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スピノザとカントの間に

インド思想史におけるヒンズー教と仏教の論争については沢山のことが語られています。
大雑把に言って実在論と唯名論(認識論)の対立ということが指摘されており、これを西欧哲学に置き直すとスピノザとカントの思考基盤の対立ということになるでしょう。

ここで、比較思想史を論ずる余裕はありませんが、『ミリンダ王の問い』などインドとギリシャの交通という実証的な検証という課題を指摘することに加えて、一人のキーパーソンの名を挙げたいと思います。
それがニーチェです。

一般にニーチェはカントに逆らったと考えられています。しかし、ニーチェが実は、「悟性が作り上げる原因は現象にすぎないのに、それが物自体であるかのように見なすことは物自体としての『原因』を隠蔽することになるという、カントの批判を反復している」(柄谷行人「カント的転回」、現代思想『カント』1994.3、p19より)と考えることも可能でしょう。
そもそもニーチェはナチの専売特許ではないのですから、その誤解を解かなくてはなりません。

かつてスピノザを賞賛した有名なニーチェの手紙と考え合わせると、スピノザとカントの間にニーチェはいたということになります。そして思想史的には西洋思想と当時輸入され始めた東洋思想の間にいたと言うことも出来るのです。
ニーチェを現代思想の創始者と見る向きは、このような不安定な彼のポジションを考慮したとき妥当なものだと思います。

とはいえ僕個人は彼をあくまでドイツ人だと思っています。
日本で言えば坂口安吾のような存在であり、非合理であるかに見えて合理的な思考が実はそこにはあるのです。
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by yojisekimoto | 2006-11-29 00:55

カントの遺稿集(再考)

カントの遺稿『オプス・ポストムム』に関して、興味深い論文を読みました。「カントの{{Opus postumum}}の哲学史的位置について」福谷茂(「哲学研究」578号 京都哲学界)です。
存在論的な可能的経験の導入において一線を画しながらも、カントがスピノザとの接点を垣間見せているという論旨でした。旧来のカント観を一掃するものであり衝撃的でさえあります。

福谷氏はこう書いています。

「ではそのような形而上学の世界がなぜカントの最終目的地でなければならなかったのか。それは、この形而上学が世界の一つの制度であり、言わば公共の場であるからである。(中略)カントは理解されることを求めたのである。」(「哲学研究」No.578,京都哲学会,p143)

一元化された哲学体系に同じ土俵で立ち向かうとはいえ、可能的経験という様相概念を導入することで自然と自由の二元論は維持されますから、それまでの批判哲学は結果的には相補的な形で補強されます。『純粋理性批判』以来、仮想敵としてきたスピノザを本質的に咀嚼する段階にカントはようやくたどり着いた、、というのが『オプス・ポストゥムム』の好意的読みになります。
カントは晩年、自身の手でスピノザの側からカントの批判哲学を読み直していたということにもなります。総じて日本のカント研究者は生真面目過ぎてこの件に関して対応できていないようです。岩波版で全集から排除されたという状況もあり、『オプス・ポスト(ゥ)ムム』に関しては更なる研究が望まれます。

具体的には英訳↓で検討中なので、またご報告させていただきます。
http://www.amazon.com/Postumum-Cambridge-Works-Immanuel-Translation/dp/0521319285/sr=8-1/qid=1162222289/ref=pd_bbs_sr_1/002-0412426-8840850?ie=UTF8&s=books
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by yojisekimoto | 2006-11-28 19:32 | カント

三島由紀夫の心中

三島由紀夫は楯の会の森田必勝と一緒に心中した、というのが僕の説だ。
政治的な事象=レトリックの陰に、セクシュアリティーが隠蔽されていることになる。ちょうど自らの『春の雪』と『奔馬』を止揚したのが三島の「実践」だったのだ。

三島は自らの「内なる不合理(当時としては)=同性愛」を隠蔽するために論理的整合性を求めた。三島の論理は明快で、今日の国防論争などは三島が提示したラインをなぞっているだけだが、天皇を京都ではなく日本の王としたこと以外は三島の意見に傾聴すべきところは多々あると思う。

『豊穣の海』後半のインド志向(実は世界的にも論理学発祥の地だ)などは偶然だと思わないが、やはりレトリックがすべてという感は否めない。結局、森鴎外の一面を代表するような家父長的発想、つまり男性中心主義が無意識を抑圧しているのだ。三島は自らを抑圧し続けることに成功した(少なくとも表面的には)。

三島と同じく消費社会に警鐘を鳴らしたパゾリーニのように自らの同性愛的嗜好を論理的嗜好に転化したことは認めるべきだろうが、三島の死は同性愛がタブーであった当時の状況を証言しているだけだ、とも思う。

ルーカスが制作した『MISHIMA』が日本で公開されていないところを見ると、今なお三島を抑圧し続けているのは現在の日本社会だということも出来るだろう。
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by yojisekimoto | 2006-11-25 07:14

ゲーデルによる神の存在証明

神の存在証明はアンセルムスやデカルトなどによるものがありますが、「不完全性定理」で有名な論理学者のゲーデルは晩年、神の存在論的証明について書き残しています。
以下、不完全な要約ですが箇条書きで簡単に述べます(高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』↓講談社現代新書p217-8参照)。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/406149466X/sr=8-2/qid=1163578933/ref=sr_1_2/503-5582828-5887142?ie=UTF8&s=books

ゲーデルによれば、神は肯定的性質(=神性G)のことです。
任意の肯定的性質Pに対して、Pを持つ対象が少なくとも一つはあり得ます。
したがって、神性Gを所有する対象Xが少なくとも一つ存在する可能性があります。
この結果、Gを所有する対象Xが少なくとも一つ存在します。
さらにその対象Xは、Gを唯一持つ対象です。
ゆえに、唯一の神が存在する、

ということらしいです。

スピノザのように公理と定義と定理を前提にして、しかも論理記号を駆使するので素人にはわかりづらいですが、興味深いです。
ちなみにゲーデルは、タイムマシーンに関して、宇宙が膨張していないという前提で可能だと述べています。
そもそも「肯定的」な性質は(「否定的」性質とともに?)偏在するという東洋的な考え方も可能だと思うので、ゲーデルの証明はひとつの試みということになるでしょう。

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追記:
以下の書き込みがネット掲示板にあったのでメモとしてつけたします。(2007.11/5)

198 名前: 走召 糸色 文寸 ネ申 Mail: 投稿日: 2007/11/05(月) 08:38:27 [ 0 ]

P(φ) φは肯定的(またはφ∈P).
公理1.P(φ).P(ψ)⊃P(φψ). 任意の数の連言
公理2.P(φ)∨P(~ψ). 排反的選言
定義1.G(x)≡(φ)[P(φ)⊃φ(x)](神)
定義2.φEss.x≡(ψ)[ψ(x)⊃N(y)[φ(y)⊃ψ(y)]]. (xの本質) xの任意の二つの本質は必然的に同値である。
p⊃nq=N(p⊃q).必然性
公理3.P(φ)⊃NP(φ)
~P(φ)⊃N~P(φ)性質の本性より導かれる。

定理.G(x)⊃GEss.x.
定義.E(x)≡(φ)[φEss x⊃N(∃x)φ(x)].(必然的存在)
公理4.P(E).
定理.G(x)⊃N(∃y)G(y),
  ゆえに(∃x)G(x)⊃N(∃y)G(y);
  ゆえにM(∃x)G(x)⊃MN(∃y)G(y).(Mの可能性)
M(∃x)G(x)⊃N(∃y)G(y).
M(∃x)G(x)は、肯定的な性質すべてを含む体系が両立可能であることを意味する。なぜなら、
公理5.P(φ).ψ⊃nψ:⊃P(ψ),よって
x=xは肯定的
x≠xは否定的。
199 名前: 走召 糸色 文寸 ネ申 Mail: 投稿日: 2007/11/05(月) 08:39:39 [ 0 ]

デカルトの存在論的証明
仮定1 神は完全である。(定義)
仮定2 もし神が完全であれば、神は存在する。
結論  ゆえに神は存在する。

アクィナスの神の宇宙論的証明:ア・ポステリオリ証明
仮定1 全ての結果には、原因がある。
仮定2 因果関係は、無限に連鎖しない。
結論  因果関係の最初に、第一原因(神9)が存在しなければならない。(必然性)

アンセルムスの神の存在論的証明:ア・プリオリ証明
定義  神は、それよりも大なるものが可能でない対象である。
仮定1 神は、理解において存在する。
仮定2 神は、事実において存在する可能性がある。(可能性)
仮定3 もし任意の対象が、理解においてのみ存在し、事実において存在する可能性があれば、その対象は、それ自身よりも大なる可能性がある。
背理4 神は理解においてのみ存在すると仮定する。
背理5 神は、神自身より大なる可能性がある。
背理6 神は、神自身よりも大なるものが可能な対象となる。
背理7 それよりも大なるものが可能でない対象が、それよりも大なるものが可能な対象となる。
背理8 神は、理解においてのみ存在することはない。
結論  神は、事実において存在しなければならない。(必然性)
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by yojisekimoto | 2006-11-15 18:52

スピノザとディープ・エコロジー

今回は書評です。

『ディープ・エコロジーの原郷—ノルウェーの環境思想』
2006年、東海大学出版会、尾崎 和彦著


スピノザを環境問題に援用した最初の人物がノルウェーのアルネ・ネスであり、この書はその貴重な紹介文の部分(7、8ページ分)だけでも価値がある。
人間中心の狭いエコロジーに対して、ディープ・エコロジーをネスは主張するが、自ら登山家である彼の理論は権威的になることがない。ただ、論理学をマスターしたネスのスピノザ理解は正確だが、その倫理観は最終的にカントに近いようにも思う。シューマッハがカントの言う美の問題意識に対応するとしたら、ネスは崇高の問題意識に対応するだろう。
ネスによる『ディープ・エコロジーとは何か?』(GNP中心主義に対しての最初の異議を含む)の日本語版も、『エコロジーと哲学』のノルウェー語版にあるというスピノザ論とガンジー論(ヴェーダ、集団倫理に関する考察を含む)を付記して改訂再版してもらいたいものだ。
個人的にはイプセンの『ブラン』とエコロジーの関連性の指摘も興味深く、ネスと100年ほど歳の離れたこの作家の再評価のキーポイントとして注目したい。
また、第一章で論じられた「北欧神話」とエコロジーの関係に関しては、日本の神道をはじめ他の呪術/宗教に関しても同じことが言えるような気がするので再考が必要だろう。
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写真:『エチカ』を読むアルネ・ネス
(この写真はコピーなので画質が荒いですが、英語版「アルネ・ネス選集6」及び「Is It Painful to Think?: Conversations With Arne Naess」に高画質のものが所収されています。)
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by yojisekimoto | 2006-11-15 12:11