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アナーキストの組織手段の具体例:メモ

「新しいアナーキスト」D・グローバー(「現代思想」2004.5)より、
アナーキストの組織手段の具体例です。
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解説:
傍観者(2)とは、邪魔はしないと関心集団(1)を見守る誓約に同意すること。これにより複数の価値観が共存する。
代表者会議(3)は複数の類縁集団(4)を調停し、そこでの問題は促進手段(5)で会議にかけられ(ブレインストーミング、これも傍聴のみ)、さらにそこでのトラブルは金魚鉢(6)と呼ばれる当事者同士の裁判で代表者が判断する。
図では超越的ポジションに置いてしまいましたが、「促進手段」(5)に関してはむしろ恒常的開催が望まれます。

いわゆるQとNAMの問題では、京都会議が代表者会議だったのですが、促進手段をネット上で公開したために「金魚鉢」による当事者同士の話し合いが不可能になってしまったと言えるでしょう(代表者が私信のメールをMLに流して感情転移がはじまったのがそもそもの起因です)。金魚鉢(6)を開こうにも第三者による調停者=代表者(3)が不在でした。

また、NAMにおける関心系は関心集団または関心ブロック(2)にあたりますが、NAMでは他の関心系のMLに参加していなければ情報は分断されていたので、傍観者(1)というよりも不可避的に部外者たらざるを得ませんでした。

デビッド・グレーバーはこうした組織論が、マダガスカルの先住民の組織運営と似ていると言っています。

追記:
同著者の『アナーキスト人類学のための断章』に対する柄谷行人の書評はasahi.comで読むことがきます。
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by yojisekimoto | 2007-02-23 16:19

薔薇の形をした未来

ウェブできれいな写真を見つけたので昔書いた詩を思い出して掲載してみました。


悲しみばかりが確実で
苦しみばかりがやってくる
未来はまだまだまだぼんやりしてるから
お前と二人で咲かせたい
薔薇の形をした未来

色は自分で塗らなきゃならない
本当は土から作らなきゃならない
水を撒くのが取りあえずの仕事
お前と二人で咲かせたい
薔薇の形をした未来

埃だらけの道を抜けて
苦しみばかりの夜を越えて
やっておいでよ恥ずかしがらないで
お前と二人で咲かせたい
薔薇の形をした未来

ひざまづいて祈る前に
すべてを棄ててしまう前に
やっておかなきゃいけないことがある
お前に今すぐ捧げたい
薔薇の形をした未来

薔薇の香りをした未来
ホントは誰にもわかっちゃいない
棘に刺さって苦しんでいるのなら
お前と二人で咲かせたい
薔薇の形をした未来

(間奏)

悲しみばかりが確実で
苦しみばかりがやってくる
未来はまだまだぼんやりしてるから
お前と二人で咲かせたい
薔薇の形をした未来
薔薇の形をした未来
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by yojisekimoto | 2007-02-17 23:22 | 歌詞

ジャネとタルコフスキーの『鏡』

「この現実化機能の最終項、先行するすべての諸項を恐らく要約するだろうところの項は、不幸にしてきわめて識られていないひとつの心的作用、すなわち、時間を構成する作用、現在時を精神に於て形成する作用であろう。時間は完全に作られて精神に与えられるのではない。これを証明するには、子供や病人の抱く時間に関する幻想を研究すれば足りよう。(中略)ひとつの精神状態や一群の現象を現在化することに成立つところの、新語を造って現在化作用(pre'sentification)とでも呼びうるところの、ひとつの精神能力が存立する。」(ピエール・ジャネ『強迫観念と神経衰弱』より)*

フロイトが概念を優先させたのに対して、ジャネは概念を優先しない。その態度は些細なことのようだが、臨床の重視にもつながるという意味で大変重要だと思う。概念を優先させることにより、個々の事例研究がおろそかになってしまうのは、狭義のマルクス主義者が信用組合(例:プルードンの交換銀行など)の具体的事例を軽視してきたのと似ている。

本題に戻って、ジャネの時間論についてさらに述べるなら、ここで筆者に思い出される映画がタルコフスキーの『鏡』だ。
この映画のなかでは映画作家タルコフスキー自身の記憶が再構成されているが、それは時間軸に沿っているわけではない。現在と過去は交互に出現し、ラストシーンでは主人公の現在の母と子供時代の主人公が手をつないで草原を歩くといったように、ひとつの画面自体のなかに複数の時間が再構成されるのだ。

フロイトとマルクスに影響を受けたエイゼンシュテインの映画が概念を前提に作られているのに対して、タルコフスキーはジャネのいう「現在化作用」、その形成プロセス自体を映画のなかで再現しようとする。

『鏡』の主人公は映画の最後に病気になり寝込むが、精神科医にその病名について「記憶が原因です」と言われる。これは「現在化作用」を見失った映画作家自身の赤裸々な自己批評だと思う。タルコフスキーは後に自著『映像のポエジア』**で、完成間際まで映画の構成が見極められなかったとも語っている。

誤解がないように言っておくと、タルコフスキーの映画は戦争や圧制といった歴史に対しても開かれた映画であり、個人の記憶の中に閉じこもっている映画ではない。
そこには人類史に対する非妥協的は批評精神が存在するのだ(実はこの一点においてタルコフスキーとエイゼンシュテインは精神的な相似形をなす)。
タルコフスキーの倫理観は彼の別の作品『惑星ソラリス』の次の台詞が雄弁に語っているように思われる。

「われわれに必要なのは鏡だ」。

この言葉は、他者の欲望に引きずられたり、自己にではなく他者にのみ要求するといった倫理観の欠如した現代の文明の課題を、明確に指し示している、と思う。



*ジャネ自身の著書は入手困難だが、同じ心理学者ミンコフスキーが『生きられる時間(1)』(邦訳p45)で上記のジャネの時間論に言及し、引用している。
**『映像のポエジア』(キネマ旬報社)は現在絶版。復刊が望まれる。なお『鏡』に関しては黒澤明の好意的な批評がある(イメージフォーラム『タルコフスキー』)
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by yojisekimoto | 2007-02-12 23:35

HIPHOP、未だ覚醒せざるNAM

ヒップホップの4大要素としてダンス、ラップ、グラフィティ、DJがある。
そして「レペゼン何々」というように、地域を担う部分もある。
これらは(唐突かも知れないが)、NAMの関心系、地域系に相当するだろう。

ヒップホップのこれらの要素はNAMのように斜めに横断するセンター評議会によって把握されている訳ではないから、中心を持っていないということになるが、B-boyパークのような年に一度のイベントがセンターを代行している(これは世界社会フォーラムのようなものかも知れない)。
ただし、最近ではultimate mc battleがMCバトルというラップのイベントを特化して行っているので、もはやB-boyパークも前出の4大要素を束ねる力を持ってはいない。それでも彼らが全体として現在のNAMのように求心力を失っているわけではない。

DJなどはそもそも消費物を再生産に使う批評行為な訳だから、ヒップホップは求心力の無い世界が前提となっているのである。

ラップについて述べるなら、旧来の左翼が論争を行う時、雑誌という文字媒体にフィールドが限られるか、特にNAMは論争にはMLを使うしかなかったが、若いラッパー達はマイク一本、ラップで論争をしているのだ。その論争の質は少しづつだがレベルを上げつつある。そしてなによりも、ultimate mc battleの模様を収めたDVDやYOUTUBEのMCバトルを見ると、当事者のかれらが全体としてのヒップホップカルチャーの可能性に自覚的なことに驚かされる。

2pacのDVD(『レザクション』)を見てもヒップホップが都市の貧困の問題と切り離せないということがわかるが、この問題に関しても彼らは自覚を強めつつある。レーベル経営など経済的な力を持つグループは一部だが、それも確実に広まりつつあるのだ。

ヒップホップはカルチャーとしてはまだ未熟だが、未だ覚醒せざるNAMとしての力を秘めている。
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by yojisekimoto | 2007-02-11 21:00

官僚制について

アジア的生産様式論争を踏まえ、単一時間軸にとらわれない支配のあり方を図にしました。
「アジア的〜」はアジアに限らない、 封建制は中心的帝国の支配の届かない場所でおこる、
封建制は契約を要するので氏族支配とはギャップがある、 などが指摘できます。
アジア的生産様式をどう解釈するかに関しては様々な議論(*)がありますが、一応別枠と解釈しました。
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参照:『世界共和国』(P33) →注:マルクスは1と2とを同じものとして考えている。
1.氏族的社会構成体
 互酬的交換A(A〜Dに関しては文末の4つの交換図を参照)が支配的。
 部分的には他の共同体との間に略取‐再分配Bや商品交換Cがあったと思われる
 ⇒原始共同体

2.アジア的社会構成体
 さまざまな交換形態がありつつ、略取‐再分配Bが支配的。
 常備軍、官僚制、文字、通信のネットワークをもつ、国家機構のほぼ完成された形態
 ⇒古代文明(エジプト、メソポタミア、インダス河流域、黄河流域)

3.古典古代的社会構成体 (奴隷制?)
 アジア的社会構成体の亜周辺。
 文明を享受しつつも、互酬的交換Aを保持。
 民主主義体制が実現されるが、基盤に奴隷制(略取‐再分配B)
 ⇒ギリシアの都市国家

4.封建的社会構成体
 アジア的社会構成体の亜周辺。
 さまざまな交換形態がありつつ、略取‐再分配Bが支配的。
 分権的で、アジア的社会構成体における中央集権的な国家のようにはなりえなかった。
 ⇒西ヨーロッパ、日本

5.資本主義的社会構成体 (消費社会の中の奴隷制?)
 商品交換Cが支配的。
 略取‐再分配B(徴税→再分配、常備軍・官僚機構)・互酬的交換A(ネーション)も存続
 ⇒近代国家
 ⇒資本=ネーション=国家

上記の全体像を時間軸にそって記述すると以下の図になります(一例)。

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ちなみにこの図に先に挙げた社会構成体を当てはめると以下になります。
    1
2      3
5      4
    5?

「歴史の初期には、どこにもごく緩やかな王政があったが、その後の発展は王という一人の権力を貴族という複数の力が代行する方向に向かうか、あるいは温和な王権がだんだん強化されて自分の腹心的な官僚を権力維持の装置とし、これに立脚して温和な王権を強権的な王権に成長させるという方向に向かうか、この二つの途があった。」『古代農業事情』解説(安藤英治『マックス・ウェーバー』講談社学術文庫p343、注:「ライトゥルギー」=「対国家奉仕義務」同p355)

ウェーバー自身は左:ドイツと右:ギリシアとして具体例を考えていたと思います。ただし、上図の左:官僚制と右:封建制を、あえて言えば左:古代中国と右:日本、左:NAM末期と右:FA 、とあてはめて考えることもできます。

また、官僚制の存在は、私的官僚制と公的官僚制があるように、国家に限りません(「新秩序ドイツの議会と政府」『政治社会論集』ウェーバー)。



以下、参考までに、柄谷行人氏の4つの交換図を転載いたします。

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追記:冒頭の図と文末の交換図を合わせると実は驚くべき結果が現れます。
封建制をアソーエーションとして評価することが可能になるのです。
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(くじ引きは双務的には自覚されていなかったので)ギリシア古典的はAが妥当かも知れません。
さらに社会契約(片務的)か相互契約(双務的)かという契約の質が問われるので封建制イコールアソシエーションではありません。
また『国家とは何か』の著者、萱野氏が柄谷氏との公開講義で言及していた奴隷制と資本制の共通性の根拠もはっきりします。ただしこれは柄谷氏も指摘したように消費社会のなかで位置づける必要があるとも思います。
以上、官僚制とはかけ離れた話題になってしまいましたが、NAMに関して僕が提出した、各関心系が封建的に自立分散し、事務局員をセンターに派遣するというNAM末期にありえた処方箋を理論的に裏付けるものだとも思います。

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*追記:構成体論争について

構成体論争(アジア的生産様式、古典古代的、封建的、近代ブルジョア的というマルクスの生産様式をもとにした4つの歴史区分をめぐる論争)自体は労農派からは無視されたので(『服部之総全集21』p14)、日本封建論争ほど有名ではないが、今日、我々がこれからの国家のあり方、特に官僚制を考えるうえで多くのヒントが潜んでいる。
マルクスの提出した構成体に対する見方は、国分幸(『デスポティズムとアソシアシオン構想』p9)が整理しているように、アジア的生産様式をアジア独自のものと認めない派(主にソ連の学者)と独自のものと認める派に分かれ、そして後者でも単線的に捉えるか多発的に捉えるかで分かれ、なおかつ多発派でも連続か非連続かで分かれる。マルクスの『緒形態』が1947年に日本語訳されてから(『歴史学研究』129号)は、独自路線が日本でも支配的だが、それでも、今日でも単線的に捉えるか多発的に捉えるかで意見は分かれている。
柄谷は封建制のとらえ方が鍵だとしてウィットフォーゲルの周辺/亜周辺という見方を称揚する。これは中国と日本を地政学的に分節化し、官僚制の規定にも役立つ見方だ。あえて先の分類に当てはめれば、柄谷は「アジア独自型、多発的」ということになる。
マルクス晩年の「ザスーリチへの手紙」等も単線的歴史観を彼がとらなかったとする根拠になっているが、多くの条件付けがそういった読みを難しくさせているのも事実だ。マルクス自身手紙の草稿から多様性を称揚した多くの部分を削っているからである(全集19巻)。

テーケイ(『アジア生産様式論』など)は土地の所有形態で構成体(マルクスのそれとはズレる)を分けておりこれはかなり有効だと思う(国分p59)。個人が→共同体を通し→土地を所有するか(A)、個人が→土地を所有することで→共同体を統治する(B)という二区分、またはその混交で4つに分けるのだ(アジア的はA、古代的はAB混交、ゲルマン的はB、中国的はAと貴族階級によるBの混交)。これにより構成体に関する議論、特に封建制の定義のずれ(欧、中、日本のそれぞれで定義が違う。マルクス(資本論第一部24章注参照)とウィットフォーゲルの説では日と欧は近い)はかなり解消する。とはいえもっと根本的な分節化が必要だろう。

その点で柄谷がしたように、構成体をさらに時系列でない四つの交換様式で分節化し、文字通りそれらで構成(フォーメーション)されたものとして考えるのは画期的だと思うが(ちなみに柄谷はA互酬制1/B略奪-再分配2,3,4/C商品交換5と分類している。『世界〜』p33)、これは生産ではなく交換を主要なポイントとして重視したから可能になった見方でありマルクスからの逸脱と捉えられなくもない。そこでもやはり封建制の捉え方がポイントである。封建制は軍事力つまり収奪に依存するにしても契約的であり日本のそれは特に地方分権的側面があるから、歴史を多発的に見るにはこれを単にアジア的のなかの一要素と捉えるわけにはいかないのだ。
その意味で先述の周辺(中国)と亜周辺(日本:厳密には亜周辺の周辺)とを分けたウィットフォーゲルの官僚制論はそこに能動的な契機を見出す可能性がある点で重要であり、柄谷もウェーバーなどを参照しつつもこの方向で解釈している。

今日では、マルクスが構成体として提出したパラメーターの組み合わせを国家論のみならず、来るべきアソシエーション論に応用、展開させてゆくということこそが課題のように思える。また、そうでなければ構成体論争自体再考する意味はないのである。
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by yojisekimoto | 2007-02-11 16:04

grassrootsウェブリング:(試作です。)



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by yojisekimoto | 2007-02-10 02:09

FAウェブリングのお知らせ:(テストバージョン)



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3. 管理人があなたのHPのナビゲーションバーを確認します。

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(ブログサイトをお持ちでない方へ。
  楽天日記などで、簡単にブログサイトを作ることができますよ〜。
  やりたいけれど・・・とお悩みの方はコメント欄より管理人にご自分のアドレス入りの非公開メッセージをくださいませ。)


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by yojisekimoto | 2007-02-07 20:23

プルードンのフェアトレード論

      「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは
      ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項
      との間でバランスをとる」(プルードン『革命と教会における正義』より  *1)

第二次大戦前の1931年に出版された手塚寿夫(TEZUKA Sumio)著、『国際貿易政策思想史研究』に「プルードンの国際貿易政策論」が掲載されている。
これはプルードンの『経済的矛盾の体系』の第二部冒頭にあたる第9章にある貿易論を論じたものだ。
プルードンのそれは一見単純な保護貿易論に見えるが、そうではない。プルードンは自国の国益だけを見ているわけではないからだ(*2)。

これはプルードンのフェアトレード論なのだ。
フェアトレードは、普通、顔の見える関係と説明されることが多いが、プルードンはここではマクロの視点から説明している(*3)。
プルードンは基本的には、労働価値説によって、交易する両国の労働条件の平等化を訴える。そして最終的には関税に頼らない平等化への道を提示する。
これはフェアトレードは単にフェアな取引のことではなく、公正な世界を目指す運動だという考えと呼応する。
そういえば、僕がエクアドルに行ったときフェアトレードのことをコメルシオフスト(正義の交換)と言っていたことに少し驚いたのだが、これはピ・イ・マルガル(Pi y Margall)(*4)などプルードンをスペイン語訳した先人達の用語法の影響もあるのかもしれない。
相互性という概念を国際貿易に適用するプルードンには先見性を感じる。

ただし、この『経済的矛盾の体系』第二部は英語訳すら出ていない。日本語訳はもちろん前半すら出ていない。サルトルの指摘する欠席裁判が続いているのだ(サルトル『文学とは何か』より)。

手塚氏は「「私はこれからプルードン主義者として論文を発表する」という趣旨の文を書き残して死んでいったそうだ(*5)。手塚氏の蔵書は小樽商科大学に寄贈されている。
戦前の閉鎖的な風潮のなかで果敢な文筆活動を続けた一学者のこの発言には重いものを感じる。
連合の原理は急速に必要なものになっているし、われわれは来るべき時代への指針としてプルードンを必要としている、とさえ思う。

(1)斉藤悦則氏のHPより
http://www.minc.ne.jp/~saito-/travaux/vive.html

(2)例えばイタリアの統一に反対したプルードンをフランスの利益を考えたからだと言う人もいるが、プルードンは返す刀でナポレオン三世の独裁を批判する、、、

(3)ソフィア・ミニーさんが行っている第三世界ゲーム(貧富の差ごとにグループ分けをし、くじ引きでケーキの量が第三世界のチームだけ少なくなる食事会をかねたワークショップ)などが面白い(「ソトコト」2006.4参照)。

(4)以下にマルガル訳の『経済的矛盾の体系』のスペイン語版の写真がある。ブックデザインが素晴らしい。
http://yojiseki.exblog.jp/d2005-05-24

(5)以下の一橋大学附属図書館のHPに小樽商科大学の手塚壽郎教授文庫についての文章が載っています。
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/KANE/kane36.htm
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by yojisekimoto | 2007-02-05 01:51 | プルードン