私的官僚制への疑問

柄谷行人は「at第5号」(p143)にマックス・ウェーバーの以下の文章を引用している。

「今日では、私的官僚制と公的官僚制とは並行して、少なくとも可能性としては対抗して、活動しているから、とにかくある程度互いに抑制し合っている。」(「新秩序ドイツの議会と政府」『政治・社会論集』、河出書房p329)

ウェーバーの文章は公的*というよりワイマール期における国家官僚制の権力の拡大を危惧したものだが、柄谷はそれとは逆に、アナルコキャピタリストが、公的官僚制を私的官僚制に回収することの虚偽を、軍隊のアウトソーシングを例にして告発している。
この例から明白なように、昨今の民営化万能論もこの虚偽を免れない。

プルードンが民衆に会計能力を要求したように(http://yojiseki.exblog.jp/7140637/)、アソシエーションというオルタナティブな回答を柄谷は用意しているが、それは国家と資本の分析を歴史的にした上で、彫像を彫るようなかたちで明確にしようとしている。これは大きな遠回りとも見えるが、技術的な試行錯誤と並行して行うべき必要な課題ではある。


もちろん、官製不況といった側面が明らかになっている現在、公的官僚制の限界も露呈しつつあることは言うまでもない。それは地方分権と並んで大きな課題である。ここで柄谷が称える中間団体論(http://demosnorte.kitaguni.tv/e539083.html)が重要になると思うが、柄谷はここでも丸山正男の歴史的考察を基盤にして、議論の土台、共通理解をつくろうとしているようだ。

*注
公と私、国家と個人の関係に関しては(私的→公的でもありうると説いたカント『啓蒙とは何か』の議論を参照しつつ)以下の図が書けるだろう。

   公
国家 + 個人
   私
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by yojisekimoto | 2008-06-09 03:54 | 柄谷行人


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