「汝」と「それ」

柄谷氏による長池講義は、それ自体無料でおこなわれ互酬性にあてはまるものだが、学問的にいろいろ考えさせてくれる。
その一つがスピノザとヴィトゲンシュタインの共通点だ。『探究2』で言及されたスピノザの無限論は無際限ではなく、ヴィトゲンシュタインによる「世界の中に神秘があるのではない、世界があることが神秘なのだ」という言葉と響きあう。これは無際限的集合を支持したラッセルを間に入れると分かりやすい。

ヴィトゲンシュタインは先の日記に書いたブーバーの猫の記述とも関連してくるだろう。
両者とも無限を日常のなかに認め、関係性において記述したのだった。

さて、ブーバーの言う「汝」と「それ」を柄谷の交換図に当てはめれば、汝がAに、それがCにあたるだろう。四次象限図は集合論的にベン図に直すと分かりやすい。
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柄谷に言わせれば、互酬性にあたるAの「汝」と資本制にあたるCの「それ」の対立がブーバーが猫と目が合った際に浮かび上がるものだということになるだろう。
一方、互酬性にあたるAの「汝」と資本制にあたるCの「それ」の二つのいい部分だけをあわせたのがDのアソシエーションであり、国王(一方的な社会契約でも結果的には同じだが)のような超越した第三項を立てて両者のすべてを捨象するがBの国家ということになる。

Bの国家は、Dのアソシエーションと相容れることなく対峙しているわけだから、Dを規定することでBを、Dを規定することでBを浮き彫りにすることは原理的に可能だ。

柄谷はatの第7号でカントをこうしたDの思想家として対応させているが、ヴィトゲンシュタインもDを語ったと考えることができる(ブーバーは前述のようにAの汝とCのそれを対立させることでDを浮き彫りにしたからDを直接語ったわけではない)。
スピノザなどはDとBの両面から語っている(『エチカ』=Dと『国家論』=B)。

ブーバーに関係づけて比喩的に言うならば、猫を見つめる異なる複数の人間を記述しなければ、アソシエーションを語ったことにならないということも言える。その点でヴィトゲンシュタインの問題意識はより本質的にアソシーエーションを内部から語った問うことかも知れない。

長池講義では、頭文字だけだとヴィトゲンシュタインとウィットフーゲル(これはBを主に語った)と紛らわしいといった冗談が語られたが、柄谷氏の問題意識が(周期説ではないが)一周してより深まったという思いを新たにした。
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by yojisekimoto | 2008-06-24 04:02 | 柄谷行人


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