいわばコンサート会場にいる。のちの聴衆のように身じろぎもせず、じっと耳を澄まして。(略)こうして先史世界との離別に際して、芸術の享受と肉体労働とは別々の道を歩むのである。>
(岩波文庫『啓蒙の弁証法』p.74-5 及び『現代思想の冒険者たち アドルノ』p.153-4参照。同書p.115によると、ベンヤミンの掌編「フランツ・カフカ」におけるセイレーンについての記述がアドルノのモチーフになっている。)

ちなみに、スピノザは『神学政治論』で社会契約の重要性の一例として船員が約束を守って縄をほどかないエピソードを扱っていた。

冒頭の動画は『オデュッセウス』(テリー・イングラム監督、2008年)より。原作に忠実なコンチャロフスキー版の方が出来がいいが、セイレーンのエピソードはこの映画にしかない(ただしこの映画は、耳栓用の蜜蝋がなくなるところなど原作に忠実なのは途中までですぐにホラー映画になってしまう。なお超大作のカーク・ダグラス版(追加↓)はセイレーンの描写はあるが残念ながら日本語版が出ていない)。


[PR]
by yojisekimoto | 2010-04-28 20:05 | 映画


<< ホワイトヘッド "El modelo... >>