エイゼンシュテインの立体映画論

3D映像の産業、商品化が著しい。
先日クローズアップ現代で早稲田の教授が、消費者、メーカー、クリエイターの三者のフィードバックの重要性を説いていた。
ここで思い出すのがエイゼンシュテインの立体映画論である(「立体映画について」『エイゼンシュテイン全集』第六巻、キネマ旬報社)。

エイゼンシュテインは人類の歴史を振り返り、演劇等を参照し、立体映画を歴史的に位置づけ正当化している(アウラの喪失を嘆いている閑がない?)。

そして最後に階級を越えたコミュニズムの理念に立体映画の理念を見出している(同じようにテレビの未来も考察している論文がある)。
そこには民衆の参加と主体化を促す意味がある。

先の教授の発言とも照らし合わせれば、売り手と買い手の間の、クリエイターの一人二役が重要になるということだと思う。
エイゼンシュテインは技術の供給側と需要側の立場を作り手の立場から横断するのだ。

『資本論』映画化のノートが時間軸における実験だとしたら、立体映画論は空間軸における実験の試みである。

実験段階を踏み越えた今、エイゼンシュテインの提言は重みを増している。

(追記:先日の記事に無理矢理つなげるなら、映像を量として把握することは3Dにしか出来ないことであり、オルタナティブな思考を現実化する上で必要なことだと思う。特に数学的思考は(リーマン予想をめぐる考察が顕著だが)数字を単に数としてだけでなく量として捉えることを要求する。)


以下、資料:キネマ旬報「立体映画について」「映画の未来」『エイゼンシュテイン全集6』(p278-280より)

「 立体映画への志向と社会的・階級的意義

 …動く人と把握する人、俳優と観客、観客と場面の現実とが「相互に入り込み合う」無数の試み。
 この要求を実現するために、すでに見てきたように、それぞれの歴史的な時代からどのようなものがそれを実現するかによって演劇史で最も奇妙な予期しない形式を獲得している。
「ポチョムキン」号の大砲の砲口と日本人の「花道」、フルテンバッハの劇場の環状建築、モスクヴィンの舞台トリック、ワルラーモフの舞台様式とビビアーナ=セルリオの中心に向かう遠近法的舞台装置……初期の芸術座の自然主義的特徴とエヴレイノフの「モノドラマ」の超象徴性……フットライト越しに投げられたすみれの花束、あるいはあまりにも劇的に確信のもてる悪人を観客が一撃で殺す一発、どれもみな私たちが見てきたように、同じ傾向に向かって動いている。
 そのような一般性、普遍性は無意識のうちに次の質問を抱かせる − この傾向はこのように演劇史の全プロセスで、完壁な自己の表現を探しているが、その傾向の基礎はどこに、何に根があるのだろうか?という質問である。
 この問いに対する解答を自分で得ようとするならば、なぜかという理由を別にして、この傾向がとくに力強く徹底的につぎ私たちの時代に向かう過渡期にちょうど現れているということを思い出すといいだろう。
 ここでは、このような演劇芸術における「統一」の確立と「結合」の熱心な試みは、決して偶然なものではない。
 個人と社会の、社会と個人の原則の統一という空想を実現したいという要求は、まず第一にこうした試みの裏面史に奉仕しているし、その統一の喪失は、資本主義の高度の発展段階、明白に暴露された強盗的帝国主義へ資本主義が移行する時代に、不可避的なものだった。
 十九世紀から私たちの時代にかけて認められた超個人主義、自己中心主義、果てしないエゴイズムのさかんな開花は、この段階と離れがたく結びついている。
(中略)
 そのような結合に向かう、明白な傾向は過去の世紀を通じて、芸術の分野で美学的な気まぐれの突発的現象として現れたものでは決してない。ずっと深い願望の突発が反映したものとみなされている − つまり、その願望とは、分裂した最初の集団的統一の分裂を克服しようという、より広範な願望である。搾取するものと搾取されるものへの階級の分裂、生産する階級とただ消費する階級への分裂と分化の時期から始まり、初期の階級が社会的に統一されていた状態に向かい、悲劇的な分断を克服しようとする不断の願望である。
 初期の演劇が、観客は「消費」し、演劇人はスペクタクルを「生産する」というグループに分裂していったことは、以上のことの何とも驚くべき反映と思われる。
 いま地球の六分の一では階級制度が終局的に転覆され、ソヴィエト労働国家における市民の生産と消費の多様な形態が、消費者と生産者の理解を新しく再結合しているし、一方では、共産主義に移行する社会主義社会の状況下で、各個人がはじめて集団と確実に一つとなり」離れがたくなる時期に向かっている。そういう時期に向かい − とくにこの国の技術的開発に関する考え方は、芸術の分野に新しい多様性をもち込み − 立体映画をももたらしたが、この立体映画は、根元的なところで生物学や心理学の分野ではなく、社会的事業の分野に入っていく再結合への願望が、より完全な形象的具体化を可能とする技術的現象の、最も単純な基礎でさえありうるのである。これは何と驚くべきことではないだろうか。
 いくつかの共通の判断がある。たとえば、それは立体映画の諸原則がもつ確実な生活力の強さを私たちにじゅうぶん考えさせるように思える。私たちが見たように、立体映画はその技術的可能性の本質によって、階級社会の廃止、無階級社会へ進むプロセスにおける人類の志向のより深く力強い傾向の一つを美学的に反映した形象、それを私たちに示すように見える。(以下略)」
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by yojisekimoto | 2009-12-17 12:59 | 映画


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