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ポルフュリオスの木

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       存在(本質、一なるもの)
 
       実体      類
  (物質的)/ (非身体=天使)
      身体,有体的
 (動く)/        (非動的=石)
      動く動物   
(感じる)/         (感じない=植物)
      動物 感性的
(合理的)/       (非理性的=馬、他の種)
      人間       種
 sortes/   \plato   個
_______
第一実体、個物、この犬
第二実体、類
     種

3世紀にアリストテレスの実体論への注釈として書かれ、分類学のプロトタイプとして知られるポルフュリオス(Porfyrios)の木(Porphyrian tree ,Arbor porphyriana)は、イスラム哲学経由で西欧にアリストテレスが再発見された時期の中世普遍論争から、ハイデガーへ到る思想の縮図でもある。

本来は一なるもの、ens,本質からの流出論を表出したものであるが、その元となるアリストテレスの実体論(第一と第二実体に分かれる)の混乱から、現在も論争が絶えない。

廣松渉はリカードの労働価値説とベイリーのそれへの反論を、普遍論争の展開と看破した。
(新田滋『恐慌と秩序』及び廣松渉『資本論の哲学』参照。ただし価値形態論はより直接的にはカントのカテゴリー論の展開でもあるのだが、、)

だとするなら現在の経済学もポルフゥリオスの木が示唆するものは大きいはずだ。

追記:
エーコは邦訳『記号論と言語哲学』でポルフュリオスの木に反論している。
正確な分類のためには無形のレベルから枝が分かれるべきだし、(クリストファー・アレクサンダー流に)リゾーム状の分類も考えるべきだとするのだ。
エーコは「死すべき」人間と「不死的」な神も本来の位置にないとする。
エーコの馬との区別が出来ないとする批判には、区別するべきでないというニーチェ的反論があり得るし、リゾーム状の分類の可能性に関しては、もともとポルフュリオスは一なるものと存在を同一と見ることでアリストテレスの矛盾を解決しようとしたのだから、(これもまたクリストファー・アレクサンダー流に)ポルフュリオスの木の延長線上にリゾームも可能だと言えるのではないか?
また、「イサゴーゲー」でポルフュリオスは「逆述語」なる概念を提出しており、これはリゾームへの第一歩とも言えるだろう。


参考:

     実体      
     /\ 
物 体 的  非物体的
     \
     物体
     /\ 
 魂を持つ  魂のない
     \
     生物
     /\ 
感覚しうる  感覚しえない
     \
     動物
     /\
理 性 的  非理性的
     \
    理性的動物
     /\  
可 死 的  不 死 的
     \
     人間
      | 
    ソ プ そ
    ク ラ の
    ラ ト 他
    テ ン
    ス

中世以降「ポルプュリオスの樹」と呼ばれた図表の一例。たての3列のうち、まん中の列は実体の系列を、左右の列は種差をあらわす。例えば「可死的」は「理性的動物」の区分的差異で、「人間」の構成的差異でもある。」(「イサゴーケー」『世界の名著続2』p429より)

なお上記図はアリストテレスというよりも以下のようなソクラテス=プラトンの見解の図解でもある。

「一と無限の中間にある数のすべてをよく見るようにしなければならない。」(「ピレポス」『プラトン全集』第四巻p182)

最下部で神と人間を分けるのは、現実的なものに「神々を媒介的な自然の諸力」を見出した新プラトン派的思考の反映と考えられる(エーコ『記号論と言語鉄哲学』p120)。
これはスピノザを連想させるが、スピノザは新プラトン派が一なるものを神の定義とするのは定義として不十分と考えている。
by yojisekimoto | 2009-11-12 14:08 | 研究


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