カテゴリ:柄谷行人( 43 )

NAM組織構造図:改訂版

SBSの組織構造は、かつてNAMが実践した以下のような多重所属的な関係のあり方と相似である。
(実際にはこれらの分節化をすべてML上でおこなっていたため事務局がパンクしたが、、、)

 セ
評ン
議タ\ __   __   __   __
会| |  | |  | |  | |  |
 & |\ | |  | |  | |  |
\事_|_\|_|__|_|__|_|__|_
 務 |  | |  | |  | |  | |
 局\|◯ |\|◯ | |◯ | |◯ | |
 |_\__|_|__|_|__|_|__|_|
   |\ | |\ | |  | |  |
   | \| | \| |  | |  |
 関 |  \ |  | |  | |  |
 心_|__|\|__|\|__|_|__|_
 系 |  | |  | |  | |  | |
 | |  | |\ | |\ | |◯ | |
 |_|__|_|_\|_|_\|_|__|_|
   |  | |  | |  | |  |
   |  | |  |\|  |\|  |
 階_|__|_|__|_|__|_|__|_
 層 |  | |  | |\ | |\ | |
 系 |◯ | |  | |◯\| | \| |
 |_|__|_|__|_|__|_|__|_|
   |  | |  | |  |\|  |\
   |  | |  | |  | |  | \
   |__| |__| |__| |\_|  \
    地域系  京都   東京   海外  /
    各地             など\/


上記組織構造においては、現代ではもはや多様性と自律性を喪失したそれぞれの各地域が、NAMという全国的ネットワークを契機にして新たに多様性と自律性を見出すことになる。
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by yojisekimoto | 2009-11-21 02:07 | 柄谷行人

2002年NAM代表くじ引き選出:訂正板


http://www.youtube.com/watch?v=n85bgj0iLao
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by yojisekimoto | 2009-11-05 06:37 | 柄谷行人

類的本質的存在と父母未生以前の私

柄谷行人は『世界共和国へ』(p190)でプルードンの「真実社会」なる用語がフォイエルバッハの「類的本質的存在」に近いと述べている。
フォイエルバッハはヘーゲルの弁証法を人間の手に取り戻したのだから、ある意味でこの解釈は正しい。

しかし『プルードン研究』(岩波)などを読むと、むしろフォイエルバッハとプルードンの差異こそが重要だということがわかる。プルードンはフォイエルバッハのように矛盾を揚棄しないからだ。

そうすると、先の柄谷の解釈はプルードンの唯物論が不徹底だと指摘するようなマルクスに近いということがわかる。
マルクスは自身が徹底したような唯物論がプルードンとフォイエルバッハに欠けていると考えている。最終的にプルードンは決定論をとらないからこれも正しい部分はあるが、マルクスは唯物論的ではあっても矛盾の揚棄という観念をヘーゲルとフォイエルバッハから受け継いでいるから、それをどう解釈するかで評価は一変する。

むしろ、個人的にはカントやフロイトの最良の部分を評価するなら、アンチノミーを維持したプルードンこそ現代的だと評価したい。

カントとヘーゲルの違いを一番端的に示すのがカントの『人倫の形而上学』とヘーゲルの『法の哲学』の構成の差異だ。ヘーゲルはカントの法論をそのまま受け継ぎ、カントにとっての道徳部分に国家を置き、なおかつ国家へのイントロダクションとしてカントの道徳を置き換えた。

つまり国家が矛盾を揚棄するという訳だ。

(このヘーゲルの認識はしかし、構造的な認識でもあるので安易に否定できない。これも柄谷が『トランスクリティーク』などで指摘するとおりだ。)

脱線したが、プルードンに話を戻すなら、彼の「真実社会」は「公認の世界」と対になるので、「現実の世界」と訳すべきだろう。マクロに対するミクロの優位性をプルードンは指摘しているのだ。

こう捉えると、「真実社会」は柄谷が最近強調する「中間団体」と考えた方が近いと思う。

また『世界共和国へ』では国家を国家間の関係として捉えないアナーキズムの欠点が指摘されていたが、晩年のプルードンはヨーロッパの複数の国家間の政治問題ばかり論じていたということも指摘しておきたい。つまりプルードンの揚棄されない現実社会と公認社会の矛盾の認識こそ、唯物論的であるのだ。


さて、夏目漱石が『門』で引用した禅の公案「父母未生以前の私」が最近気になり出した。
これは『正法眼蔵』第25渓声山色などで紹介された公案だが、この公案に答えられなかった僧侶は絵に描いた餅は食べることができないと絶望して(ここに類的本質的は存在しない)食事係になる。

この絵に描いた餅という比喩による問題設定は、新しくは先に触れた唯物論の優位性を指した言葉であるし、古くは普遍論争の実在論批判にもつながるだろう。

インドのヒンズー教と仏教の論争、カントの批判哲学とライプニッツの「実在論」との差異に、この「画餅」は立ちふさがっているのである。

一休さんが屏風のなかの虎を退治するから外に出して下さいと言ったときも同じ問題設定をしているのだ。
むろん絵が非現実で虎が現実だということではない。アンチノミーをつきつけられることが現実なのだ。
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by yojisekimoto | 2009-06-30 01:10 | 柄谷行人

ギリシアの「戦士=農民共同体」

柄谷行人はギリシアの「氏族社会(戦士=農民共同体)」に関して書いていますが、はっきりとした原資料はありません(柄谷の説は被支配共同体と区別した、あくまで支配共同体に残った「戦士=農民共同体」に可能性を見ている点が画期的です。この二つをエンゲルスは混同して扱っているそうです。「at」12号参照)。

戦士に関しては資料は多々ありますが、農民に関してはヘシオドス『仕事と日』くらいでしょう。

柄谷が『日本精神分析』で引用したのは『丘のうえの民主政』という本ですが、さらにその元ネタはアリストテレスの『アテナイの国政』(岩波文庫、くじ引きに詳しい)で、これは『政治論』(岩波文庫、徴兵に関して総合的な記述あり)とともに原資料としておすすめですが。

戦士と農民に関しては、結局、『七人の侍』を見た方がいいくらいではないでしょうか? ただしこの映画も農民と兵士が菊千代以外は分けられているから歴史的史実に忠実という訳ではありません。

アリストテレスの記述を読んで要約すると、将軍選出にはくじ引きを使わない、農村共同体の組織を徴兵した際も使う場合があり、くじ引きの対象になる、ただし、労務者というより奴隷はくじ引き、つまり役職の対象から外れる、といったところでしょうか?

基本的にギリシアは農地が痩せていて、オリーブにしか適していませんが、そのせいかその油を早くから貿易で売って食料を外国から購入していたようです(河出文庫『世界の歴史4 ギリシア』)。

ピースボートに乗ったときも運用するのはギリシアの会社で、彼らの海洋国家としての自負は並々ならぬものがあると思いました。ケネディ元大統領夫人と結婚し、マリア・カラスと浮き名を流した海運王オナシスもギリシア人でしたし、、、

先の話題に戻ると、エンゲルスとマルクスが氏族社会のモデルとして驚嘆したモルガン『古代社会』で描かれたイロクォイ族の連合制度はアメリカ合衆国のモデルとなったそうです。
アメリカ先住民の文化には、ギリシア・アテネの民主制以上に、アジア的共同体のような官僚制、常備軍というシステムに頼らずに平和を維持するヒントがあるような気がします。

付録:

アジア的       |    氏族的
 支配#/被支配*  |     支配*#/被支配
___________|______________
古典古代的      |   封建的
(ギリシア・ローマ) | (ゲルマン的)
 支配*#/被支配  |  支配#/被支配* 

*エンゲルスが着目した部分(一貫性がない)。
#柄谷とマルクスが着目する部分。
アジア的支配者は、官僚制と常備軍という優れたシステムを持ち自国民を分断統治できた。
ギリシアは氏族社会の支配者側の戦士=農民共同体を維持し、アソシエーションの可能性を文化的に残している。
封建制の支配者側には双務的な契約があり、自由が存在した。

追記:
柄谷行人は「文學界」('08,11)の座談会でヘロドトスの『歴史』を最近読んだと述べ、人類学の書として絶賛しています(ヘロドトスはアリストテレスのような自民族中心主義がなく公平だそうです)。

また、『丘のうえの〜』より河出文庫『世界の歴史4 ギリシア』の方が古いですが総合的なので個人的にはいいと思います(ちなみにこの本で、ヘロドトスで広まった「ヒストリー=歴史」の語の元の意味は「探究or探求」だと知りました)。

今だに映画でいいものを探しているのですが、、、
戦士はわかるのですが、ギリシアと農民はなかなか繋がりません。やはりギリシアはかなり初期から海洋国家だったと考えるべきだと思っています。
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by yojisekimoto | 2009-01-19 17:17 | 柄谷行人

フィジーの思い出と互酬性

数年前、ピースボート関連のボランティアでフィジーに行った時、事前に読んだ文献にサーリンズの著作があった。そこでカヴァという茶道に似た文化がフィジーにあることを知ったのだが、日本で本を読んでいるだけではいまいちイメージが掴めなかった。今考えると、それは神話を日常性のなかで反復することの意義は体感しないとわからないということだと思う。
以前も書いたがフィジーではカヴァという文化は日常的に生きており、体感することができた、、、、。

実はフィジーのカヴァは実は島々をつなぐ外来の文化であり、それが共同体の中に内部化されたのだ。それが証拠にカヴァを栽培できる島は本島から見て南の方にズレて存在する。

さて、これは柄谷行人が「at」誌上で展開する共同体論に確証を与える事例でもある。

柄谷もまた共同体と共同体の間にあるものとして互酬性を定義しているからだ。

ここで学問的な話を深める余裕はないが柄谷も参考にしたサーリンズの『石器時代の経済学』(邦訳p240)の図を以下に紹介しようと思う。
a0024841_2325321.jpg

柄谷がサーリンズと違って重視するのは第三(サージンズの図では第五番目)の周辺、部族間圏域である。
家族内の互酬性も柄谷に言わせれば、こうした外部の互酬性が内面化されたものだそうだ(2008長池講義)。これはニーチェが指摘するキリスト教における良心のやましさなどとも重なるのだろうが、その功罪を別として互酬性を(共同体を作りつづける)動的な力として捉えている点がニーチェ(というよりその源流であるスピノザと言いたいところだが)により近いと思う。

柄谷はさらに共同体における原父殺しをフロイトの超自我とつなげて、アソシエーションの契機と考えるのだが、これらはカント的な批判哲学を国家論へと応用するものであり、先に投稿したプルードンのカント解釈とも重なると思う。
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by yojisekimoto | 2009-01-16 22:55 | 柄谷行人

11月27日@早稲田講演

2008年11月27日の早稲田柄谷講演は、以前の朝日センター及び札幌講演を反復したものだが、「なぜデモをしないのか」というタイトルに相応しい盛り上がりを見せた。
といっても政治演説ではなく、学術的に丸山真男などをつかって、4交換図を日本の近代史に適応させ展開したものだった。
(デモがないのは)政治的敗北とそのトラウマによるものだから、社会学的分析は間違っている、という発言には衝撃を受けた。

ただし、感想として中間団体の重要性とアソシエーションの重要性は一義的には直結しないと思った(その点、個別団体という言い方の方が重要な気がする。個別化の根拠はライプニッツが探したものでもある*)。

全体として、モンテスキュー(選挙は貴族制であってくじ引きこそ民主制)をくじ引きの提唱者として例証する等、歴史家としての柄谷氏は成熟しつつあるのではないか(デモなどがなければ民主制ではないという意見は貴重だ)。

気になったのは、4交換図と丸山の図↓(「個人析出のさまざまなパターン」1968丸山真男集9巻所収)が相似であることを多くの観衆(100人以上)が理解していないのではないかということだ※。

I自立化   D民主化

P私化   Aアトム化

この図はDIPAと進むが、IとAをひっくり返せば4交換図そのものだ。
中間団体はあくまで一元化への抵抗だから、Iをそのままになうわけではないだろう。
中間団体を外へ開く新たなアソシエーションのありかたが、内と外両面から必要なのだ。その意味で講演の主査者はこの講演内容によって自らの課題を明確に出来たことを喜ぶべきだろう。

柄谷は、独裁者も専制君主もいないが現在の日本は専制主義だと言う。
テレビや新聞の統計調査や支持率(という名の専制君主)が一人歩きする社会で、代表制が空転している。デモやくじ引きを排除し、民主主義=選挙だと思ってしまっているかぎりそれは当然の帰結だ。
同時にネット上の匿名による中傷も相手にする必要がないと言う。
立場や発言の場が変わればどうせ意見を変えるだろうからだ。

結論として、 状況を変えるには中間団体を大事にするしか無い、それには顔見知りになる必要があると言う。
顔も知らないでアソシエーションなど不可能だと言う。
その発言のせいもあってか、ママキムチという韓国料理店で開かれたオフ会は盛況だった。 

※追記:

丸山の図は外周が円になっており、回転による移行を表現しやすくなっている。また原論文では矩形の変化で4つの要素の割合が個人個人で変わることを表現している。

(丸山が原論文で様々な可能性を示唆しているとはいえ、丸山が示した一般的順序とは逆回りに歴史は動いていると思う。明治維新及び民権運動D→強権による運動挫折A→私小説P→文芸協会や新しき村I。全共闘D→強権発動D→消費社会A→?と動いているからだ。むろん丸山の議論は単純ではない。大衆運動退潮期にはPへ、高揚期にはDへ移行するが、軸の位置は個人差があるという。さらに石川啄木をIの代表に挙げたのは卓見だし、Pに私小説と「成功青年」の2タイプを挙げたのは今日的でもある。)

さて、私見では4交換図はカントのカテゴリー論やマルクスの交換価値論にも対応する。


量  質

関係 様相


拡大された形態    縮小された価値形態


一般的等価形態      貨幣形態

あるいは、マルクス自身の章分けとは少し違うが、以下の解釈がわかりやすい。

等価形態         相対的価値形態
量=Y   Yb = xA    質=A
(※Y量の商品bと等価)  (x量の商品AはY量の‥※)

一般的価値形態  貨幣形態
関係       様相
L=a,        a,=G
b,        b,
c,        c,
d,,,       d,,,      

参照:武市健人(『大論理学』下解説)。

問題は貨幣形態にあたる部分だが、これはさらにパーソンズ流に分節化する必要があるだろう。カントが人間の義務とする、他者の幸福及び自己の完全生の検証には、カテゴリーの一部にすぎない(=不完全性)のか、それともカテゴリーに閉じ込められているのか(=不幸、これらはカテゴリーを越境し合う概念だ)が見分けられなければならないからだ。

また、ゲゼルの減価式への視界は貨幣形態の(技術的な部分での)分節化によって開ける。

カント自身は、理性的心理学(岩波文中p75)の命題を様相から量へ逆流させて考えている。
(あくまで量を起点にカントは考えている。**)

性質は内容量なのだから当然なのだが、価値形態論の場合は質による交換、量をはかった等価交換と進むので、質から量へと進む。

また以下のような哲学史見取り図も可能だ。

量            質
ヘーゲル        スピノザ
ライプニッツ      ニーチェ 
プラトン

関係           様相
デカルト        カント
マルクス        ハイデガー

主に実在論者が量質、唯名論者が関係様相に位置づけられる。
ドゥルーズは同時に質に位置づけられるが、フーコーとともに様相の思想家だと思う。


ライプニッツはスアレスの以下の原理を採用した。「全ての個体は、その存在全体によって個体化される Omne individuum sua tota entitate individuatur 」 

**「直観はすべて外延量である」(岩波文庫上p237)というのはカントの視覚中心主義を証明するものでしかないから、カント自身が『判断力批判』でおこなっているように質を直観を最初に置いても間違いではないと思う。
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by yojisekimoto | 2008-12-27 13:13 | 柄谷行人

11月23日(日) :「批評を批評する—美術と思想」

11月23日(日) :「批評を批評する—美術と思想」
岡崎乾二郎、針生一郎、光田由里、柄谷行人
東京国立近代美術館地下1階講堂

/////////////////

まず、針生氏による50年代の回想があり、(光田氏作成の年譜を参照しながら)柄谷氏がそこに批評の全体性があった時代と補足した。その全体性は共産党が権威を持つ60年代まで続くが、それ以後は資本に対する免疫が欠け惨憺たる有様であるとする。
全体性の回復は柄谷氏の交換図に収斂する印象があった。といっても互酬性に話はかなり集中し、アソシエーションの事例を積極的に打ち出すまでにはいたらない。その全体性は数々のマイナスの事象から逆に浮き彫りになったと思う。岡崎氏による、公的なものは共有できないものから生まれる、美術館は価値判断せずあらゆるものを集め、名前を言ってから(図書館の閉棚式?)公開する等のアイデアが出て、美術のあり方自体に意識的であるべきことが確認できた。
最後に、村上隆に柄谷氏が触れ、普通のことをやっているだけで、外国から指摘されて大騒ぎするのはおかしいとした。
日本人は真善美の善の代わりに、手仕事を大事にしてきたが、村上氏もそれと同じように普通のことをやっているにすぎないのだと。

日本では「善の代わり」に美術があるという柄谷氏の指摘は面白く、(ハチソンと違い)スミスが経済的な事象の研究から道徳を説いたのに、いつのまにか美学に吸収実体化されたという定本第4巻冒頭(*)の指摘を連想させた。

真善美は意識化されないと日本化(=針生氏が指摘したようになんでもあるが特色も無い)する。世界は日本化しつつある。ただしこの状況は好ましくなく、美術は裏付けもなく存在するべきではない。共産党のようなものではもちろんだめだが、抑圧(抑圧が無ければ自由も無い、、、)する批評が必要だとした。

パネリストの年齢がそれぞれずれているので日本戦後美術史が立体的に理解できるきっかけが与えられたと思う。

ただ、たとえば 50年代は日本映画の黄金時代であり、こうした視点が加わると公-私の問題、前衛化-大衆化の問題等はもっと生産的なものであり得たと思う。


*定本第4集冒頭メモ:

真(国家)ー 美(ネーション)
    /    
善(市民社会)←スミスの経済=道徳

真(悟性)ー 美(想像力で調停)→ヘーゲル、フィヒテなど実体化
    /    
善(感性)

B  ー A   
   /
C    D

追記:
全体性というより自律的総合性がアソシエーションと言えるのではないか?
そしてシンポジウムの参加者を交換図に当てはめるとまとめ役の光田由里女史がアソシエーションの位置にあると言える。

柄谷 針生

岡崎 光田
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by yojisekimoto | 2008-12-23 13:22 | 柄谷行人

「汝」と「それ」

柄谷氏による長池講義は、それ自体無料でおこなわれ互酬性にあてはまるものだが、学問的にいろいろ考えさせてくれる。
その一つがスピノザとヴィトゲンシュタインの共通点だ。『探究2』で言及されたスピノザの無限論は無際限ではなく、ヴィトゲンシュタインによる「世界の中に神秘があるのではない、世界があることが神秘なのだ」という言葉と響きあう。これは無際限的集合を支持したラッセルを間に入れると分かりやすい。

ヴィトゲンシュタインは先の日記に書いたブーバーの猫の記述とも関連してくるだろう。
両者とも無限を日常のなかに認め、関係性において記述したのだった。

さて、ブーバーの言う「汝」と「それ」を柄谷の交換図に当てはめれば、汝がAに、それがCにあたるだろう。四次象限図は集合論的にベン図に直すと分かりやすい。
a0024841_3593341.jpg

柄谷に言わせれば、互酬性にあたるAの「汝」と資本制にあたるCの「それ」の対立がブーバーが猫と目が合った際に浮かび上がるものだということになるだろう。
一方、互酬性にあたるAの「汝」と資本制にあたるCの「それ」の二つのいい部分だけをあわせたのがDのアソシエーションであり、国王(一方的な社会契約でも結果的には同じだが)のような超越した第三項を立てて両者のすべてを捨象するがBの国家ということになる。

Bの国家は、Dのアソシエーションと相容れることなく対峙しているわけだから、Dを規定することでBを、Dを規定することでBを浮き彫りにすることは原理的に可能だ。

柄谷はatの第7号でカントをこうしたDの思想家として対応させているが、ヴィトゲンシュタインもDを語ったと考えることができる(ブーバーは前述のようにAの汝とCのそれを対立させることでDを浮き彫りにしたからDを直接語ったわけではない)。
スピノザなどはDとBの両面から語っている(『エチカ』=Dと『国家論』=B)。

ブーバーに関係づけて比喩的に言うならば、猫を見つめる異なる複数の人間を記述しなければ、アソシエーションを語ったことにならないということも言える。その点でヴィトゲンシュタインの問題意識はより本質的にアソシーエーションを内部から語った問うことかも知れない。

長池講義では、頭文字だけだとヴィトゲンシュタインとウィットフーゲル(これはBを主に語った)と紛らわしいといった冗談が語られたが、柄谷氏の問題意識が(周期説ではないが)一周してより深まったという思いを新たにした。
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by yojisekimoto | 2008-06-24 04:02 | 柄谷行人

猫と互酬性

21日、柄谷行人氏の第二回長池講義行ってきました。以下メモです。

講義は交換をめぐる論考のなかでも主に、互酬性、共同体をテーマにしたものだった。
印象に残ったのは高澤秀次氏がマルクスの人間所有の歴史観に関してホワイトボードにこう書いたのを、

   共同(体)所有
    |
   私的所有
    |
   個体的所有


柄谷氏が以下に訂正したことだった。


   共同(体)所有
    |   個体的所有
国家ー私的所有


解説するなら、個体的所有は古代にもあったし、私的所有は納税義務を見れば分かるように国家に付随した概念だということになる。
共同体所有と記述し、共同所有としなかったのは、生協などの共同所有と混同しないようにという配慮であり、現代の感覚では
「互酬性」は見えて来ないというのがこの日の講義の一貫したテーマだった。
モースの再評価も行われたが、これは共同体所有を「神が所有するようなもの」という感覚を現代人が理解することができるかが鍵
だということだろう(この件に関して柳田国男にも触れられた)。

at,12号に掲載されるザスーリッチへの書簡をめぐる考察の詳細が語られたのも印象的だった。
簡単にいえば、マルクスはギリシアの独立精神のある(「未開の」)氏族共同体に可能性を見出したのであって、中世共同体やロシア
の農村共同体の可能性に関して否定的だったということである。
これはスターリンの行った農機具国有化への追認として誤解される恐れがある見解だと個人的には思うが、マルクスの読みとしては
正しいと思う。

講義の後半はこうした生産ではなく交換に眼を向けることの重要性と、アジア的生産様式の概念を維持すべきだという(そうでない
とギリシアの独自性も分からない)ことの解説が行われた。後者は当日太田出版の方から購入したat,12号(最新号)に詳しい。また、
22日朝日新聞掲載の書評でもアジア的生産様式に関しては触れられているようだ。

ブーバーの『我と汝』*における猫の記述をアニミズムと関連づけていた(at,7号に詳細あり)のも印象的だった。

追記:
レジュメは以下に掲載されると思う。第一回のレジュメも掲載されている。
http://web.nagaike-lecture.com/

* ブーバー『我と汝』(岩波文庫p123)より

「大地が動き、関係が生まれ、つぎの瞬間、ほとんど間を置かず別の関係が起こる。<それ>の世界が私と猫を取り囲み、一瞬の間、
<なんじ>の世界が深淵から輝いたけれど、今や再び<なんじ>の世界は、<それ>の世界へ消えていったのである。」
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by yojisekimoto | 2008-06-23 02:07 | 柄谷行人

私的官僚制への疑問

柄谷行人は「at第5号」(p143)にマックス・ウェーバーの以下の文章を引用している。

「今日では、私的官僚制と公的官僚制とは並行して、少なくとも可能性としては対抗して、活動しているから、とにかくある程度互いに抑制し合っている。」(「新秩序ドイツの議会と政府」『政治・社会論集』、河出書房p329)

ウェーバーの文章は公的*というよりワイマール期における国家官僚制の権力の拡大を危惧したものだが、柄谷はそれとは逆に、アナルコキャピタリストが、公的官僚制を私的官僚制に回収することの虚偽を、軍隊のアウトソーシングを例にして告発している。
この例から明白なように、昨今の民営化万能論もこの虚偽を免れない。

プルードンが民衆に会計能力を要求したように(http://yojiseki.exblog.jp/7140637/)、アソシエーションというオルタナティブな回答を柄谷は用意しているが、それは国家と資本の分析を歴史的にした上で、彫像を彫るようなかたちで明確にしようとしている。これは大きな遠回りとも見えるが、技術的な試行錯誤と並行して行うべき必要な課題ではある。


もちろん、官製不況といった側面が明らかになっている現在、公的官僚制の限界も露呈しつつあることは言うまでもない。それは地方分権と並んで大きな課題である。ここで柄谷が称える中間団体論(http://demosnorte.kitaguni.tv/e539083.html)が重要になると思うが、柄谷はここでも丸山正男の歴史的考察を基盤にして、議論の土台、共通理解をつくろうとしているようだ。

*注
公と私、国家と個人の関係に関しては(私的→公的でもありうると説いたカント『啓蒙とは何か』の議論を参照しつつ)以下の図が書けるだろう。

   公
国家 + 個人
   私
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by yojisekimoto | 2008-06-09 03:54 | 柄谷行人