カテゴリ:ニーチェ( 6 )

ツァラトゥストラ


http://www.youtube.com/watch?v=yHFIp4ZJnJo

100分de名著 ニーチェ「ツァラトゥストラ」 アニメ部分抜粋

アニメを見て初めてニーチェのこの作品に関してわかった部分がある。
来月(2013年5月)には同じ番組の枠で老子が特集されるらしい。
多分同じスタッフがアニメを作るのだが、どんなアニメが作られるか今から楽しみだ。

   ____________

http://v.youku.com/v_show/id_XMzA1OTIzNTU2.html?x
4:30~7:30概略、21:27~22:35序説蜂蜜
http://v.youku.com/v_show/id_XMzA1OTE2NjA0.html?x
3:00~5:00序説神の死、16:43~18:25序説綱渡り
http://v.youku.com/v_show/id_XMzA1OTA0NjA0.html?x
4:13~5:30第三部幻影と謎より牧人と永劫回帰、(参考13:17~14:53深夜の鐘の歌)
http://v.youku.com/v_show/id_XMzA1ODgwNTQw.html?x
(アニメなし)

アニメーション制作:ケシュ#203(=仲井陽&田中希代子)
ナレーション:甲斐田裕子
[PR]
by yojisekimoto | 2013-04-27 00:46 | ニーチェ

(君は永劫回帰を信じるのか?)

タルコフスキーは遺作にニーチェの名を出している。

http://www.youtube.com/watch?v=FcBzwWYUdnU&t=5m45s




「時々奇妙なことを考えるんです
例えばあの小人です
ニーチェが書いてるじゃないですか
ツァラトゥストラを気絶させた奴です

(ニーチェを知っているのか?)

会ったことはありません
勉強したわけじゃないんで

時々妙なことが頭に浮かびます
永劫回帰のような

(君は永劫回帰を信じるのか?)

ええ時には信じます」


追記:



「僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ! 僕には先駆者がいるのだ、なんという先駆者だろう! 僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいまスピノザをもとめたというのは、ひとつの「本能的な行為」であったのだ。彼の傾向がすべて、――認識をもっとも力づよい情熱とする――僕の傾向にそっくりというだけではない。彼の説の五つの主要な点に僕は僕の姿をみたのだ。この最も異質な最も孤独な思想家は、まさに僕にもっとも近い、――彼は意志の自由を否定する、目的を、道徳的世界秩序を、非利己的なものを、そして悪を否定する。………つまりだね、高い高い山に登った時のように、ときどき僕の息を詰まらせたり、僕の血を流させたりした僕の孤独が、少なくともいまは、二人連れの孤独なのだ――ふしぎだね!」
(ニーチェ。1881年、オーヴァーベック宛て書簡。ちくま文庫ニーチェ全集別巻1上500頁より)

ヨベル『異端の系譜』によれば、のちにニーチェの力への意志がスピノザのコナトゥスに、運命愛が知的愛に対抗して提出される。
[PR]
by yojisekimoto | 2012-01-31 00:08 | ニーチェ

言語の強制、言語の牢獄

以下、ニーチェ『権力への意志』(ちくま文庫ニーチェ全集13、59頁 原佑=訳。522)より。

 根本解決。〜〜私たちは理性を信じている。しかしこのものは灰色の概念の哲学である。
言語はこのうえなく幼稚な先入見にもとづいて組み立てられている。
 ところが私たちは不調和や問題を事物のうちへと読み入れる、というのは、私たちは言語
の形式でのみ思考するからである〜〜かくして「理性」の「永遠の真理」を信ずるのである
(たとえば、主語、述語その他を)。
 私たちは、私たちが言語の強制をうけて思考することを欲しないならば、思考することを
やめる。私たちは、ここで限界を限界としてみとめるべきではなかろうかと疑うところに、
どうやら達している。
 合理的思考とは、私たちが放棄することのできない図式にしたがって解釈することである。


訳者がカントを訳した人でもあるので、かなりカントに近い。同じ箇所の後半をジェイムソンが『言語の牢獄』の冒頭に掲げている。
その訳(法政大学出版、川口喬一=訳)は以下。

言語の牢獄の中で思考することを拒否するのであれば、われわれは思考そのものを停止し
なければならない。というのは、われわれに限界と見えているものが本当に限界であるの
かどうかを問うてみること、われわれにできるのはせいぜいそこまでで、それを越えるこ
とはできないからだ。

英語からの重訳で『言語の牢獄』なるキャッチフレーズ=イメージが強調されているが(参考)、客観的に見てもやはり驚くほどカントに近い認識だ。
大陸の論理学(意味)かイギリスの言語学(言語)かというアンチノミーのアウフヘーベンをジェイムソンは最終的に信じているが、ここでカントからニーチェへ続くアウフヘーベンの断念、アンチノミーの維持の系譜が読み取れる。これはドゥルーズがヘーゲルに対立させたもので、プルードン評価の肝になる部分である。
[PR]
by yojisekimoto | 2011-06-07 18:09 | ニーチェ

ニーチェと永劫回帰:デューリング再考

シュタイナーによれば、ニーチェはデューリングから永劫回帰のアイデアを得たと言う(シュタイナー『ニーチェ』)。ニーチェの蔵書のなかにあるデューリングの著書にはニーチェの書き込みが残っているのだ。

ニーチェはデューリングの『厳密な科学的世界観と生命形成論としての哲学教程』(1875年)における記述の否定的記述から永劫回帰の説をあみだしたことになる(邦訳シュタイナー『ニーチェ』p197)。現在の一瞬を極小小粒子の特定の連関結合(Kombination)として描いている点が(同p195)スピノザよりもライプニッツに近いかも知れない。

以下、邦訳シュタイナー『ニーチェ』(p198-199)より(ドイツ語原文は以下のサイトから追加した。http://www.archive.org/stream/cursusderphiloso00dhuoft/cursusderphiloso00dhuoft_djvu.txt,pp.84-85))。

<デューリングはこう述べている(引用者注:原著84頁にあるという)、『したがって意識を有するすべての生命のより深い理論的根底として、言葉のもっとも厳密な意味における、被造物の無窮性が要求される。つねに新しい形態を送り出すこの無限性の存立は、それ自体可能であろうか? 物質の粒子の数やエネルギーの総量が考慮されると、空間と時間という恒常的媒介が無制限のヴァリエイションを保証せぬかぎり、粒子連関結合の無限反復は不可能となるだろう。有限数の存在からはやはり有限数の結合しか生じえないのだ。しかし本質との矛盾を来すことなく、たしかに有限数の存在ではないと想像されうるような存在があるとすれば、その存在からは、無制限の多様性を持つ状態や連関が生じうるにちがいない。そうなると我々が宇宙の形成の摂理のために要求しているこのの無限性は、どんな変化をLも可能にし、一定期間ほぼ不変の状態を出現させたり、あるいは完全な自己同一性をすら可能にするだろう。ーーもっとも、すべての変化が停止することだけは不可能であるが。この無限性を有する原初状態に対応した存在の、表象を得んとする者が反省すべきことは、時間的展開の真の方向性がただ一つしか存在しないということと、因果も同様この方向に沿って生じているということである。相異を曖昧にすることの方が、明確にとらえることより易しいものである。相異による間隙を跳び越えて、結末を発端からの類推によって想像することはたやすいことである。しかし我々はそのような浅薄な短絡は慎もうでほないか。なぜなら宇宙の中にいったん生じた存在は、どれも同じ取るに足らぬ日常茶飯事などではなく、我々がそこから帰納や予測を行う、唯一無二の確実かつ明白な根拠であるのだから(後略)("Der tiefere logische Grund alles bewussten Lebens fordert daher im strengsten Sinne des Worts eine ünerschöpflichkeit der Gebilde. Ist diese Unendlichkeit, vermöge deren immer neue Formen hervorgetrieben werden, an sich möglich? Die blosse Zahl der materiellen Theile und Kraftelemente würde an sich die unendliche Häufung der Combinationen ausschliessen , wenn nicht das stetige Medium des Raumes und der Zeit eine Unbeschränktheit der Variationen verbürgte. Aus dem, was zählbar ist, Tiann auch nur eine erschöpfbare Anzahl von Combinationen folgen. Aus dem aber, was seinem Wesen nach ohne Widerspruch gar nicht als etwas Zählbares concipirt werden darf, muss auch die unbeschränkte Mannichfaltigkeit der Lagen und Beziehungen hervorgehen können. Diese Unbeschränktheit, die wir für das Schicksal der Gestaltungen des Universums in Anspruch nehmen, ist nun mit jeder Wandlung und selbst mit dem Eintreten eines Intervalls der annähernden Beharrung oder der vollständigen Sichselbstgleichheit, aber nicht mit dem Aufhören alles Wandels verträglich. Wer die Vorstellung von einem Sein cultiviren möchte, welches dem Ursprungszustande entspricht, sei daran erinnert, dass die zeitliche Entwicklung nur eine einzige reale Richtung hat, und dass die Causalität ebenfalls dieser Richtung gemäss ist. Es ist leichter, die Unterschiede zu verwischen, als sie festzuhalten, und es kostet daher wenig Mühe, mit Hinwegsetzung über die Kluft das Ende nach Analogie des Anfangs zu imaginiren. Hüten wir uns jedoch vor solchen oberflächlichen Voreiligkeiten; denn die einmal gegebene Existenz des Universums ist keine gleichgültige Episode zwischen zwei Zuständen der Nacht, sondern der einzige feste und lichte Grund, von dem aus wir unsere Rückschlüsse und Vorwegnahmen bewerkstelligen. "』。デューリングは、状態の永続的反復は人生にとって何の魅力もないと考えている。彼はこう述べているのだ。『生に魅力が必要であるという原則は、同一形態の永遠の反復とは相容れないことがこれで自明のこととなった("Nun versteht es sich von selbst, dass die Principien des Lebensreizes mit ewiger Wiederholung derselben Formen nicht verträglich sind. ")』と。
 デューリングが数学的に考察し、その結果をありありと異様な像に描いてみせながら、自分でもおぞましく顔をそむけて否定し去った見解に、ニーチェは結局己れの自然観を通じて肯定的に到達したのである。
 私(引用者注:シュタイナーのこと)の論文からの引用をさらに続けよう。
 「物質粒子とエネルギーに関し有限回の連関結合のみが可能であると仮定した場合、我々はまたもやニーチェの(同一事象の反復回帰〉の考えを見い出すことになる。つまりデューリングの見解から採った、ほかならぬ正反対の結論が、ニーチェによって弁護されている一節を、アフォリズム203(ケーゲル版のー二巻とホルネッファーの著作『ニーチェの永劫回帰説』の中のアフォリズム22)の中に見い出すことができるのである。『エネルギーの総和は一定であり、(無限)ではない。その種のいい加減な概念上の逸脱は慎もう! したがってたしかにこのエネルギーの状態や変化や結合や展開の数は、途方もなく大きなものであり実際上(測り難い)けれども、やはりそれでもともかく一定であり無限ではないのだ。すなわちエネルギーは永劫に同一であり永劫に動的である。ーー今のこの一瞬に至るまですでに一つの無限が経過したのである。すなわちあらゆる可能な限りの展開がすでに存在したにちがいないのだ。したがって今現在の展開は一つの反復であるにちがいなく、今を産んだ展開も今から生じる展開も同じことであって、未来も過去も果てしない反復の連続であるのだ(略)」>

まとめるなら、<シュタイナーの解釈によれば、(略)進化論からは「超人」思想を、そしてエネルギー総和の一定説からは「永劫回帰」の思想を生みださざるをえなかった「同時代との闘争者」なのである。>(シュタイナー『ニーチェ』p217解説より)ということらしい。
ただし、「霊人」ではなく「超人」であるところにニーチェの限界がある(同書p197)。

ちなみに、エンゲルスは主にこの本に抗するようにして『空想から科学へ』の前身となる『反デューリング論』(1877年、序論と社会主義論である第三部が後にまとめられた)を書いた。
そこにはマルクスがプルードンに対してなしたような自己欺瞞と剽窃がある。例えばエンゲルスの『自然弁証法』Dialektik der Natur 1873 〜1886のタイトルはあきらかにデューリングの『自然的弁証法』Naturliche Dialektik, 1865を意識している。

デューリングの上記書籍は最近ドイツで復刊された。
" Cursus der Philosophie als streng wissenschaftliche Weltanschauung und Lebensgestaltung"Dühring, E. (1875)、
(邦題は『厳密な科学的世界観と生命形成論としての哲学教程』あるいは『哲学教程,厳密な科学的世界観および生命形成論として』(1875) とも表記される。)

現状における無理解を改めるためにも、またニーチェの思考の跡を確かめるためにもドイツ語板の復刊は重要だし、邦訳を望みたい。
[PR]
by yojisekimoto | 2009-12-11 10:23 | ニーチェ

ニーチェとライプニッツ

永劫回帰の発見以後の1886年、ニーチェはライプニッツによる「意識は表象の一偶有性にすぎない」というテーゼを賞賛している(『悦ばしい知識』第5章「われら恐れを知らぬ者」357、講談社学術文庫『ニーチェ』山崎庸佑p338参照)。

アガンベンやカウルバッハがしたようにライプニッツの先見性が見直されるべきだろう。

参考:
http://d.hatena.ne.jp/m-takeda/20060914/p1

『バートルビー 偶然性について
<つまるところ、ツァラトゥストラの永遠回帰は、ライプニッツの『弁神論』の無神論的な変種でしかない。それは、ピラミッドの一部屋一部屋のなかには起こったことの繰り返しだけをつねに見て、そのことによってのみ、現実の世界と可能世界のあいだの差異を抹消して世界に潜勢力を回復する。ニーチェの決定的な経験を、はじめて、それもほとんど同じ用語を用いて定式化したのがまさにライプニッツだということも偶然ではない。「人類が、現在ある状態に充分に長く持続すれば、個人の生までもが些末な細部に至るまで同じ状態であらためて起こるという瞬間が必ずや到来するだろう。私自身も、このハノーファーという名の都市にいて、ライネ河の河岸でブラウンシュヴァイクの歴史の研究に取り組み、同じ友人たちに同じ意味の手紙を書いているところだろう」。

 筆生バートルビーが、筆写を放棄することを決心する瞬間まで固執しているのがこの解決法である。ベンヤミンは、永遠回帰を居残りの罰課Strafe des Nachsitzens、怠慢な生徒に教師が課す、同じ文章を何度も筆写させる罰課に喩えたことがあるが、そのときベンヤミンは筆写と永遠回帰とのあいだにある内密の照応関係を発見している。(「永遠回帰とは、宇宙に投影された筆写である。人間は、自分のテクストを終わりなく反復して筆写しなければならない」。)かつてあったことの無限の反復は、存在しないことができるという潜勢力を完全に放棄している。その執拗な筆写にあっては、アリストテレスの偶然的なものにおけるのと同じように、「非の潜勢力という状態にあるものが何もなくなる」のだ。潜勢力への意志とは、じつは意志への意志であり、永遠に反復される現勢力であり、反復されることでのみ潜勢力を回復される現勢力なのだ。筆生が筆写をやめ、「筆写を放棄」しなければならないのはそのためである。p77-78>


(アガンベンにはさらにライプニッツの論理学的「ピラミッド」への批判がある。
http://takakuwa.at.infoseek.co.jp/texts/fff.html#27
<[...] ライプニッツは次のように想像する. デルポイの神託でアポロンはセクストゥス・タルクィニウスに対して, ローマ王になれば不幸に見舞われるだろうと告げたが, この応えに満足しなかった彼はドドネのユピテルの神殿におもむき, 自分を悪人へと運命づけた神を責め, その運命を変えてほしいと, あるいはせめて間違いを認めてほしいと言う. ユピテルがこの頼みを拒絶し, ローマをあきらめるようにあらためて言うと, セクストゥスは神殿を退出して, 自分の運命に身をまかせてしまう. しかし, この光景に立ちあっていたドドネの司祭テオドロスが, この件についてさらに知りたいと思う. 彼はユピテルの勧めにしたがってアテナイのパラス神殿におもむき, そこで深い眠りに落ち, 夢のなかで見知らぬ国に運ばれていった. そこで女神パラスが見せてくれたのが〈運命の宮殿〉である. それは輝く頂上のある巨大なピラミッドで, その基礎は無限に下に続いている. 宮殿の部屋は無数にあり, そのそれぞれがセクストゥスの可能な運命のそれぞれを表している. それぞれの可能な, だが現実のものとはならなかった世界がそのそれぞれに対応する. その一室にテオドロスは, セクストゥスが神に説得されて神殿から出てくるところを見る. そこでは, セクストゥスはコリントスに行き, 小さな庭を買っている. 庭を耕すうちに彼は財宝を発見する. 彼は誰からも愛され重きを置かれて, そこで, 老年まで幸福に暮らす. また別の部屋を見ると, セクストゥスはトラキアにいて, そこで王の娘と結婚して王座を継承し, 民衆に敬慕される幸福な主権者になっている. また別の部屋を見ると, 彼が送っているのは平凡な人生だが, 苦痛はない. このようにして, 部屋から部屋へ, ある可能な運命から別の可能な運命へと続いている.「部屋はピラミッド状になっていた. 頂上に向かうにつれて部屋は美しくなり, それはより美しい世界を表していた. そしてついに, ピラミッドの終わりの, 最上階の部屋にたどりついた. それはあらゆる部屋のなかで最も輝かしい部屋だった. というのも, ピラミッドには始まりはあったが, 終わりは見えなかったからだ. つまり, ピラミッドには頂上はあったが, 基礎はまったくなかった. 下は限りなく大きくなっていたからだ. それは, 女神の説明によれば, 無限にある可能世界のなかには, 最善の世界が1つあるからであり, さもなければ, 神は世界を創造しようと決定することもなかっただろうというのだ. だが, 自分より完成度の劣る世界をもたない世界は1つもない. ピラミッドが終わりなく下に向かって続いているのはそのためである. その最上階の部屋に入ると, テオドロスは恍惚に我を忘れた [...]. 我々は真の現実の世界にあり, おまえたちは今, 幸福の源そのものにある, と女神は言った. これが, おまえたちが忠実に仕えるならユピテルが用意してくれるものだ. そしてこちらが今あるセクストゥス, 現実のこれからのセクストゥスである. 彼はすっかり怒って神殿を退出し, 神々の助言を軽んじている. 見よ, セクストゥスがローマに行き, いたるところで混乱の種をまき, 友人の妻を犯している. ほら, 父とともに追放され, 戦に敗れて不幸になっている. もし, ここでユピテルが, コリントスにいる幸福なセクストゥス, トラキアで王となっているセクストゥスを選んでいたなら, このような世界にはならなかったであろう. だが, 彼はこの世界を選ぶより他はなかった. この世界は他のあらゆる世界を超えて完璧な, ピラミッドの頂点を占める世界なのだ」>

http://essentia.exblog.jp/2934781/
フリードリヒ・カウルバッハFriedrich Kaulbach『ニーチェにおけるモナドロギー』
<普遍的存在と個体的存在の関係について、ニーチェとライプニッツのバランス感覚は驚くほど良く似ています。ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』などを読むと、「スピノザがドイツ観念論の王様だ」ということになるのですが、ニーチェにおける「普遍的存在と個体的存在との構造関係」はライプニッツなのです。ニーチェの哲学において、ニーチェやキリストやソクラテスのような個人一人一人は、決して「没個性」の存在ではなく、個として輝かしい光を放ちうる存在です。それは「個という名のモナドであり、形而上学的点である」と評されて、全く問題ありません。

もちろん、『弁神論』を著して神の存在を擁護し、予定調和を説くライプニッツは、ニーチェから「背後世界論者」として批判されます。つまり、「世界の意味付け」の段階で、ニーチェとライプニッツは乖離するのです。「世界の構造」に関しては、ニーチェは驚くほどライプニッツ的だと思います。>


ただし、先に示したようにニーチェはライプニッツに関しては自覚的だったと見ていい。
ハイデッガーが強調するように(ハイデガー『ニーチェ』第三巻では最後にライプニッツの24命題が引用される)論理学的な認識の果に、論理学を否定、逸脱する力をそこにみるべきなのだろう。
個人的にはヘーゲル経由でスピノザが誤解されていることが多いので、ライプニッツよりもスピノザの影響を強調したい。なぜならニーチェの永劫回帰はライプニッツ経由の論理学的なものというよりはスピノザの無限理解に基づいたより数学的なものだからだ(スピノザの「神への(知的な)愛」は幾何学に基礎を持っていた)。

ニーチェをカントの批判の延長と考えた(ニーチェの仮想敵はカントであるのは間違いない)ドゥルーズもスピノザとニーチェに言及しながらそのことを強調しているように思えるが、柄谷行人の方が明確にスピノザの無限に関して書いているので(『探究2』)今後のニーチェ読解により有効だと思う。

(ドゥルーズの批判を援用し、ニーチェが様態による逆転を目指し、想像力を擁護することを協調するならばニーチェはネグリあたりと近いということになる。)

また、ニーチェの歴史的なものに対する戦いは、題材は違っていても、スピノザの『神学政治論』にその理想的な形を見出せると思う。
[PR]
by yojisekimoto | 2008-09-29 22:10 | ニーチェ

ニーチェとスピノザ

a0024841_2252363.jpg

上の写真は、1881年8月、ニーチェが永劫回帰を思いついて立ち止まった場所だそうです(清水真木『ニーチェ』p97より)。

<根本概念「永劫回帰思想」は、これまで達することのできなかった至高の肯定である。この考えがひらめいたのは、1881年の8月のことであった。わたしは1 枚の紙切れに、大急ぎでメモをとり、追記として「人間と時間とを超えて横たわる六千フィート」と書いた。その日わたしは、シルヴァプラーナ湖のそばの林を散歩していた。わたしはスルライ村からさほど離れていない大きなピラミッド型をした岩のそばで立ち止まった。まさにそのとき、この考えがひらめいたのであった。>
(『この人を見よ』より 参考:http://blog.tane1q.com/?eid=536744)

ちなみに、永劫回帰を思いついた直前、ニーチェはスピノザを発見しています。
ニーチェとスピノザに関しては、(すぐにニーチェがスピノザの理性主義に反発して決別するので無理もないですが)入門書ではほとんど語られないが最重要項目だと思います。
(それでも講談社学術文庫『ニーチェ』(山崎庸佑)、中公新書『ニーチェ』(藤田健治)は少しスピノザに言及していますが。)

1881年(7月30日=永劫回帰発見の直前)のニーチェのスピノザ評は以下です。

<僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ。僕には先駆者がいたんだ、なんという先駆者だろう。
僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいまスピノザを(読んで)認めるまで。………彼の説の五つの主要な点に僕は僕の姿を見た。この最も異質な最も孤独な思想家は、まさに僕にもっとも近いのだ。
………つまりだね、高い高い山に登った時のように、ときどき僕の息を苦しくさせたり、僕の血を流させたりした僕の孤独が、すくなくとも(スピノザを読んだ)いまは、二人連れの孤独になったんだ——不思議だね!>
(ニーチェ。1881年7月30日、オーヴァーベック宛て書簡、ちくま学芸文庫『ニーチェ全集』別巻一、p500参照)

スピノザとニーチェには、神への愛と運命への愛、コナトゥスと力への意志、隠者=ツァラツストゥラといった相似点,論点が見出せます。
以下、ヨベル『異端の系譜』(p460)より。

<おそらくは両者の印象的な「二人の孤独」のゆえに、スピノザの姿は絶えずニーチェにつきまとっていた。
「隠者よ、私はあなたの正体を見抜いた[すなわち、仮面を剥ぎ取った]だろうか」
彼は実際に正体を見抜いたのだろうか。
と、「スピノザに」という詩のなかで彼は問いかけている。

「一者こそすべて」に愛の面ざしを向け
<神への愛>に酔い、知のもたらす至福に浸るーー
さあ、靴を脱げ! これは至純の聖なる土地なのだからーー
ーーしかし、この愛の下には秘かに、焼き尽くす、
復讐の炎が燃えさかっていた、
ユダヤ人の憎悪によって焼き尽くされたユダヤの神…
隠者よ! 私はあなたの正体を見抜いただろうか?

      (ニーチェ貢作集[ライプチヒ、クレーナ一社]第八巻、三六九頁
[邦訳、ニーチェ全詩集、人文書院、二二七頁]、英訳は引用者による)

スピノザについてのニーチェの評言のいくつかは、彼自身にも同じように当てはまるだろう。「病気の隠者」とニーチェはスピノザのことを呼び、詮索好きな俗世間から自分の最も個人的な哲学を隠すために「仮の衣装」(彼の幾何学的方法)を身につけていた「内気」で「傷つきやすい」人間、とスピノザを評している。比喩の方向を変えて、ニーチェはまたスピノザの仮面を「貞操帯」とも呼び、彼の個人的な哲学を「一人の処女」と称している。性的なほのめかしは再び、この二人の独身哲学者(これはニーチェが他のところで強調している類似点である)の双方に当てはまるのであって、それは「隠者」という言葉にさらに多くの光を投じている。>
[PR]
by yojisekimoto | 2008-09-28 22:50 | ニーチェ