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言語の強制、言語の牢獄

以下、ニーチェ『権力への意志』(ちくま文庫ニーチェ全集13、59頁 原佑=訳。522)より。

 根本解決。〜〜私たちは理性を信じている。しかしこのものは灰色の概念の哲学である。
言語はこのうえなく幼稚な先入見にもとづいて組み立てられている。
 ところが私たちは不調和や問題を事物のうちへと読み入れる、というのは、私たちは言語
の形式でのみ思考するからである〜〜かくして「理性」の「永遠の真理」を信ずるのである
(たとえば、主語、述語その他を)。
 私たちは、私たちが言語の強制をうけて思考することを欲しないならば、思考することを
やめる。私たちは、ここで限界を限界としてみとめるべきではなかろうかと疑うところに、
どうやら達している。
 合理的思考とは、私たちが放棄することのできない図式にしたがって解釈することである。


訳者がカントを訳した人でもあるので、かなりカントに近い。同じ箇所の後半をジェイムソンが『言語の牢獄』の冒頭に掲げている。
その訳(法政大学出版、川口喬一=訳)は以下。

言語の牢獄の中で思考することを拒否するのであれば、われわれは思考そのものを停止し
なければならない。というのは、われわれに限界と見えているものが本当に限界であるの
かどうかを問うてみること、われわれにできるのはせいぜいそこまでで、それを越えるこ
とはできないからだ。

英語からの重訳で『言語の牢獄』なるキャッチフレーズ=イメージが強調されているが(参考)、客観的に見てもやはり驚くほどカントに近い認識だ。
大陸の論理学(意味)かイギリスの言語学(言語)かというアンチノミーのアウフヘーベンをジェイムソンは最終的に信じているが、ここでカントからニーチェへ続くアウフヘーベンの断念、アンチノミーの維持の系譜が読み取れる。これはドゥルーズがヘーゲルに対立させたもので、プルードン評価の肝になる部分である。
by yojisekimoto | 2011-06-07 18:09 | ニーチェ


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