フィジーの思い出と互酬性

数年前、ピースボート関連のボランティアでフィジーに行った時、事前に読んだ文献にサーリンズの著作があった。そこでカヴァという茶道に似た文化がフィジーにあることを知ったのだが、日本で本を読んでいるだけではいまいちイメージが掴めなかった。今考えると、それは神話を日常性のなかで反復することの意義は体感しないとわからないということだと思う。
以前も書いたがフィジーではカヴァという文化は日常的に生きており、体感することができた、、、、。

実はフィジーのカヴァは実は島々をつなぐ外来の文化であり、それが共同体の中に内部化されたのだ。それが証拠にカヴァを栽培できる島は本島から見て南の方にズレて存在する。

さて、これは柄谷行人が「at」誌上で展開する共同体論に確証を与える事例でもある。

柄谷もまた共同体と共同体の間にあるものとして互酬性を定義しているからだ。

ここで学問的な話を深める余裕はないが柄谷も参考にしたサーリンズの『石器時代の経済学』(邦訳p240)の図を以下に紹介しようと思う。
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柄谷がサーリンズと違って重視するのは第三(サージンズの図では第五番目)の周辺、部族間圏域である。
家族内の互酬性も柄谷に言わせれば、こうした外部の互酬性が内面化されたものだそうだ(2008長池講義)。これはニーチェが指摘するキリスト教における良心のやましさなどとも重なるのだろうが、その功罪を別として互酬性を(共同体を作りつづける)動的な力として捉えている点がニーチェ(というよりその源流であるスピノザと言いたいところだが)により近いと思う。

柄谷はさらに共同体における原父殺しをフロイトの超自我とつなげて、アソシエーションの契機と考えるのだが、これらはカント的な批判哲学を国家論へと応用するものであり、先に投稿したプルードンのカント解釈とも重なると思う。
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by yojisekimoto | 2009-01-16 22:55 | 柄谷行人


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