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マーラー、フロイト、黒澤

マーラーの作品はどれも構成が実験的で一回限りのものである。
現代において失われた全体性の回復には大地の歌のように、歌という身体性に依拠するのが手っ取り早いが、そうでない場合どんな方法があるのか?

ここで黒澤明の最高傑作『乱』が重大なヒントを与える。
武満は黒澤の指示のもと、大地の歌(告別)、巨人(葬送)、復活(ティンパニー)といったバラバラな作品からを必要な断片を引き出し、下敷きにして作曲している。
ちなみに武満は女性独唱のアイデアは拒否した。
全体性の回復は現代人の課題だが、安易な全体性はあり得ないし、ベートーベンの使った形式が使えないのはヘーゲルの弁証法をフロイトが参照しても仕方ないのと似ている。
今日の聞き手は誰もが、黒澤のようにマーラーを解体し、再構成してマーラーを聞くべきで、確固たる評価も基準も最初から自明のものとしてあるわけではない。








by yojisekimoto | 2011-07-07 18:34 | 音楽


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