『存在と時間』でハイデガーは存在と存在論とを分け、さらにデリダはそれを「差延」という概念において展開しました(『哲学の余白・上』他)。
これは、問題を対象化できると思ったとたん、問題が手の中からすり抜ける有様を哲学的に述べたなものだと思います。 なかなかうまく説明できないこうした状態をうまく説明したものとして、以前、別のサイトでも紹介したことのあるボブ・ディランの以下のような興味深いインタビュー記事があります。 (質問者)これまでに、書こうとしても、どうしても書けなかったようなことは? ディラン あるとも。どんなものでも、書こうとすると書けないものなのだ。僕が何かについて書こうとしたとする−−「馬について書きたい」とか「セントラル・パークについて書きたい」とか「グランド・キャニオンについて書きたい」とか「コカイン産業について書きたい」−−ところが、それじゃ、何もうまくいかないのだ。いつも肝心なものを除外してしまうのだ。ちょうど、あのHurricaneの歌のように。僕はハリケーン・カーターについて曲を書きたかったし、そのメッセージを広めたかった。ところが、ハリケーン・カーターについてなど、どこにも出てこない。ほんとうなんだ、その曲の本質というものは、何かについてではない。つまり、すべてはきみ自身についてなのだ。きみが誰か他人の靴をはいて立っているかぎり、きみにはその感触がどんなものかわからないだろう。それが何についてかさえわからない。 映画を観に行って、「何についての映画だったんだ?」ということはできる。映画というのは、きみに時間を止められるという幻想を抱かせるものなのだ。きみはどこかに行って、しばらくのあいだじっと坐っている。きみは何かを観ている。わなをしかけられたも同然だ。すべてはきみの脳の中で起こり、いま世界ではそれ以外に何も起こっていないように、きみを思わせる。時間はとまっている。外では世界が終末を迎えようとしていたとしても、きみにとって、時間は止まったままだ。その時、誰かが「何についての映画だったんだ?」と聞く。「うーん。よくわからないな。同じ娘をものにしようとしていた、二人の野郎の話だろ?」あるいは「ロシア革命についての映画だよ」そうだ、それは映画が何についてだったか説明しているが、映画そのものではない。きみに、ずっと座席に坐ってスクリーンに見入ったり、壁のライトを見つめたりさせたのは、それではないはずだ。他のいい方をすれば、きみは、「人生とはいったい何なのだ?」ということもできた。それは、いつだって映画のように過ぎていくだけだ。きみがここに何百年もいようが関係なく、それはただ過ぎ去っていく。誰にも止めることはできない。 だから、それが何についてかなどということはできないのだ。ただ、きみにできることは、その瞬間の幻を与えようとすることだけだ。だが、それにしたって、それがすべてではない。きみが存在していたという単なる証なのだ。 どれが何についてだって? それは何についてでもない。それはそれなのだ。 (『ロックの創造者たち』より) これは、ハイデガーの用語で言えば、存在者を表象したとしても、その存在者が抱える存在の本質はうまく伝わらないということだと思います。 ハイデガーはしかし、気遣いや配慮によって、人間は本質的なものに近づけると考えます。 その前存在論的証言として『存在と時間』第42節では以下のような神話(というより寓話)が引用されています。 クーラ(気遣い、関心)が河を渡っていたとき、クーラは白亜を含んだ粘土を目にした。 クーラは思いに沈みつつ、その土を取って形作りはじめた。 すでに作り終えて、それに思いをめぐらしていると、ユピテル(ジュピター、収穫)がやってきた。 クーラはユピテルに、それに精神をあたえてくれるように頼んだ。そしてユピテルはやすやすとそれを成し遂げた。 クーラがそれに自分自身の名前をつけようとしたとき、 ユピテルはそれを禁じて、それには自分の名前があたえられるべきだ、と言った。 クーラとユピテルが話し合っていると、テルス(大地)が身を起こして、 自分がそれに自分のからだを提供したのだから、自分の名前こそそれにあたえられるべきだ、と求めた。 かれらはサトゥルヌス(クロノス、時間)を裁判官に選んだ。そしてサトゥルヌスはこう判決した。 ユピテルよ、お前は精神をあたえたのだから、このものが死ぬとき、精神を受け取りなさい。 テルスよ、お前はからだをあたえたのだから、(このものが死ぬとき)からだを受け取りなさい。 さてクーラよ、お前はこのものを最初に形作ったのだから、このものの生きているあいだは、このものを所有していなさい。 ところで、このものの名前についてお前たちに争いがあることについては、 このものは明らかに土humusから作られているのだから、人間homoと呼ばれてしかるべきであろう。 注: (サトゥルヌスはクロノス、時間の神(ギリシャでは農耕神だが後に混同、英語ではサターン) 。ユピテルはジュピター、収穫の意(ギリシャではゼウス)。 テルスはガイアのこと。 クーラは気遣い、関心の意 、ペルセフォネーのこと。 ) ハイデガーはこの寓話によって、世界内存在における現存在の有限性と気遣いの重要性、時間の優位性を説明しています。この寓話はハイデガー理解にとって重要だと思いますし、ギリシャ研究(実はローマ経由)にとっても貴重だと思います。 上記の寓話は福祉介護を論じる人には、ケア(クーラ)の重要性を基礎づけるものとして引用される場合がありますが、ローマ法的な契約の概念こそ読み取るべきかも知れません。 ハイデガーがギリシャ神話というよりもローマ神話を引用したのも示唆的ですが、それまでのドイツ哲学を支配するゲルマン的な共同体主義的な傾向を切断するためにローマ法の契約的な考え方を取り入れたとも考えられます。 ディランもまた、ユダヤ的な契約の概念を取り入れてフォーク共同体との間に一線を画したのでした。
by yojisekimoto
| 2007-10-21 17:03
| ハイデガー
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横浜在住。ナマケモノ倶楽部、TCX会員。参加している地域通貨は、Q(ID名は6463749)、三鷹seeds、鴨川安房マネー、多摩COMO、千姫プロジェクト(IDは「ヨウジ」)、千葉ピーナッツ、ccsp各種(IDはyojisekimoto)です。
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