カテゴリ:柄谷行人( 43 )

スピノザによるトランスクリティーク

最近柄谷の『探究2』を読み直している。

この時期はまだ交換ではなく交通がキーワードだ。

「スピノザの『エチカ』のオプティミズムは、フロイトのこのペシミズムとちょうど表裏の関係にある。‥…一方では、希望・意味をもたないがゆえにペシミズム・ニヒリズムにみえ、他方では、絶望・無意味をもたないがゆえにオプティミズム・信仰に映る。」
(講談社学術文庫『探究2』柄谷行人pp189)

スピノザの理解において傑出しているこの本は、スピノザとデカルト、スピノザとカント、スピノザとマルクス、スピノザとフロイトのトランスクリティークである。

同種の考察は『異端の系譜』( イルミヤフ・ヨベル)でも見られたが、柄谷はより徹底している。

柄谷は論理学をつきつめることで論理学から逸脱し、スピノザを神という公理系(観念)から表象=概念=想像知を批判したとするのだ。いろいろな研究書を読んだが、ここではじめて『エチカ』の幾何学的記述が必然性を持つことが納得させられた(pp168)。

「境界」に立ち続けた(pp316)フロイトに関する考察は、定本第4巻に引き継がれるが、カント、フロイトへの無条件の賛美を持たないこの時期の柄谷はやはり突出している。

相互主義的に社会契約において自然権を留保したスピノザ、、、(pp196)、NAMのような社会運動の試みもまたスピノザに関する考察が基盤をなしている『探究2』の公理系=原理から再出発する必要があるだろう。

スピノザは以下のように言っている。

「理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である」(Eth.Ⅳ, Prop.73)(スピノザ)
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by yojisekimoto | 2008-06-05 11:44 | 柄谷行人

同一性の問題。11/10柄谷行人長池講義メモ

会場の最寄り駅南大沢は、多摩ニュータウンの一画と言っていいだろう。
この近辺の地域通貨の会合に出席したことがあるので、人工的な町並みに戸惑ったが予想の範囲だった。
まず冒頭、高澤秀次氏の司会で、いとうせいこう氏からひと言あった。
柄谷氏の引っ越し、この近くの池に飛び込んだという浄瑠璃姫の話などだ。
この講義は、熊野大学の延長だと言う。。。

本題にはすぐ入った。
(以下メモです。ほとんど柄谷発言を自由間接話法で記述します。)

まず、カントの

仮象(Der Schein,seem)     現象(Erscheinung,seeming)     物自体

の構造が示され、

仮象と現象の間が重要との指摘があった。

ヒュームは同一性を疑ったが、仮象がなければ自己がないということになる。それは病気であり、単なる観念上の遊びではない。
(ラカン的に、想像的、象徴界、リアルと言い換えることも出来るが、カントからラカンを読むべきでありその方がより正しい。)

仮象の検証は、経験を全称命題によって証明することにつながる。
これはポパーの唱えた反証可能性と同じで、物自体という他者に開かれている点で、
現象から単称命題を導くハーバーマス(西欧中心主義)などより優れている。

国家や資本やネーションはこのような仮象であり、取り除くことができたとしても別のものが補完してしまう。
カントの指摘、超越論的仮象は必要だし、そのようなものとして国家を考えるべきである。

事前に考えたカントに対し、ヘーゲルは事後的に考えた。
これは現実追認に終わる。

キルケゴールはヘーゲル批判からキリストを考えた。

ちなみに進化論はライプニッツ、ヘーゲルから始まる。19世紀からではない。
カントの第三批判は生物学を扱っている、目的論だけではない。
(カントは、歴史に目的はないが、目的があるかのように看做していいと言っている。)

マルクスは国家、税制を捨象してそれ自体としての経済を考えた。
『世界共和国へ』ではそれと同じことを国家に対して行った。このようなことをした人は他にいない。
(マイケル・マンは唯一評価できる。)


B  A
  +
C  D

という4つの交換図(省略)の中で、

人類学はAを考え、カール・シュミットBを考え、マルクスはCを考えた。

日本のアナーキストはCを通過していないでDに行こうとした点が駄目。

すべてを同時に見たい。(現代の奴隷制に関して『ミナミの帝王』の債務奴隷の話。)

中国、ソ連は官僚制度を維持した。
マルクス主義が官僚化したのではなく、官僚がマルクスを利用した。

アメリカで講演した時東洋的でないといわれたが、そもそもマルクス、カントはコスモポリタンであり、西洋的ではない。
Dを「空(くう)」といったように神秘的、仏教的に言うことも出来るが、、、それもゼロの発見の問題として構造的、形式的に述べることができる。

(また、印象に残ったのは、自然と人間という関係は、人間と人間の関係に原型を持つという指摘だった。人間への搾取は自然への収奪に行き着くということでありその逆も言える。これは『トランスクリティーク』における物自体が他者であり、仮にデータであってもデータを提示する他者を考えればいいという指摘と対応している。カントとマルクスを横断する思考の成果としては、国家及び自己の超越論的仮象の問題以上にここに集約するという印象を持った。)

後半は、日本の歴史の問題になった(高澤秀次氏による戦後日本の『国家論』のレジュメ、レクチャーあり)。

孔子はアナキストだから始皇帝に弾圧された。
キリスト教と並行関係で国教化されたが、本来は両者ともアナーキーである。

フランクの西欧中心主義批判は10年遅い。もはや東洋中心主義を批判すべきである(笑)。

国家の同一性は、対外的に保証されるので、天皇制もそのために必要だった。
下からの運動も重要だが、上からの視点もなければならない。
(幕府と朝廷、源氏と平家、封建論争、国連に九条を採択させるべき等、その他の話題。)

最後は、いとうせいこう氏による冒頭の浄瑠璃姫の話につながりそうだったがここで時間切れだった。


印象に残ったのは同一性の問題だ。もちろん他者という構造の問題を経たあとに出てくる問題としての同一性である。


僕も会場にいた昔世話になった方々に挨拶しようとしたが、(あわせる顔がないので)出来なかったので、この同一性が対外的に必要になるという指摘が堪えた。

このような会を無料で行うのはレシプロシティー(reciprocity。互酬制という言葉を今回使わなかった)になってしまうので、できれば地域通貨払いで定期的に行って欲しいと思った。

ここ数年の柄谷氏の思考を圧縮した講義だが、参加者が皆理解を示していた点が印象的だった。
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by yojisekimoto | 2007-11-10 20:47 | 柄谷行人

12月2日柄谷行人講座

以下mixi柄谷コミュより転載です。

テーマ「国家と資本主義」

講座の内容: 国家とは何か。資本主義とは何か。両者のあいだにはどのような関係があるのか。『世界共和国へ』において人類史的なスケールで国家と資本主義の生成原理をとらえなおした柄谷行人氏と、『国家とはなにか』で知られる若手哲学者の萱野稔人氏が、国家と資本主義の問題をめぐって原理的な思考をくりひろげます。
(http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0610koza/A0101.html#)

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上記の12月2日の講座、行ってきました。
100人ほど入る会場はほぼ満員でした。都庁のすぐ近くのビルの一角は柄谷さんらしくないシチュエーションでした。
肝心の中身は、(『世界共和国へ』の交換図をボードに描いた後)柄谷さんが萱野氏の質問に応える形で、国家と資本主義の癒着をいろいろな角度から話していくといったものでした。結論としては(?)ある時期から国家と資本主義が癒着したのではなく、最初から癒着していたと考える方がよい、とのことでした。
奴隷制から資本主義への移行を契約関係という観点からつなげようとする萱野氏に対して、資本主義は生産者というよりも(交換という観点から見れば)消費者を作ったのだからそれではだめだといさめていたのが印象的でした。このあたりは萱野氏に対する柄谷さんの個人授業のようでした。
柄谷さんは最近、槌田敦の本を読んで環境問題に関しても学んでいるそうですし、結構勉強しているな、という印象を持ちました(最近食欲がない、というのが心配ですが)。
その他、冗談まじりに『トロイ』という映画をホメーロスを読む代わりに見た方がいいと勧めていました(「トロイ映画ですけど(笑)」ということです)。
今関心のあるテーマは世界宗教だそうです。そこには鎌倉仏教なども入るようです。
メモも取らず、録音にも失敗したので、どなたか行かれた方でレポートして下さるとうれしいです。とりいそぎ、では
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追記:
柄谷氏が最初に描いた図は上記のようなものです。
講座の最後に「人民は最終的に国家に勝つのではないでしょうか?」といった会場からの質問に対して柄谷さんが「人民」という言葉の曖昧性を指摘し、定義し直すのを聞きながら、この図はかなり有効ではないか、という意を強くしました。

NAMに関連して言えば、柄谷さんへの人格的帰依から脱却するために、現在、その学問的内実の検証が大事になる、と僕個人は思います。官僚制に関する柄谷さんの最近の研究は、NAMでの反省に立ったもので注目に値するものです(先の講座でも「私的官僚制」に関して述べていました)。
さらに先の講座で柄谷さんは日本の地域通貨で唯一成功した事例は「おうみ」だと述べていました。「おうみ」はタクシーや映画館で使える原資担保型地域通貨です。この認識もQ(無担保型)での反省にもとづいたものなのでしょう。
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by yojisekimoto | 2006-12-11 23:13 | 柄谷行人