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有事とは?

第二次大戦時の米による日本への石油禁輸を想起するなら、経済制裁によって日本は北朝鮮に対してすでに宣戦布告しているに等しい。
今問題にすべきは、戦後処理であって、米中によってなされた「有事」(大国による核実験、核保有)から日本/アジアがいかにして脱却するかなのだ。
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by yojisekimoto | 2006-10-16 20:49

カントと4つの無

カントは『純粋理性批判』(B348)で4つの<無>について語っている。
これを図式にすると、例えば老子、仏陀、ショーペンハウアー、ニーチェの立場の違いがよくわかる。
相対的で即物的な欠如無(「欠けている無」)を主張(及び体現)した仏陀に対して、ニーチェなどは概念そのものを絶対的に拒否した否定無を主張したと言えるし、ショーペンハウアーなどは想像力を発揮する場所(「想像的なもの」に当たる)にいたと言える。
ニーチェはショーペンハウアーのいた場所から逸脱しようとしたが、カントはその立場(否定無のそれ)を「不合理なもの」と呼んでいる。ニーチェ的な系譜学は歴史を対象とするので必ずしも観念論ではないが、概念自体を破壊するものなのでカントのような人には不合理なものに見えるだろう(ただしニーチェは先の日記に書いたようにカントと実は似ているところがある)。
カント自身は物自体を<有>としてとらえ、そこから思考を発展させたのでこの図はカントも指摘するように西洋思想にとってはネガでしかない。
だがそこには論理学的に大きな可能性があることも事実なのだ。

ちなみに仏教(ナーガールジュナなどもこれにあたる)と違い老子は発生論を伴い、無から始まり無に終わる思考を持っていた点で対象を絶対的に欠いた「空虚な概念」として、カントの言う「思惟されたもの」に当たると思う。a0024841_20123257.jpg
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by yojisekimoto | 2006-10-16 20:12

ニーチェと『東洋の合理思想』

『善悪の彼岸』(211)でニーチェは哲学に労働の概念を持ち込む。
後年デリダはそれを受け継ぎ、『エコノミメーシス』におけるカント『判断力批判』の解釈に詩人の労働という概念を導入している。デリダはニーチェからの影響を受けつつ、ハイデッガーのように存在と存在者の差異をテクストに内在させ、マルクスの還流する価値論をテクストに偏在させるのだ。

だが、ニーチェの意義はそこにとどまらない。
形而上学の歴史を顧みれば『アンチ・オイディプス』ならぬ『アンチ・ホメーロス』とでも呼ぶべき『国家』でプラトンは、詩人を追放する論理を構築したが、ニーチェは詩人としてその形而上学の歴史に系譜学的に亀裂を入れる。カントがソクラテスの無知の知を建築物として確固たる物に鋳直したと言えるとしたら、ニーチェはそれをアフォリズムという最小レベルと永劫回帰という最大レベルに置いて同時に撹拌するのだ。

『権力への意志』(564)で「すべての量は質の表示ではなかろうか?」とニーチェがカントのカテゴリーに反論しているが、そこでもニーチェは質を体現する詩人としてカントに対抗している。よく似た感情に名前をつけてそれぞれの区別を可能にする詩人は同時に心理学者でもある。同一性の哲学ではなく、ドゥルーズのいう差異の哲学は4つの「無」を規定したカント(純理B348)のように「量から質へ」の心理的過程をニーチェは時間軸において分節化しているのだ。

ニーチェが生に価値を導入するのを拒む『権力への意志』では無が前提となる思考、ニヒリズムが提出されている(708)。否定の否定である空(=ニヒリズム)は、単なる厭世観ではない。『東洋の合理思想』(講談社現代新書)にあるように、ヘーゲル流の有無成の弁証法ではなく、無有成の弁証法を東洋思想が持っていることを想起しよう。
それは自然に還るという点で、スピノザにつながる思考である。
スピノザの論理とインド哲学はニーチェによってつながるのだ。それは冷徹な論理学であって、熱狂的な神秘主義では断じてない。
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by yojisekimoto | 2006-10-09 02:25 | 研究