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シネマ=狂気、シネマ=消尽:メモ

以前、ドルーズのシネマ1に出てくる映画の動画をyoutubeで見つけてきて紹介したことがあるが、そのとき気付いたのはドゥルーズは狂気を裏のテーマにしているということだった。
シネマ=運動ならぬ、シネマ=狂気である。
これはガタリとの共闘以前に、『意味の論理学』でも主題化されていた。ルイスキャロルとアルトーの狂気の差異、ドゥルーズはむろん狂気に耽溺しないでその差異を見極め生産的な仕事につなげていた。

さて、シネマ2の方は何が裏テーマかと言うと、やはり消尽ということになるのではないだろうか?
老人を扱ったデシーカの『ウンベルトD』が冒頭で言及されるのは偶然ではない気がする(ちなみにデシーカやビンセントミネリやクレールなど、カイエ派から無視されがちな作家をドゥルーズはうまく居場所を見つけて評価している。これは思想史でベルグソンやヒュームを再評価した手腕と同じだ)。

すべての可能性を使い果たすことではじめて潜在性に到達する。その潜在性は身体の中にあるが、映画を見てはじめて観客は自らの潜在性に気付く。若い時はそれが狂気となって外に放出されるが、老年になれば消尽という形をとる。

そのベケット論を引用するまでもなく、観客自身がそれをすでに持っている、、、
それは完全性の縮小ではなく、欲望の一種だ。欲望の減退もまた欲望の一種なのだ。
スピノザはそれをコナトゥスと言ったのではなかったろうか?
by yojisekimoto | 2011-02-25 00:16 | ドゥルーズ


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