『家族ゲーム』

『家族ゲーム』におけるブニュエルの影響(『ビリディアナ』)は成功しているが、それでもその後の森田の作品を見ると、その影響が本質的なものではなかったことがわかる。
ロラン・バルトは『映像の修辞学』で意味を保留する映画の代表としてブニュエルの『皆殺しの天使』を挙げていたが、これがそもそも誤解の元というかその誤解の代表的な例のひとつだ。
ブニュエルは決してナンセンスをテーマにしたのではなく、ブルジョア批判という後期のテーマを持っており、これは内在的資本主義批判を意味する。
森田もまた(プチ)ブルジョア批判を記号論的な手つきで行うが、この記号論的手つきそのものがそもそも資本主義の産物なのだ。
だから森田は資本主義によって資本主義を批判、戯画化している。
この矛盾、二重構造は自覚する限りでは面白いテーマになる。寺山の『田園に死す』などがその成功例だ。
だが森田はこのパラドックスに気がついていない。
ここが致命的である。
追悼文を書くつもりが手厳しい文面になってしまったが、むろんこうした課題は引き継がれるべきものだ。
[PR]
by yojisekimoto | 2011-12-28 02:44 | 映画


<< 鈴木清順『春婦伝』 四元素論、五行説、ひも理論 >>