ハイデガーの「脱自」

エクスタシーという言葉はギリシャ語のエクスタシスが語源で、神との合一、魂の現象界への離脱といった意味合いがあるという。
ハイデガー研究者のあいだでは多くの場合「脱自」と訳される。
「脱自」という訳語はそれ自体はエクスタシーという本来の語が指し示すような意味においてはまったく官能的ではない。これらは言語及び翻訳の問題でもあるだろう。そもそも(多和田葉子『エクソフォニー』の説では)官能的という語そのものが「官」と「能」というまったく官能的でない言葉同士を合わせた言葉であって、言語というものの不可思議さをよく示していると思う。

さて、ここからが本題だが、(ハイデガー自身は『現象学の根本問題講義』でその官能性を否定しているが)この「脱自」を「エクスタシー」として読めば、ハイデガーはじつに官能性について語っているかのような様相を呈する。

以下邦訳全集26巻より。

(図は『ハイデガー=存在神秘の哲学 』講談社現代新書、古東 哲明 、p174より孫引き)

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期待することは、必ずしも望むか恐れることではなく、それ自体さらに様々な変様、すなわち張りつめた不寛容、無関心な成り行き-まかせを示しうる。
(略)われわれが予期作用と名付けたものはそれらの態度の根底にある、そのとき的なもののなカへの脱出以外の何ものでもない。それは、われわれがそれについて、そのときそれはそうなるだろう、と言うことができ、また言わなければならないようなあらゆる可能なあるものを、あらかじめすでにこれに先立って跳び超えてしまっているのだ。
(p280)

予期作用は、われわれが言うように、脱自的[ekstatisch]である。
(略)
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自己へ向かってということが、将来ということの第一次的で脱自的な概念である(略、図1上)。
(p281)
過去はもう一本の軸の上に自己を巻き込んでいく(略、図2下)。
脱自態([Ekstase])は、直接的に、中断なくそして第一次的に、既に有ったことのうちへ伸張していくのだ。
(p282)

(略)それらの有はまさに自由な脱自的な振動のうちに存する。
(p283)

脱自は、或る限定された可能的なものを自ら産出するのではないが、しかしおそらく、その内部で或る限定された可能的なものが何か期待されうるような可能性一般の地平というものを産出する。(略)地平はエクスタシスの[脱自]のエクステーマ[脱自域]である。
(略)このエクステーマ的なものは、振幅運動しつつ、世界することとして時熟する。脱自的な振幅運動のようなものがそのつど或る時性として時熟するかぎりにおいてのみ、世界への進入が起きる。
(p285)

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ハイデガーは自らの存在論がライプニッツのモナド(*)と呼応することを認めつつも、モナドがデカルト的な自我を未だに基礎としていると批判している。デカルト的自我に対してハイデガーが打ち出すのが脱自=エクスタシスである。これよって自我から脱するわけだから、エクスタシスは重要な概念ということになる。(『個体性の解釈学』四日谷敬子)。

またその脱自の仕方も(あえて言うなら)男性的な直線的原理というわけではない。
ベルグソン的な図解(図1)に対抗して提出した図(図2)は、(古東哲明が「暫時」を「刹那」と訳しているため)一見神秘主義的だが、一般的なイメージと違ったハイデガーの(あえて言うなら)女性原理的な特質を指し示しており重要だと思う。



以下、試しに普遍論争の見取り図を描いてみた。ホッブズやルソーの近代的アトミズムも含めアトミズムは本来唯名論に分類される。
ライプニッツ的モナドはそこに「(叡智者や天使の)すべての個体は最低種である」というトマス・アクィナス的種の原理(『形而上学序説』第9節参照)を導入することで、実体論的に改良したものと言える。
以下、参考までに普遍論争を図式化し、ライプニッツとハイデガーを位置づけてみた(object-subjectの逆転に近いことがこの論争に当てはまるので位置づけは恣意的に変わり得る)。

           神          
           |
           |
プラトン       |      オッカム
トマス・アクィナス  |
           |
           |カント
           |
実       アリストテレス        唯
在__________|__________ 名
論          |   アトミズム   論
     ライプニッツ|スアレス
 ドゥンス・スコトゥス|ハイデガー  ホッブズ
 スピノザ      |デカルト   ジョン・ロック
           |
           |     
           |
          人間的
           

さらにアラベール等の概念論を実在論と唯名論の両者を止揚したものと考える人もいる。
(ドゥンス・スコトゥスから出発した)ハイデガーは実体論から唯名論へ、(スアレスの個体的定義から出発した)ライプニッツは唯名論から実体論へ移行したとも解釈できる。
ハイデガーの脱自(あるいは脱自域)という言葉はそうした移行をも説明するものかもしれない。
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by yojisekimoto | 2008-11-16 15:28 | ハイデガー


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