カテゴリ:映画( 30 )

『新婚道中記』(1937)

レオ・マッケリー『新婚道中記』1937


雑誌「nobody#34」で哲学者のスタンレー・カヴェルがこの映画の最後の10分を絶賛している。
カヴェルはジャンルの形式に関心があるようだ。アメリカ超越主義を論理的かつ教養主義的に擁護するアメリカの小林秀雄みたいな人だが、そこではやはりシェークスピアが規範となる("The World Viewed"では『ゲームの規則』のラストが同じように賞賛されていた)。
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by yojisekimoto | 2010-11-02 06:15 | 映画

ROMANCE SENTIMENTALE (1930 - Aleksandrov - Eisenstein)

ブニュエルが自伝で激怒したと証言しているエイゼンシュテインが協力した映画。
助監督の仕事とされるが、エイゼンシュテインらしいカットも見受けられる。
雇われ仕事(今でいうPV)とされるが、彼の最初のトーキー作品でもある。
タルコフスキーの描いたような亡命ロシア人の悲哀にアプローチしていると考えると、別の感想も湧く。
ROMANCE SENTIMENTALE (1930 - Aleksandrov - Eisenstein) 1/2
http://www.youtube.com/watch?v=9_NLXmJVBGM

ROMANCE SENTIMENTALE (1930 - Aleksandrov - Eisenstein) 2/2
http://www.youtube.com/watch?v=0EjmmgIjvFY

アメリカで、実験映画のアンソロジーDVDに収録、販売されている。
http://www.amazon.com/gp/product/B0009PW450/
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by yojisekimoto | 2010-09-09 23:59 | 映画

Maya Deren

http://www.imageforum.co.jp/deren/about.html
In the Mirror of Maya Deren

In the Mirror of Maya Deren (Full) [DVD] [Import]

Zeitgeist Films

スコア:








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by yojisekimoto | 2010-09-09 22:15 | 映画

セイレーンと啓蒙の概念


アドルノは『啓蒙の弁証法』でオデュッセウスを論じ、セイレーンについて触れた部分では、オデュッセウスを精神労働、乗組員を肉体労働者としている。神話が啓蒙のはじまりでもあり、啓蒙の行き着く先が神話だとするアドルノの二重の態度はわかりにくいが、この『啓蒙の弁証法』における指摘は分かりやすく興味深い。

<オデュッセウスは歌声を聞く。だが、彼はマストにつけられたままだ。(略)自らは歌を聞くことがない仲間たちは、歌の危険を知っているだけでその美を知らない。オデュッセウスと自らを救うために、かれらはオデュッセウスをマストに縛ったままにしておく。(略)縛られている者はいわばコンサート会場にいる。のちの聴衆のように身じろぎもせず、じっと耳を澄まして。(略)こうして先史世界との離別に際して、芸術の享受と肉体労働とは別々の道を歩むのである。>
(岩波文庫『啓蒙の弁証法』p.74-5 及び『現代思想の冒険者たち アドルノ』p.153-4参照。同書p.115によると、ベンヤミンの掌編「フランツ・カフカ」におけるセイレーンについての記述がアドルノのモチーフになっている。)

ちなみに、スピノザは『神学政治論』で社会契約の重要性の一例として船員が約束を守って縄をほどかないエピソードを扱っていた。

冒頭の動画は『オデュッセウス』(テリー・イングラム監督、2008年)より。原作に忠実なコンチャロフスキー版の方が出来がいいが、セイレーンのエピソードはこの映画にしかない(ただしこの映画は、耳栓用の蜜蝋がなくなるところなど原作に忠実なのは途中までですぐにホラー映画になってしまう。なお超大作のカーク・ダグラス版(追加↓)はセイレーンの描写はあるが残念ながら日本語版が出ていない)。


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by yojisekimoto | 2010-04-28 20:05 | 映画

Bartleby

メルビル原作『バートルビ Bartleby』。
アガンベン、ジジェクが論じていることからもわかるように、最近は『白鯨』より言及されることが多い。
youtubeでポール・スコフィールド主演のバージョンを探したがこれしかなかった。
ジジェクによれば『サイコ』に主演したアンソニー・ホプキンス主演のバートルビがネット上で「潜勢的に」熱望されていると言う。



「バートルビは述語を否定するのではない。かれは、むしろ、否定された述語を肯定しているのである。」
(ジジェク『パララックス・ヴュー』p677)

邦訳『パララックス・ヴュー』主要言及映画リスト

本文:
キェシロフスキ(『カメラマニア』p60,『十戒』p134他)
『ジョーズ』p71
ヒッチコック(『白い恐怖』『汚名』p84『マーニー』p85『サイコ』p565,683,『北北西に進路を取れ』p620)
ベルイマン(『秋のソナタ』p122『ペルソナ』p132,344,698『沈黙』p132『ミラー(魔術師、夜の儀式?)』p308)
『卒業』p134-7
タルコフスキー『サクリファイス』p156-8
☆『スターウォーズ』 新シリーズp185-188,703
メル・ギブソン『パッション』p193,634-7
『ブラジル』p212
『エイリアン』p215
デビットリンチ(『ロストハイウェイ』p131,『ワイルドアットハート』p216-218)
『街の灯』p217
『ビフォアサンセット』イーサンホークp242
『ザホイップハンド(『私は見た!』)』メンジースp307
『羅生門』p315
エイドリアンライン『運命の女』p344
『恍惚/ナタリー』p344
『グラディエーター』p357
☆『マトリックス』(レボルーションズp359,564,リローデットp558-564)
『ファインディングニモ』p564
☆スピルバーグ『マイノリティリポート』p366-378,718
『太陽に灼かれて』p511
『イワン雷帝』p524
コルホーズミュージカル(『陽気な子どもたち』『ヴォルガヴォルガ』p525)
『北の星』p525
『プルートの化け猫裁判』p526
『ニクソン』p527
『セックス発電』p558
『エネミーオブメリカ』p570
『インサイダー』p570
『逃亡者』ハリソンフォードp608
『タクシードライバー』p609
ジョンフォード(『捜索者』p611『アパッチ砦』p614他)
『ローンスター』ジョンセイルズp612
『ミスティックリバー』イーストウッドp613
マルクス兄弟p615
イェリネク『ピアノ教師』p629
イニャリトゥ『21グラム』p631
『ア フューググッドメン』p656
『地獄の黙示録』p657
『最後の誘惑』p665
『砂の城(未公開)』p681
『バートルビ』アンソニーフリードマンp683
『バートルビ』ジョナサンパーカーp683

脚注:
『脱走者』プドフキンp706
『黄金の盃』p709
ヴィスコンティ『熊座の淡き星影』『ヴェニスに死す』p711
『AI』718
『フランケンシュタイン』p720
『夕暮れにベルが鳴る』p720
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by yojisekimoto | 2010-04-16 16:23 | 映画

左翼が見るべき10本の映画

左翼が見るべき10本の映画

パゾリーニ『奇跡の丘』
ロッセリーニ『神の道化師』
ゴダール『中国女』
ブレヒト『クーレワンペ』
エイゼンシュテイン『イワン雷帝』
小津安二郎『生まれてはみたけれど』
黒澤明『七人の侍』
宮崎駿『風の谷のナウシカ』
リノ・ブロッカ『マニラ 光る爪』
ユルマズ・ギュネイ『路』
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by yojisekimoto | 2010-03-16 23:37 | 映画

エイゼンシュテインの立体映画論

3D映像の産業、商品化が著しい。
先日クローズアップ現代で早稲田の教授が、消費者、メーカー、クリエイターの三者のフィードバックの重要性を説いていた。
ここで思い出すのがエイゼンシュテインの立体映画論である(「立体映画について」『エイゼンシュテイン全集』第六巻、キネマ旬報社)。

エイゼンシュテインは人類の歴史を振り返り、演劇等を参照し、立体映画を歴史的に位置づけ正当化している(アウラの喪失を嘆いている閑がない?)。

そして最後に階級を越えたコミュニズムの理念に立体映画の理念を見出している(同じようにテレビの未来も考察している論文がある)。
そこには民衆の参加と主体化を促す意味がある。

先の教授の発言とも照らし合わせれば、売り手と買い手の間の、クリエイターの一人二役が重要になるということだと思う。
エイゼンシュテインは技術の供給側と需要側の立場を作り手の立場から横断するのだ。

『資本論』映画化のノートが時間軸における実験だとしたら、立体映画論は空間軸における実験の試みである。

実験段階を踏み越えた今、エイゼンシュテインの提言は重みを増している。

(追記:先日の記事に無理矢理つなげるなら、映像を量として把握することは3Dにしか出来ないことであり、オルタナティブな思考を現実化する上で必要なことだと思う。特に数学的思考は(リーマン予想をめぐる考察が顕著だが)数字を単に数としてだけでなく量として捉えることを要求する。)


以下、資料:キネマ旬報「立体映画について」「映画の未来」『エイゼンシュテイン全集6』(p278-280より)

「 立体映画への志向と社会的・階級的意義

 …動く人と把握する人、俳優と観客、観客と場面の現実とが「相互に入り込み合う」無数の試み。
 この要求を実現するために、すでに見てきたように、それぞれの歴史的な時代からどのようなものがそれを実現するかによって演劇史で最も奇妙な予期しない形式を獲得している。
「ポチョムキン」号の大砲の砲口と日本人の「花道」、フルテンバッハの劇場の環状建築、モスクヴィンの舞台トリック、ワルラーモフの舞台様式とビビアーナ=セルリオの中心に向かう遠近法的舞台装置……初期の芸術座の自然主義的特徴とエヴレイノフの「モノドラマ」の超象徴性……フットライト越しに投げられたすみれの花束、あるいはあまりにも劇的に確信のもてる悪人を観客が一撃で殺す一発、どれもみな私たちが見てきたように、同じ傾向に向かって動いている。
 そのような一般性、普遍性は無意識のうちに次の質問を抱かせる − この傾向はこのように演劇史の全プロセスで、完壁な自己の表現を探しているが、その傾向の基礎はどこに、何に根があるのだろうか?という質問である。
 この問いに対する解答を自分で得ようとするならば、なぜかという理由を別にして、この傾向がとくに力強く徹底的につぎ私たちの時代に向かう過渡期にちょうど現れているということを思い出すといいだろう。
 ここでは、このような演劇芸術における「統一」の確立と「結合」の熱心な試みは、決して偶然なものではない。
 個人と社会の、社会と個人の原則の統一という空想を実現したいという要求は、まず第一にこうした試みの裏面史に奉仕しているし、その統一の喪失は、資本主義の高度の発展段階、明白に暴露された強盗的帝国主義へ資本主義が移行する時代に、不可避的なものだった。
 十九世紀から私たちの時代にかけて認められた超個人主義、自己中心主義、果てしないエゴイズムのさかんな開花は、この段階と離れがたく結びついている。
(中略)
 そのような結合に向かう、明白な傾向は過去の世紀を通じて、芸術の分野で美学的な気まぐれの突発的現象として現れたものでは決してない。ずっと深い願望の突発が反映したものとみなされている − つまり、その願望とは、分裂した最初の集団的統一の分裂を克服しようという、より広範な願望である。搾取するものと搾取されるものへの階級の分裂、生産する階級とただ消費する階級への分裂と分化の時期から始まり、初期の階級が社会的に統一されていた状態に向かい、悲劇的な分断を克服しようとする不断の願望である。
 初期の演劇が、観客は「消費」し、演劇人はスペクタクルを「生産する」というグループに分裂していったことは、以上のことの何とも驚くべき反映と思われる。
 いま地球の六分の一では階級制度が終局的に転覆され、ソヴィエト労働国家における市民の生産と消費の多様な形態が、消費者と生産者の理解を新しく再結合しているし、一方では、共産主義に移行する社会主義社会の状況下で、各個人がはじめて集団と確実に一つとなり」離れがたくなる時期に向かっている。そういう時期に向かい − とくにこの国の技術的開発に関する考え方は、芸術の分野に新しい多様性をもち込み − 立体映画をももたらしたが、この立体映画は、根元的なところで生物学や心理学の分野ではなく、社会的事業の分野に入っていく再結合への願望が、より完全な形象的具体化を可能とする技術的現象の、最も単純な基礎でさえありうるのである。これは何と驚くべきことではないだろうか。
 いくつかの共通の判断がある。たとえば、それは立体映画の諸原則がもつ確実な生活力の強さを私たちにじゅうぶん考えさせるように思える。私たちが見たように、立体映画はその技術的可能性の本質によって、階級社会の廃止、無階級社会へ進むプロセスにおける人類の志向のより深く力強い傾向の一つを美学的に反映した形象、それを私たちに示すように見える。(以下略)」
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by yojisekimoto | 2009-12-17 12:59 | 映画

映画評:『ボブ・ディランの頭の中』

原題は『仮面をつけた者と匿名者』の意。

シナリオ執筆者はディラン本人であることが出演者の証言で分かっている。
ユニオン規定の最低のギャラでスター俳優が多数出演しているのも見どころだし(原題の由来?)、ツアーを通じて成熟したバンドをバックにした演奏を楽しむのが正解だが(ボーナス映像がうれしい↓)、ストーリー的にも興味深い。

何よりも(ネタバレになるから詳細は伏せるが)自分自身を罰を受けるべき罪深い存在と考えていることが重要だ。そして、誰も指摘しないがこのストーリーはジャン・ジュネ『バルコン』の影響下にある(ディランは自伝でジュネの『バルコン』を絶賛している)。

娼館で倒錯の劇が演じられている間にも外では革命の嵐が吹き荒れている、というジュネのストーリーは、テレビ局スタジオに舞台を変えている、、、

要するにストーリーは『ボブ・ディランの頭の中』が外部に開かれることを描いているのだ。

また、視覚的には『地下室』のジャケットの雰囲気が原型となっている。

評価の難しい映画だが、この作品はテレビ放送で楽しむのがストーリー的にも正しいかもしれない。

追記:
ディランの新作プロモ

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by yojisekimoto | 2009-11-30 00:33 | 映画

赤き死の仮面

豚インフルエンザで思い出すのは中世の黒死病だ。
これはヨーロッパ、イスラム、中国まで及び、多数の死者を出した。結果的に世界経済が繋がっていることを歴史的に証明した。
(黒死病の伝染図が『ヨーロッパ覇権以前』という本に掲載されていて興味深い。)

今日では、世界が繋がっていることは言うまでもない。
グラフ理論を基礎にしたネットワーク理論などは流行の経路を数学的に割り出す理論でもあり、繋がり方の精緻な研究が待たれる。

さて、黒澤明はベルイマンとフェリーニとの合作映画の題材に黒死病を考えていた。
ポーを原作にしたものだが、タイトルは黒ではなく『赤き死の仮面』として赤を採用したのは黒澤らしい。
結果的に映画化が実現することはなかったが、グローバリズムにおける負の題材をプラスに転化しようとしたいい例だと思う。
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by yojisekimoto | 2009-04-30 22:11 | 映画

パゾリーニ「造花の連なり」

パゾリーニの1968年制作の短編映画、「造花の連なり」(オムニバス映画『愛と怒り』より)。10分。

(1968年イタリア=フランス合作映画「愛と怒り」 AMORE E RABBIA
より「造花の連なり」LA SEQUENZA DEL FIORE DI CARTA〔第3話〕P・P・パゾリーニ)

オーバーラップの多用は彼にとって新たな技法だし、映画史的にも主体の特権化と膠着を阻む自由間接話法にとっては新たな展開とも言える。
個人的にもこの二重写しの世界観は共感できる。
オーバーラップの意識的使用は映画史的にはこの後コッポラ『地獄の黙示録』まで待たなければならない。

ところで、『豚小屋』のシナリオでは主人公の夢にスピノザが出てくるシーンがあったという。

『豚小屋』では二つの世界がカットバックによって描かれ、最後にひとつになるが、こちらはオーバーラップで描かれる。両方とも身体感覚によってひとつになるのは同じだ。
スピノザ的身体を得ることによってはじめて一元論が可能になるということだろうか。

上記短編のラストは、人格神による罰則と捉えれば超越的だが、主人公の身体的な世界政治への対応と考えれば内在的であり、超越論的だ。
内在的倫理を現実世界を考察しつつ要求してくるという意味では、上記短編はスピノザ的かもしれない。ベンヤミンの二重性(唯物論とメシアニズム)ともつながるような気がするが、両者が基盤としたコミュニズムという枠からはみ出た所で(というよりはより内在的に)、スピノザとパゾリーニは通底するものがある。
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by yojisekimoto | 2008-12-12 17:43 | 映画