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ハイデガーとデリダ

死の先取りによってハイデガーは存在論的地平を開く。
デリダによる精神世界の脱構築はエクリチュールとして未来の他者に開かれる(その思考のプロセスは存在と存在論の間に痕跡を残す)。
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上記図には、東浩紀が『存在論的郵便的』(p322)で採用したフロイト「マジック・メモ」断面図↓をアナロジーとしてそのまま当てはめることができる(オレンジの横線はあとから加えた)。
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なお東浩紀は、存在、存在者、現存在を、それぞれメタレベル、オブジェクトレベル、クラインの管と図解している↓。これは存在論としてハイデガーを見るなら正しいがハイデガーはあくまで解釈学なのでクラインの壷が示すようなハイパーインフレーションは起こらないと見るのが妥当だと思う。
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by yojisekimoto | 2007-10-22 23:53 | ハイデガー

存在と存在論、気遣いと契約

『存在と時間』でハイデガーは存在と存在論とを分け、さらにデリダはそれを「差延」という概念において展開しました(『哲学の余白・上』他)。
これは、問題を対象化できると思ったとたん、問題が手の中からすり抜ける有様を哲学的に述べたなものだと思います。
なかなかうまく説明できないこうした状態をうまく説明したものとして、以前、別のサイトでも紹介したことのあるボブ・ディランの以下のような興味深いインタビュー記事があります。

(質問者)これまでに、書こうとしても、どうしても書けなかったようなことは?
         
ディラン あるとも。どんなものでも、書こうとすると書けないものなのだ。僕が何かについて書こうとしたとする−−「馬について書きたい」とか「セントラル・パークについて書きたい」とか「グランド・キャニオンについて書きたい」とか「コカイン産業について書きたい」−−ところが、それじゃ、何もうまくいかないのだ。いつも肝心なものを除外してしまうのだ。ちょうど、あのHurricaneの歌のように。僕はハリケーン・カーターについて曲を書きたかったし、そのメッセージを広めたかった。ところが、ハリケーン・カーターについてなど、どこにも出てこない。ほんとうなんだ、その曲の本質というものは、何かについてではない。つまり、すべてはきみ自身についてなのだ。きみが誰か他人の靴をはいて立っているかぎり、きみにはその感触がどんなものかわからないだろう。それが何についてかさえわからない。
 映画を観に行って、「何についての映画だったんだ?」ということはできる。映画というのは、きみに時間を止められるという幻想を抱かせるものなのだ。きみはどこかに行って、しばらくのあいだじっと坐っている。きみは何かを観ている。わなをしかけられたも同然だ。すべてはきみの脳の中で起こり、いま世界ではそれ以外に何も起こっていないように、きみを思わせる。時間はとまっている。外では世界が終末を迎えようとしていたとしても、きみにとって、時間は止まったままだ。その時、誰かが「何についての映画だったんだ?」と聞く。「うーん。よくわからないな。同じ娘をものにしようとしていた、二人の野郎の話だろ?」あるいは「ロシア革命についての映画だよ」そうだ、それは映画が何についてだったか説明しているが、映画そのものではない。きみに、ずっと座席に坐ってスクリーンに見入ったり、壁のライトを見つめたりさせたのは、それではないはずだ。他のいい方をすれば、きみは、「人生とはいったい何なのだ?」ということもできた。それは、いつだって映画のように過ぎていくだけだ。きみがここに何百年もいようが関係なく、それはただ過ぎ去っていく。誰にも止めることはできない。
 だから、それが何についてかなどということはできないのだ。ただ、きみにできることは、その瞬間の幻を与えようとすることだけだ。だが、それにしたって、それがすべてではない。きみが存在していたという単なる証なのだ。
 どれが何についてだって? それは何についてでもない。それはそれなのだ。
(『ロックの創造者たち』より)


これは、ハイデガーの用語で言えば、存在者を表象したとしても、その存在者が抱える存在の本質はうまく伝わらないということだと思います。

ハイデガーはしかし、気遣いや配慮によって、人間は本質的なものに近づけると考えます。
その前存在論的証言として『存在と時間』第42節では以下のような神話(というより寓話)が引用されています。

クーラ(気遣い、関心)が河を渡っていたとき、クーラは白亜を含んだ粘土を目にした。
クーラは思いに沈みつつ、その土を取って形作りはじめた。
すでに作り終えて、それに思いをめぐらしていると、ユピテル(ジュピター、収穫)がやってきた。
クーラはユピテルに、それに精神をあたえてくれるように頼んだ。そしてユピテルはやすやすとそれを成し遂げた。
クーラがそれに自分自身の名前をつけようとしたとき、 ユピテルはそれを禁じて、それには自分の名前があたえられるべきだ、と言った。
クーラとユピテルが話し合っていると、テルス(大地)が身を起こして、 自分がそれに自分のからだを提供したのだから、自分の名前こそそれにあたえられるべきだ、と求めた。
かれらはサトゥルヌス(クロノス、時間)を裁判官に選んだ。そしてサトゥルヌスはこう判決した。
ユピテルよ、お前は精神をあたえたのだから、このものが死ぬとき、精神を受け取りなさい。
テルスよ、お前はからだをあたえたのだから、(このものが死ぬとき)からだを受け取りなさい。
さてクーラよ、お前はこのものを最初に形作ったのだから、このものの生きているあいだは、このものを所有していなさい。
ところで、このものの名前についてお前たちに争いがあることについては、
このものは明らかに土humusから作られているのだから、人間homoと呼ばれてしかるべきであろう。

注:
(サトゥルヌスはクロノス、時間の神(ギリシャでは農耕神だが後に混同、英語ではサターン) 。ユピテルはジュピター、収穫の意(ギリシャではゼウス)。
テルスはガイアのこと。 クーラは気遣い、関心の意 、ペルセフォネーのこと。 )

ハイデガーはこの寓話によって、世界内存在における現存在の有限性と気遣いの重要性、時間の優位性を説明しています。この寓話はハイデガー理解にとって重要だと思いますし、ギリシャ研究(実はローマ経由)にとっても貴重だと思います。
上記の寓話は福祉介護を論じる人には、ケア(クーラ)の重要性を基礎づけるものとして引用される場合がありますが、ローマ法的な契約の概念こそ読み取るべきかも知れません。

ハイデガーがギリシャ神話というよりもローマ神話を引用したのも示唆的ですが、それまでのドイツ哲学を支配するゲルマン的な共同体主義的な傾向を切断するためにローマ法の契約的な考え方を取り入れたとも考えられます。

ディランもまた、ユダヤ的な契約の概念を取り入れてフォーク共同体との間に一線を画したのでした。
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by yojisekimoto | 2007-10-21 17:03 | ハイデガー

ハイデガーの全体像

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上記は、「ハイデッガーが講堂の黒板に描いた図形、現存在の図示としておそらく唯一の物と思われる図形」(*)である。
このハイデガー自身の描いた図に、恣意的に時間軸と空間軸(横と縦)を加えて、ハイデガーの思想の全体図をつくってみた。
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ただし図に記載された事実存在と本質存在は逆かもしれない。ハイデッガーにとっては本質の方が空間的、というよりも時間軸の一点に位置づけられるからである(図で描くなら「現」から真上に伸びる縦軸に定位及び固定されるだろう**)。
『存在と時間』は図でいえば縦の楕円(第一部第一編)のあとに横の楕円(第一部第二編)という記述順になっている。ただし、カントでいえば実践理性の問題が各編の後半部で一緒に扱われているのでこの構成が見えにくい。

さらに図を解説すると、一つ一つの現存在の右下は他者に向かって開いている。
右上の空白は図を(というよりも、このサイトを)見ている(本質的、実在的)他者に向かって開いている。 これはハイデガーの原図にすでにあるコンセプトであり、深読みかもしれないが、この辺りはさすがだと思う。普通なら6個の現存在を描いてしまうだろうし、6個なら何の魅力もない図になっていただろう。

  斜めの位置には本質的他者がいると考えた。アーレントやヴィトゲンシュタインがそれにあたる。いや、むしろ一見ハイデガーと無関係な空間的な(=無媒介に空間を飛び越える)思想家であるスピノザこそハイデガーにとっての他者かもしれない。

この図の横軸にはさらに、左に未来として解釈者の主体を、現存在の真下に現在という意味で「現」を書き加えることができる。
ただし、問題点としては、ハイデガーは、歴史を「現」に還元し、解釈は未来における現存在の意味を開示するが、歴史自体がそもそも解釈による産物だったのだからそれは循環論法となるということである。
その矛盾は、ハイデガー自身も半ば気づいていただろうし(***)、木田元が指摘するように、『存在と時間』のように現存在から書いても、『現象学の根本問題』のように歴史から書いても解消されない。

端的に述べるなら、いかなる手段をとろうとも、現存在を存在論的に解明する際の循環論法を、解釈学では避けることは出来ないのだ。 これは出発点である現象学的方法論の宿命である。

注*
「ハイデッガーが講堂の黒板に描いた図形、現存在の図示としておそらく唯一の物と思われる図形」

「次ページの図は、人間の実存がその本質根拠において、決してどこかに事物的に存在している対象ではなく、ましてや、それ自身の内で完結した対象ですらないということを明示するためのものでしかない。 (略)現存在として実存するとは次のことを意味する。現存在が「開け」られていることからもろもろの所与がそれに向かって語りかけてくるが、その意味指示性を認取しうることによってある領域を開けたままにしておくというのがその意味である。人間の現存在は、認取しうることの領域として、決して単に事物的に存在する対象ではない。反対にそれはそもそも決して、もともと決していかなる場合であろうとも、対象化すべき何かではない。 」
ハイデッガー『ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房1991年,p3) より
(参考サイト:
http://www.archi.kyoto-u.ac.jp/~maeda-lab/A_maeda/A03_thesises/A03_thesis_room.html
上記サイトはハイデガーの原図を解説しているが、矢印の解釈が少し違う。)

注**
ハイデガーの時間概念は、以下のようにいくつものレイヤーで成り立っている。#-は節番号。

            死#49-53   生       誕生
世界内存在#23、空間性×#12,70  (開示性一般#68)
            (a了解=目的)
               (b情状=恐れ)
気遣い*#42の契機 ------------------(C頽落)、良心#55-60、呼び声#56、責め#58
----------------------------------------企投/被投性 #58(企投:了解「として」の完成=解釈#32)
----------------------------------------------------(d語り)
通俗的時間概念#81-------未来-----------現在----------過去 /既在
実存論的時間概念#70------到来-----------現在(現成化)-------/既在
非本来的時間性#68------予期-----------現成化----------忘却性
-----------------------------------空談#35/沈黙、語り?#36----------------
---------------------------------好奇心#36/視?#36--------------------
---------------------------------曖昧性#37/決意性#62
本来的時間性#74----------先駆#53---------瞬視#68-------取り返し#74
                     歴史的なもの/歴史性#72
*気遣い(=関心) #12,42
自己←(関心#64/配慮#12,16/顧慮#26)→他者#48

(参考: 村田久行『ケアの思想と対人援助』
http://plaza.rakuten.co.jp/sousuke/4001
山竹伸二の心理学サイト 02. ハイデガー『存在と時間』を読む
http://yamatake.chu.jp/03phi/1phi_a/2.html)

注***
存在者に対しては存在的なる言葉があり、存在に対しては存在論的なる言葉があるが、このうち存在における主観と客観の循環論法は自明だし、存在論内部の循環論法にも『存在と時間』の前半でハイデガーはすでに気づいている(第2,32,63節)。続編で書かれるはずの存在論史(歴史)がこの循環論法から脱する糸口になるとハイデッガーは考えていただろうが、そうではないというのが木田元の意見だ(『ハイデガーの思想』他)。
存在者、存在、存在論といった項目が、前出の筆者が作成した図の縦の楕円に位置づけられるのが妥当なら、存在論は一番外延にあたるだろう。そしてその縦の楕円をそのままに倒したら時間軸における存在論史(歴史)と重なってしまうというのが、ハイデガーの思想の問題点だと思う。重ならなければハイデガーは歴史を語ることができず、重なるならば自己矛盾を自らの思想全体に含むことになるからだ。
ハイデガーの現象学、というよりも解釈学は、定向性を持った現存在であり続けることでやっと論理的な矛盾を隠蔽することができる。


追記:
作図にあたって、九鬼周造「人間と実存」(全集第三巻所収)が参考になった(九鬼は、現象学的存在学という語句を、存在学は対象を、現象学は方法を規定するとして解析している)。

また、ハイデガーの存在論は不確定性を含むので、社会的インフラ整備を前提とした郵便的なる概念では相対化できない。このことはハイデガーがアリストテレスから受け継いだ「銀杯」の分析↓(前掲『ツォリコーン〜』p26,『技術論』参照)などからもわかる。1質料、2形相、3目的、4起因(制作者のことだが現代ではその存在は難しい)というハイデガーの分類は、相対化を指摘したもの、つまり存在の一義性に疑問を呈したものとして読めるからだ。
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図は以下のサイトより、
http://www2.hawaii.edu/~zuern/demo/heidegger/guide2.html


蛇足:
ハイデガーはセンガイの以下の絵を見たら何と評したろうか?
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追記:
その後、前出のレイヤー(以下↓に採録)をもとに詳細な『存在と時間』構造図をつくってみた(10/21)。
関心は現存在と他者との「間」#28に位置づけられる。
現存在、内存在自体も主観と事物的存在の間にある。
(現存在を中心とする円環にはなっていないと解釈した。)
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            死#49-53   生       誕生
世界内存在#23、空間性×#12,70  (開示性一般#68)
            (a了解=目的)
               (b情状=恐れ)
気遣い*#42の契機 ------------------(C頽落)、良心#55-60、呼び声#56、責め#58
----------------------------------------企投/被投性 #58(企投:了解「として」の完成=解釈#32)
----------------------------------------------------(d語り)
通俗的時間概念#81-------未来-----------現在----------過去 /既在
実存論的時間概念#70------到来-----------現在(現成化)-------/既在
非本来的時間性#68------予期-----------現成化----------忘却性
-----------------------------------空談#35/沈黙、語り?#36----------------
---------------------------------好奇心#36/視?#36--------------------
---------------------------------曖昧性#37/決意性#62
本来的時間性#74----------先駆#53---------瞬視#68-------取り返し#74
                     歴史的なもの/歴史性#72
*気遣い(=関心) #12,42
自己←(関心#64/配慮#12,16/顧慮#26)→他者#48
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by yojisekimoto | 2007-10-14 15:51 | ハイデガー

『差異と反復』再考

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最近文庫化されたドゥルーズ『差異と反復』を図式化してみた。
はじめに以下のように目次に番号を付けた。

  0=はじめに、序論:反復と差異
  1=第1章:それ自身における差異
  2=第2章:それ自身へ向かう反復
  3=第3章:思考のイマージュ
  4=第4章:差異の理念的総合
  5=第5章:感覚されうるものの非対称的総合
  6=結論:差異と反復
 
図にはそれぞれの章において代表的な思想家の名前を恣意的に選んだ。
自分なりに副題を付けると以下になる。

0雰囲気
1転覆の見取り図
2生産的反復へ
3カテゴリーにおける両義性
4理念の微分化
5永劫回帰
6総括と展望

図の直線は、0からはじまる。
3から4は理念化を目指すので上方に向かっている。

『差異と反復』はフラクタル構造、あえていえばペアノ曲線になっている。
一次元の線が強度を形成する。
最大(ヘーゲル)にも最小(ライプニッツ)にも対応するのだ。

『差異と反復』は結果的に西欧哲学の総決算となり、ドゥルーズ自身にとっても『千のプラトー』『シネマ』へとその一部(リズムについては序論単行本p47、イマージュについては第二章単行本p163に言及がある)がそれぞれ開かれた形で発展した。

ただし、西欧哲学全体を別の角度から見ると、というよりも具体的にはドゥルーズのヴィトゲンシュタイン(論理学)嫌い*を考慮すると、もう少し別の図も描けるかもしれない。

*YouTubeにドゥルーズの動画(仏版DVD『ドゥルーズのABC』より)がある。
http://jp.youtube.com/watch?v=kt24h_Ia2UA
Deleuze et Wittgenstein
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1054768
ドゥルーズ、ウ(ヴ)ィトゲンシュタインを語ってる【哲学】

訂正:
以下の図の方がすっきりするかもしれない。ニーチェが「反復」のところにくるので、永劫回帰の位置づけがすっきりする。単純な渦巻きにも見えるが、フラクタル=自己相似性を持つことは変わらない。
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差異と反復を小さな空間での出来事、総合をより拡大された陣地への欲望と考えれば、0プラトンを中心にした、逆回り=外回りの図↓と考えてもよい。
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ちなみに前者は『千のプラトー』 第7章(単行本p210)の独身機械の図、後者は第5章(単行本p158)の脱領土化の図に似ている。

追記:
その後ハイデガーの両義的な位置づけを明確にした概念図↓をつくってみた。
「ハイデガーはニーチェ主義者なのである」(単行本p305)
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追記の追記:
その後また概念図をつくってみた。
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実在性(リアリティ)と可能性(ポッシビリティ)
に、
現実性(アクチュアリティ)と潜在性(ヴァーチャル)
が対立した軸として交差する。
これは柄谷行人『探求2』*における特殊/普遍と個別/一般の区別に相当する。
(リアリティとアクチュアリティの訳語が東浩紀に習って逆になっている。)
カント、プラトンは両義的な読みが可能なためABがある。
『差異と反復』はAからBへの読み替えを可能にする運動としてある。

永劫回帰は単なる反発ではなく直線の端にある円環である。これは直線という一般性をも含んだ革新という意味である。


*注:
<たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの反復にかんして、「反復は、単独なものの普遍性であり、特殊なものの一般性としての一般性と対立する」といっている(『差異と反復』)。つまり、彼は特殊性(個)ー一般性(類)の対と、単独性ー普遍性の対を対立させている(図参照)。>

以上(下記の図も)、柄谷行人『探求2』講談社学術文庫p150より

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by yojisekimoto | 2007-10-13 00:01 | ドゥルーズ