11月27日@早稲田講演

2008年11月27日の早稲田柄谷講演は、以前の朝日センター及び札幌講演を反復したものだが、「なぜデモをしないのか」というタイトルに相応しい盛り上がりを見せた。
といっても政治演説ではなく、学術的に丸山真男などをつかって、4交換図を日本の近代史に適応させ展開したものだった。
(デモがないのは)政治的敗北とそのトラウマによるものだから、社会学的分析は間違っている、という発言には衝撃を受けた。

ただし、感想として中間団体の重要性とアソシエーションの重要性は一義的には直結しないと思った(その点、個別団体という言い方の方が重要な気がする。個別化の根拠はライプニッツが探したものでもある*)。

全体として、モンテスキュー(選挙は貴族制であってくじ引きこそ民主制)をくじ引きの提唱者として例証する等、歴史家としての柄谷氏は成熟しつつあるのではないか(デモなどがなければ民主制ではないという意見は貴重だ)。

気になったのは、4交換図と丸山の図↓(「個人析出のさまざまなパターン」1968丸山真男集9巻所収)が相似であることを多くの観衆(100人以上)が理解していないのではないかということだ※。

I自立化   D民主化

P私化   Aアトム化

この図はDIPAと進むが、IとAをひっくり返せば4交換図そのものだ。
中間団体はあくまで一元化への抵抗だから、Iをそのままになうわけではないだろう。
中間団体を外へ開く新たなアソシエーションのありかたが、内と外両面から必要なのだ。その意味で講演の主査者はこの講演内容によって自らの課題を明確に出来たことを喜ぶべきだろう。

柄谷は、独裁者も専制君主もいないが現在の日本は専制主義だと言う。
テレビや新聞の統計調査や支持率(という名の専制君主)が一人歩きする社会で、代表制が空転している。デモやくじ引きを排除し、民主主義=選挙だと思ってしまっているかぎりそれは当然の帰結だ。
同時にネット上の匿名による中傷も相手にする必要がないと言う。
立場や発言の場が変わればどうせ意見を変えるだろうからだ。

結論として、 状況を変えるには中間団体を大事にするしか無い、それには顔見知りになる必要があると言う。
顔も知らないでアソシエーションなど不可能だと言う。
その発言のせいもあってか、ママキムチという韓国料理店で開かれたオフ会は盛況だった。 

※追記:

丸山の図は外周が円になっており、回転による移行を表現しやすくなっている。また原論文では矩形の変化で4つの要素の割合が個人個人で変わることを表現している。

(丸山が原論文で様々な可能性を示唆しているとはいえ、丸山が示した一般的順序とは逆回りに歴史は動いていると思う。明治維新及び民権運動D→強権による運動挫折A→私小説P→文芸協会や新しき村I。全共闘D→強権発動D→消費社会A→?と動いているからだ。むろん丸山の議論は単純ではない。大衆運動退潮期にはPへ、高揚期にはDへ移行するが、軸の位置は個人差があるという。さらに石川啄木をIの代表に挙げたのは卓見だし、Pに私小説と「成功青年」の2タイプを挙げたのは今日的でもある。)

さて、私見では4交換図はカントのカテゴリー論やマルクスの交換価値論にも対応する。


量  質

関係 様相


拡大された形態    縮小された価値形態


一般的等価形態      貨幣形態

あるいは、マルクス自身の章分けとは少し違うが、以下の解釈がわかりやすい。

等価形態         相対的価値形態
量=Y   Yb = xA    質=A
(※Y量の商品bと等価)  (x量の商品AはY量の‥※)

一般的価値形態  貨幣形態
関係       様相
L=a,        a,=G
b,        b,
c,        c,
d,,,       d,,,      

参照:武市健人(『大論理学』下解説)。

問題は貨幣形態にあたる部分だが、これはさらにパーソンズ流に分節化する必要があるだろう。カントが人間の義務とする、他者の幸福及び自己の完全生の検証には、カテゴリーの一部にすぎない(=不完全性)のか、それともカテゴリーに閉じ込められているのか(=不幸、これらはカテゴリーを越境し合う概念だ)が見分けられなければならないからだ。

また、ゲゼルの減価式への視界は貨幣形態の(技術的な部分での)分節化によって開ける。

カント自身は、理性的心理学(岩波文中p75)の命題を様相から量へ逆流させて考えている。
(あくまで量を起点にカントは考えている。**)

性質は内容量なのだから当然なのだが、価値形態論の場合は質による交換、量をはかった等価交換と進むので、質から量へと進む。

また以下のような哲学史見取り図も可能だ。

量            質
ヘーゲル        スピノザ
ライプニッツ      ニーチェ 
プラトン

関係           様相
デカルト        カント
マルクス        ハイデガー

主に実在論者が量質、唯名論者が関係様相に位置づけられる。
ドゥルーズは同時に質に位置づけられるが、フーコーとともに様相の思想家だと思う。


ライプニッツはスアレスの以下の原理を採用した。「全ての個体は、その存在全体によって個体化される Omne individuum sua tota entitate individuatur 」 

**「直観はすべて外延量である」(岩波文庫上p237)というのはカントの視覚中心主義を証明するものでしかないから、カント自身が『判断力批判』でおこなっているように質を直観を最初に置いても間違いではないと思う。
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by yojisekimoto | 2008-12-27 13:13 | 柄谷行人


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