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スピノザからカントを、カントからスピノザを読む

カントは、スピノザの哲学を自らの哲学体系『純粋理性批判』の中に、第三アンチノミーのアンチテーゼとして内包させている。そしてその「独断的」(『理性の方向を定める問題』1786年より)傾向をスピノザ論争以降の文脈で批判する。

「彼が行為の上で尊重しているところの道徳法則によって、彼自身の目的が内的に規定されているという事実をどう判断するのだろうか。」(『判断』下p172)

しかし、これには『エチカ』定理第一部の定理31が応えるであろう。

「現実的知性は、有限なものであろうと無限のものであろうと、意志・欲望・愛などと同様に、能産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬ」(1:31)

スピノザの哲学の中でも、知性=悟性は規定され、その限界が自覚されているのだ。さらに定理第五部の定理23の証明および定理30にはこうある。

「我々は人間精神に対して身体の持続する間だけしか持続を賦与しない。しかしそれにもかかわらず今言ったあるものは神の本質そのものを通してある永遠なる必然性によって考えられる、、、」(5:23)
「我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る」(5:30)

つまりスピノザもカントも同じ限界内にあり、かつまたカントの哲学がスピノザを内包させたように、スピノザの哲学もまた既にカントを内包させているのである。
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カントの言う物自体がスピノザのいう実体にあたることに加え、スピノザの「能産的自然」(1:29)という概念は反省的および統制的に、「所与的自然」は規定的および構成的なものとして把握され得る。さらに、カントの「目的なき合目的論」もスピノザの能産的自然と共鳴することは論を待たない。
スピノザが言うように「実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの」(1:定義3)とするならば、カントは思考の二重の構造(感性から理性を読み、理性から感性を読む)によって「私」を実体化(狭義のそれ)し、主観を哲学の中心に置いた。

もちろんカントにとってすべてが主観に内包される訳はなく(統覚的主観はXとして措定されるだけだし、狭義の主観は解体され得る)、物自体が認識できないものとして残る。カントが『実践理性批判』*でスピノザを条件付きで評価したのは、時間以前の存在であるはずの神をスピノザがカントにとっての物自体と同じ実体として位置づけ、安易な実体化(創造神のそれ**)を避けていたからだ。
両者はともに哲学を根底から考え直し、自然科学へのアプローチを忘れず、形式論理学の枠に収まってはいない。
先に述べたように、スピノザの「神」は、近代的言説として言い直せばカントの「物自体」になる。とはいえ、両者の哲学は相似的というにはあまりにもその体系の形状のタイプが異なっている。その両者の差異の理由としては、カテゴリーによる主観の分節化がよい例だが、カントはすべてを時間軸に定位したことが挙げられよう。ただし、その内実の差異は見かけほど大きくはない。

カントの理性と感性のフィードバック装置はスピノザの中にも、実体(=神)と様相とを切り離す形で存在しており、スピノザの主要概念である(実体に属すると言う)属性もまた捨象されずに概念規定されているのであるから、カントの言うように根本概念から「悟性をいっさい除去する」(『判』下p69)という心配はないのである。

そもそも、スピノザは、必ずしもカントが危惧するように、安易に独断論の「翼」(「思考の方向〜」より)を広げてはいない。「人間は自分を自由であると思うということ」(1付録)に対する最大の批判者はスピノザ自身である。スピノザは、「酩酊者」(3:2備考)が自らを自由と考えるのは、「自らの行動の原因を知らない」(2:35備考)からだと書いている。独断論の危険性を歴史的にはカントに先駆けて指摘しているのだ。

一般によく建築に例えられるカント哲学の功績とその近代性(注*を参照)は、その思考法を法廷モデルとして一般に開いたことにある。今日の我々は、スピノザの哲学を振り返ることで、さらにその法廷を「永遠の相のもと」(5:29他)に広げることが出来るだろう。

参考:
さらに、カントのカテゴリー論と対応させると、『エチカ』第一部は量(実体)、第二部は質(属性、本質)、第三部と第四部は様相(生活法、善悪)、第五部は関係(自由)をそれぞれ扱ったものとして考えることが出来る。ちなみに『純理』ではカントの主観は4つのカテゴリーによって解体、分節化されている。
また、スピノザ→カントという対応関係を、章ごとにではなく概念構造上で見ると、実体→量または関係(ここがポイント)、属性→性質または様相、様態→様相となるだろう。

*注:
スピノザにとっては「徳=幸福」であり(5:42)、実践理性のアンチノミーはカントと違う形で解決される。あえてスピノザとの差異とその近代性を明確化するならば、カントが、人間の義務であり目的を「他者の幸福、自己の完全性」(これらは逆にはならないー『人倫の形而上学』より)として、他者の他者性を指摘したことを想起するべきだろう。他者という概念によってはじめて構造的に主観の哲学たり得るのだ。
他方、スピノザにも表象の問題を指摘したという意味で先駆性がある。マルクスに先駆けて(「神」ではなく)「貨幣」の表象の無意識化を指摘しているのだ(4付録28項)。

**
『思考の方向〜』におけるカントのスピノザ評価は、旧来の宗教観に比べて多少はましだとする点で、『人性論』(第一篇知性について、岩波文庫第二巻)のヒュームと共通点がある。
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by yojisekimoto | 2006-08-31 00:00

価値形態論とカテゴリー論

ヘーゲルを媒介にした、
価値形態論(マルクス)とカテゴリー論(カント)。以下メモ。

[1]単純な価値形態

<等価価値(貨幣)bと相対的価値形態(商品)a>

商品の価値は他の商品の使用価値で表現される、

W-G,G-W
a=b

「主語aの様子を述語bで表現する、質的判断」−
カントの判断表、 
質 →肯定的(〜である)
    否定的(〜でない)
    無限的(〜は非−である)

肯定判断
Px
否定判断
¬(Px)
無限判断
(¬P)x  [u]

[u] =“¬P”を一つの述語記号とする

[2]拡張された価値形態

W-G,G-W
ax=b, a=c, a=d,...a=n

「述語bの本質を主語aの量xで表現する、量的判断」+
量 →全称的(すべての〜は−である)
    特称的(幾つかの〜は−である)
    単称的(一つの〜は−である)

全称判断
(∀x)Px
特称判断
(∃x)Px
単称判断
(∃x)(Px∧(∀y)(Py⇒x=y))

[3]一般的価値形態

<aが等価価値(貨幣)に、bが相対的価値形態(商品)に転換>

b=a, c=a, d=a,...n=a
a=b
=c
=d
=...
=n

「本質(両者の関係)の展開」×
 関係→定言的(〜である)
    仮言的(〜ならば、−である)
    選言的(〜か−である)
関係
定言判断
Px
仮言判断
Px⇒Qx
選言判断
Px∨Qx

[4]貨幣形態

b=a, c=a, d=a,...n=a
a=b
=c
=d
=...
=n
a=Gold(金)として定着、様相が固定化する。

「個別としての普遍(=必然性)の概念の展開の度」÷

 様相→蓋然的(〜かもしれない)
    実全的(〜である)
    確定的(〜であるに違いない)
様相
蓋然判断
◇Px
実然判断
Px
必然判断
□Px

結論:<貨幣による交換は、自由で対等な関係をもたらすが、
    等価価値(貨幣)bと相対的価値形態(商品)aという非対称な関係
    を伴う>


参考:「」内は、ヘーゲル全集『大論理学(下)』武市健人訳注より。
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by yojisekimoto | 2006-08-30 20:07 | マルクス

カントのカテゴリーとアンチノミー


カントのカテゴリーとアンチノミーを図解してみました。
以下メモです。

カテゴリー(第一)
量(単一性、多数性、全体性)
質(実在性、否定性、限界性)
関係(実体性、因果性、相互性)
様態(可能性、現実存在、必然性)
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カテゴリー表のもとになった判断表は以下、
 量 →全称的(すべての〜は−である)
    特称的(幾つかの〜は−である)
    単称的(一つの〜は−である)
 質 →肯定的(〜である)
    否定的(〜でない)
    無限的(〜は非−である→註)
 関係→定言的(〜である)
    仮言的(〜ならば、−である)
    選言的(〜か−である)
 様相→蓋然的(〜かもしれない)
    実全的(〜である)
    確定的(〜であるに違いない)

上記カテゴリーに、実践理性批判における自由のカテゴリーと判断力批判における趣味のカテゴリーとを合わせると、
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自由のカテゴリーは、

量(1) 格率にしたがった主観的な個人の意思 (=格率)
(2) 原理にしたがった客観的な指令 (=原理)
(3) アプリオリに客観的かつ主観的な自由の原理=法則 →参照:『道徳形而上学原論』
質(1) 作為の実践的規則
(2) 不作為の実践的規則
(3) 例外の実践的規則
関係(1) 人格性に向けられた自由
(2) 人格の状態に向けられた自由
(3) ある人格から他の人格に相互的に向けられた自由
様相(1) 許可と不許可
(2) 義務と反義務
(3) 完全義務と不完全義務

判断力批判におけるカテゴリーは表になっていない。また質と量の記述順が逆。

アンチノミーもカテゴリーの分類に沿っており、

第一のアンチノミー
・テーゼ・・・・・・・・世界は時間・空間的に有限である。
・アンチテーゼ・・ 世界は時間・空間的に無限である。

第二のアンチノミー
・テーゼ・・・・・・・・世界における合成された物は、それ以上分割できない単純なエレメントからなる。
・アンチテーゼ・・ 世界には単純なエレメントは存在しない。 空間は無限に分割できる。

第三のアンチノミー
・テーゼ・・・・・・・・世界には絶対的なはじめとしての自由がある。
・アンチテーゼ・・ 世界における出来事はすべて自然必然の法則、すなわち自然因果の法則によって起こる。 自由は存在しない。

第四のアンチノミー
・テーゼ・・・・・・・・世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者がいる。
・アンチテーゼ・・ 世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者はいない。

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テーゼ/アンチテーゼを哲学者に対応させると 、

1、キリスト教(世界に始めがある)/アリストテレス(世界は無限)
2、ライプニッツ(分割可能)/老子(分割不可能)
3、ヒューム(自由あり、非決定論)/スピノザ(自由なし、決定論)
4、スピノザ(必然性あり)/ヒューム(必然性なし)

(1は世界の名著アリストテレス月報、2は『カントはこう考えた』p133、3は『トランスクリティーク』p175を参照のこと)。
なお、「量」は単数から全称性までを扱うから「+」、質は否定を含みかつ本質を引き算で考えるので「−」、「関係」は複数のものを同時に扱うので「×」、「様相」は確率を扱うので「÷」、と書くと全部で4つのカテゴリーの十全性が実感できるかも知れない。


http://w1.oekakies.com/p/nams/p.cgi
お絵描き掲示板


参考:↓(永井ドットコムより)
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by yojisekimoto | 2006-08-29 20:03

オシム=統整的理念としてのトータルフットボール

ジーコの言う自由も、トルシエの指導したフラットスリーも目指すべきサッカーを構成的に考えたものだった。それぞれ目指す理想は素晴らしいものだったかも知れないが、どちらもWC本戦で限界が露呈していたのは確かだろう。その一方で、今度監督になったオシムのサッカーには構成的ではなく統整的という言葉が当てはまる。
構成的というのは理想をある特定の鋳型ととらえ、そこに選手なり組織を当てはめるというものだが、統整的というのはその都度調整して目指すべき地点に一歩づつ近づけていこうという現実的な態度だ。
ジーコなどは選手を型に当てはめなかったと言えるかも知れないが、三都主のポジションなどを見ればわかるように、中盤の選手の自由と引き換えに、他の選手がそれぞれのポジションに縛られていたし、自由という理念が放任と取り違えられ、一人歩きしていた観があった。

オシムのサッカーは改善の余地があるとはいえ、一人一人に判断の早さを求めるトレーニングなど、考えながら走るサッカー(=トータルフットボール)という理想が一人歩きせずに統整的(レギュラティブ)に機能していると思う。各自に判断の主体があるというのは、前例にとらわれやすい日本社会では重要なことだし、型を与えて有無を言わさずハードルを越える技量を身につけさせる宗教などとは違うものだ。オシムの7色ものビブスを使った練習や、4バックか3バックかを選手に判断させる練習方などを見ても構成的ではなく統整的だと思う。

上記の構成的、統整的(統制的とも書くが、こちらの方がニュアンスが伝わりやすい)というのは実はカントの言葉である。
ただし、オシムのサッカーはポジションにとらわれないのでカントの言う統整的理念を彷彿とさせるのは無論だが、カントの作った哲学体系よりも、スピノザの哲学を想起させるところがある。オシムサッカー(=「統整的理念」)が日本社会に波及する様子を見ていると、オシムのサッカーはむしろスピノザ的な複数の中心を持つカオスを創出していると言えるかも知れない。
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by yojisekimoto | 2006-08-11 00:31