『ゴダール・ソシアリスム 』、映画史から歴史へ

明らかに民主主義がテーマだから、題名はゴダール・デモクラシーの方がいいかも知れない。
ただ、日本語タイトルとしては原題のフィルムのかわりにゴダールを入れたのは正解だろう(原題はFILM SOCIALISME)。今回も自分自身の物語を語った部分があるからだ(とはいえ本人は未出演)。

全体は3つにわかれるが、最初のクルーズの章の出来が悪い。単に音声ダイナミックレンジを間違えた技術的な側面もあるし、クルーズの労働者を描かないから実感がともなわない(有島武郎の『或る女』のように船底まで行かなければ不十分だろう、、、)。

104分の全編を74秒に早回しして全部見せてしまった(?!)予告編↓ではクルーズの場面が光っていたが、、、


子供を描いた2章(上の予告編だと35秒過ぎから)と、『映画史』のような3章(同58秒頃から)は出来がいい。

(わかりにくいので10倍遅くしたバージョン↓、、、)


かつてトリュフォーが、ゴダールは若者を描いた時はいい映画を作る、なぜなら愛があるからだと言っていたし、また、タルコフスキーは『勝手にしやがれ』を絶賛し、題材に「触れた」時に傑作ができると言っていた。
この伝で言えば、2章には愛があるし、エイゼンシュテイン、スペイン革命に題材をとった3章は決定的な題材に触れていると言える(ゴダールの自分自身にさえ噛み付くシニシズムは子供の「誰でも平等にたたいてやる」という台詞に如実に現れる)。

作品の発想としては、ストーリーの流れに反して、3章から始まっているのではないかと思う。
つまり、『映画史』に民主主義を探したが見つからないので旅にでました、と言った具合である。これはモレッティの『親愛なる日記』と同じパターンであるが、ここで思い出すのは柄谷行人が蓮實重彦の『非情城市』論を批判し、歴史を無視するべきではないと言ったことだ。

映画史から歴史へ、シネフィルは目を向けなければならない状況に来ているのだ。

ここには、もはや、パゾリーニを官僚的、エイゼンシュテインを修正主義と罵ったかつてのゴダールはいない。

かつてならハリウッドに対抗してヌーベルバーグの自己証明を試みたろうが(この映画でアメリカを代表するのは映画ではなくシンガーのパティ・スミスだ)、この作品ではヨーロッパ内部それ自身の歴史に自己証明を探しているのが印象的だし、バディウの出演などは、経済革命に完全には賛同できず政治革命に未練を残している残余ではあるが(マルロー『希望』を引用するなど、ゴダールのレジスタンスへのコンプレックスは相変わらず)、革命の経済的な側面をバックボーンにした陳腐なストーリーは、そうした歴史(世界史)を観客が追体験することで、はじめて必然性をもってくるのだ。

ゴダールは銀行家の息子だそうだから(この映画の物語上の悪役は銀行家)、ファミリーロマンスに回収できるのではないかとも思うが、、、、


付録:
バルセロナを描いた部分で引用された、ファウルを受けるイニエスタ↓
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(ゴダールは1950年代のマジックマジャールに共産主義を見出したと語ったことがある)

以下は1985年頃、ゴダールが監督したレナウンのCM

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by yojisekimoto | 2010-12-23 00:00 | 映画


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