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パスカルとライプニッツとヴァレリー:メモ

「幾何学的精神」と信仰を一致させようとしたパスカルをライプニッツは受け継いだ。
実際、微分と積分の発見もパリ時代にパスカルの「四分円の正弦論」*を読んだことに起因している。

彼らはともに理性と信仰を一致させようと苦労したのだ。そして、そんな彼らの心情を表現するのにぴったりの言葉がある。

「神は測度と数と重さに従ってすべてを秩序づけた(Numero pondere et mensura Deus omnia condidit,God created everything by number, weight and measure.)」(旧約外典「ソロモンの知恵」11:20or21)という聖書の言葉である。

この言葉を、パスカルは「幾何学的精神について」**で、ライプニッツは「普遍的記述法」***で引用しているし、ニュートンも引用しているらしい(一部ではニュートンの言葉だと思われている節がある)。

さて、パスカルの「人間は考える葦(un roseau pensant)である言葉も聖書に関連するらしいが****、そこにはやはり無限に関する数学的考察が背景としてあるということが特筆される。

パスカルが無限と有限の間に掛けた思考としては、例えば以下のようなものがある。

                           1
                         1   1
                       1   2   1
                     1   3   3   1
                   1   4   6   4   1
                 1   5  10  10   5   1

Leibniz and Pascal Triangles (an Interactive Gizmo)
http://www.cut-the-knot.org/Curriculum/Combinatorics/LeibnitzTriangle.shtml

パスカルは次元と次元の間に断絶を見たらしいが、上記の「パスカルの三角形」は奇数を塗りつぶせば小数点以下の次元を表現するフラクタル図形を顕現させる。

そしてパスカルは賭博論で確率に関する議論で現代を先取りしたことも重要だ(オイラーはライプニッツを位置解析学の先駆者と見るが〜これはグラフ理論の先駆ということでもある〜、パスカルはゲーム理論の先駆者かもしれない)。

数学と信仰というより理性と信仰、または理性と倫理の一致は現代でも課題となるものであろうが、その時現代人の胸に、パスカルが無限の宇宙を前にして震えたことが想起されていいだろう。


注:

**共に人文書院版全集1巻所収
***著作集10巻所収(この三つの中で「数字」をライプニッツは特権視する。デカルトも同じ箇所を『世界論』または『宇宙論』第7章終盤で引用しているので科学者の合い言葉のようなものだったということだろう。)
****「人間は考える葦である」という言葉は、岩波新書『パスカル』(p.5)では以下のようにイザヤ書と関連していると指摘されている。

イザヤ書
http://bible.50webs.org/sj/isaiah.html

第40章
40:6声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。 40:7主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに 人 は 草 だ 。 40:8草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

第42章
42:1わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。 42:2彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、 42:3また 傷 つ い た 葦 を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。

追記:
ニュートンが微分(流率)をライプニッツが積分を発見したと大雑把に考えていいが、今日広く使われる記載法は(両者の逆数としての関係性をあらわしやすいことにも起因するだろうが)ライプニッツが考案したものである。

(さて、積分の発見に寄与したサイクロイドに関する論文をパスカルが歯の痛みを克服しながら考えたというエピソードはドストエフスキーの『地下室の手記』を想起させる。そうなるとニーチェや現代的無神論の先駆者としてパスカルを考えていいかも知れない。)

「パスカルはアナーキストの典型だ。それはわたしがパスカルの内に見出す、最良の部分だ。
<<アナーキスト>>とは、人間が習慣的に見るものではなく、自分の眼が見るところのものを見る人である。
 パスカルはこの問題について考えている。」(ポール・ヴァレリー『純粋および応用アナーキー原理』筑摩、邦訳p.13より)

ヴァレリーはこう述べているが、彼の言うアナーキーとは「証明不能なものの命令に服従することを一切拒絶する各個の姿勢である」(同p.14)だそうだ。
by yojisekimoto | 2010-01-13 00:04 | ライプニッツ


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