類的本質的存在と父母未生以前の私

柄谷行人は『世界共和国へ』(p190)でプルードンの「真実社会」なる用語がフォイエルバッハの「類的本質的存在」に近いと述べている。
フォイエルバッハはヘーゲルの弁証法を人間の手に取り戻したのだから、ある意味でこの解釈は正しい。

しかし『プルードン研究』(岩波)などを読むと、むしろフォイエルバッハとプルードンの差異こそが重要だということがわかる。プルードンはフォイエルバッハのように矛盾を揚棄しないからだ。

そうすると、先の柄谷の解釈はプルードンの唯物論が不徹底だと指摘するようなマルクスに近いということがわかる。
マルクスは自身が徹底したような唯物論がプルードンとフォイエルバッハに欠けていると考えている。最終的にプルードンは決定論をとらないからこれも正しい部分はあるが、マルクスは唯物論的ではあっても矛盾の揚棄という観念をヘーゲルとフォイエルバッハから受け継いでいるから、それをどう解釈するかで評価は一変する。

むしろ、個人的にはカントやフロイトの最良の部分を評価するなら、アンチノミーを維持したプルードンこそ現代的だと評価したい。

カントとヘーゲルの違いを一番端的に示すのがカントの『人倫の形而上学』とヘーゲルの『法の哲学』の構成の差異だ。ヘーゲルはカントの法論をそのまま受け継ぎ、カントにとっての道徳部分に国家を置き、なおかつ国家へのイントロダクションとしてカントの道徳を置き換えた。

つまり国家が矛盾を揚棄するという訳だ。

(このヘーゲルの認識はしかし、構造的な認識でもあるので安易に否定できない。これも柄谷が『トランスクリティーク』などで指摘するとおりだ。)

脱線したが、プルードンに話を戻すなら、彼の「真実社会」は「公認の世界」と対になるので、「現実の世界」と訳すべきだろう。マクロに対するミクロの優位性をプルードンは指摘しているのだ。

こう捉えると、「真実社会」は柄谷が最近強調する「中間団体」と考えた方が近いと思う。

また『世界共和国へ』では国家を国家間の関係として捉えないアナーキズムの欠点が指摘されていたが、晩年のプルードンはヨーロッパの複数の国家間の政治問題ばかり論じていたということも指摘しておきたい。つまりプルードンの揚棄されない現実社会と公認社会の矛盾の認識こそ、唯物論的であるのだ。


さて、夏目漱石が『門』で引用した禅の公案「父母未生以前の私」が最近気になり出した。
これは『正法眼蔵』第25渓声山色などで紹介された公案だが、この公案に答えられなかった僧侶は絵に描いた餅は食べることができないと絶望して(ここに類的本質的は存在しない)食事係になる。

この絵に描いた餅という比喩による問題設定は、新しくは先に触れた唯物論の優位性を指した言葉であるし、古くは普遍論争の実在論批判にもつながるだろう。

インドのヒンズー教と仏教の論争、カントの批判哲学とライプニッツの「実在論」との差異に、この「画餅」は立ちふさがっているのである。

一休さんが屏風のなかの虎を退治するから外に出して下さいと言ったときも同じ問題設定をしているのだ。
むろん絵が非現実で虎が現実だということではない。アンチノミーをつきつけられることが現実なのだ。
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by yojisekimoto | 2009-06-30 01:10 | 柄谷行人


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