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『帝国への挑戦』その後

ちょうど去年の今頃、自由放送というMLグループで『世界社会フォーラム:帝国への挑戦』の読書会を行ったが、その時、気になっていたアダモフスキという人の『反資本主義入門』という本が出版されたようだ。
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7503-2671-9.html
以下、去年のレジュメです。

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2006年12月16日読書会レジュメ   関本洋司担当分


「何がポルトアレグレのポイントか?」(p179-186)

アダモフスキー「新しく中心になるようなものを作り出すより、今あるネットワークを援助する方がいい」(p183)
ジョージ「いったいどうすれば現存するネットワークを手助けできるのか」(p184)
アダモフスキー「われわれは皆(中略)自己決定のできる世界を創造する、というゴールを目指している」(p184)
ジョージ「私は、厄介ごとを取り除こうとする取り組みに的を絞っているのです」(p185)

#中央集権化への懸念と具体案


スーザン・ジョージ
『なぜ世界の半分が飢えるのか—食糧危機の構造』(朝日選書)など

エセキエル・アダモフスキー
以下のネット記事参照。

http://www.diplo.jp/articles06/0608-3.html
http://www.monde-diplomatique.fr/2006/08/HALIMI/13743

「(略)アルゼンチンから来たエセキエル・アダモフスキーは、2001年12月にブエノスアイレスで起きた民衆蜂起に参加していた。彼がその時に得た教訓はこうだ。「国の政策とまったく関わりをもとうとしない運動は、社会の大多数との関係を打ち立てることができない。我々の提案は好ましいもの、実現可能なものとは見てもらえない。抑圧の組織化をもたらす規則や機構は、社会生活の組織化をもたらすものでもある」。だから彼の意見では、「君たちは何を提案するのか」という問いへの答えを用意すること、貧困と人種差別が現に存在し、それはよくないことだと繰り返すだけに終わらないこと、現行システムに対する勝利の可能性を示唆できることも大事だが、混乱から自ずと秩序が出現するなどという考えを捨てることも重要だ。自分たちが提案している事柄をどのようにして誰が引き受けていくのかを、はっきりさせる必要がある。政党は間違いなく社会運動を傘下に収め、そのピラミッド型の権威主義的な価値観を押し付けようとするだろうが、反対側には「組織性の欠如という猛威」が待ち受けていることを忘れてはならない。
(以下略)」
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年8月号)

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「前衛主義のたそがれ」(p368-377)

(1)マルクス主義は、革命戦略についての理論的あるいは分析的言説となる傾向があった。
(2)アナーキズムは、革命的実践についての倫理的言説となる傾向があった。 (p371)

#マルクス主義とアナーキズムの相補的関係の整理。
#前衛主義の二重性。アートと人類学に着目。


デイビッド・グレーバー
アクティヴィスト。上記は『アナーキスト人類学のための断章』(以文社、2006.11,p40)と内容が重なる。2006年に来日。



追記
意識的に対処しないとスケールフリー化するネット社会(バラバシ『新ネットワーク思考』参照)。

ジジェクのポルトアレグレ批判、「VIP席が出現していた」(『人権と国家—世界の本質をめぐる考祭』参照)。

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by yojisekimoto | 2007-11-24 01:26

論理の限界と詩の可能性

中島一夫氏の「文芸批評批判序説」(『述』2007、近畿大学紀要、明石書店)を読んだ。倉数茂氏の刺激的なブログを通じてこの画期的評論の所在を知ったのだが、題名からして「批評」を「批判」するという縮小再生産を危惧していたにもかかわらず思考の深化を指し示すものだったのがうれしい誤算だった。

中島氏は小林秀雄と柄谷行人をつなぐ円環を、価値形態論と個有名論(これは所有論でもあり得る)で切り取っているのだが、価値形態論と固有名論は差異における他者をみいだすまではいいが、そこには限界があるということが指摘されている。両者は共に唯物論なのだから、社会現象を切り取る際には有効だとしても、論理学特有の限界があるのはどう理解したらよいのだろうか?

結論から言えばゲーデルを考えれば論理学の限界は当たり前なのだ。
原理ということでは男性原理が単性では再生産できないのと同じことだし、それは女性原理も同じだ。
とはいえゲーデルの不完全性定理はしかし、真実であっても証明できないということがあるということ自体を証明したのであり、限界と同時にこれは理性の勝利なのである。
その意味で柄谷の限界は自明のものであり、驚くべきことではない。ただ危惧されるのはこの評論ではむしろ小林秀雄がマルクス全盛期にフランス流のレトリックで詩(筆者の考えでは小林のそれはむしろ経験主義の再興であるが)を体現したことと、柄谷がロジックの内部であえて限界を見いだしたことの意義が青年受け入れられたという社会現象によってパラレルに理解されてしまうことが問題なのだ。

ここでもっと大きな日本における思想潮流の循環を考えてみよう。たとえばドイツとフランスの思想の主流争いをハイデガーもベンヤミンも指摘したが、柄谷は自分の限界を自覚した際でもそこに導入したのがカントというあくまでドイツ哲学だった。これは論理学の範囲ではない、その臨界において導入したのである。つまり柄谷はアンチノミー自体、つまりデータとしての他者をカントによって倫理的に定位したのである。同一性を超越論的仮象によって維持するということが、論理学の限界と倫理学的可能性をつなぐ橋であり、柄谷はこれを自らの名においてではなくカントに名において指摘したのだ。説得力があるかないかは別として取り替えのきかない個有名をカントと呼んだのだ(とはいえあくまでマルクス「と」カントの間に柄谷は留まるのであり、またそれ以外の個有名が重要性、より具体的には『探究2』においては柄谷によるドゥルーズのスピノザ的読解がその端緒であったことは注意すべきだ)。
それはカントという個有名のアクチュアルな場への奪還であったと歴史的には言える。柄谷の場合非対称性の認識はここで構造的な体系の作成ではなく他者の発見というかたちをとった。

また社会的循環を考えるなら、その出発点を見る必要がある。スガ秀実氏がこだわる1968年の、(60年を1サイクルとすれば)2サイクル前の120年前のフランス二月革命において唯一冷静な社会革命の展望を持っていたプルードンを柄谷は社会運動に転用したのである。ちなみにプルードンの交換銀行論は中島氏が「なぜ」ではなく「いかにして」を説明したに過ぎないと喝破した「価値形態論」を逆流させるプログラムであった。プルードンの意義に関しては、マルクスの看板で開始されてしまったNAMなどでもまったく検証されなかった部分である(「無名作家の不在には誰も気づかない」と言ったのはデリダだっただろうか?)。このような原点の意義の見失われた反復は、当事者にとっては「喜劇」(byマルクス)ではなく、不可避的な構造不況を強いるノスタルジックなものになるだろう。筆者が気になったのは中島倉数両氏の論考のノスタルジックな部分である。

ノスタルジックなのは展望のなさが原因だが、その展望のなさの一端は詩の意義が理解されていないということになると思う(ちなみに小林は確かにノスタルジックだし方法論としては使えないが、柄谷は違う)。

以下、少し脱線します。

命の保証がなされる限りでのなし崩しの市場交換(というよりは資本主義的交換)の潮流に逆らい、「批評とは死と引き換えの詩」であると中島氏が述べる時、それは実際には死と詩がおなじ構造上に定位されるということなのである。そして本物の詩は、独自の音韻体系においてその構造を形作り外に開く力なのである。ニーチェ流に詩を論理を超越するものと捉えることも出来るが、むしろ詩はもう一つの別の論理である。小林、柄谷、東浩紀といった批評界の事件が中島氏によって的確に歴史的に位置づけられたとはいえ、その可能性を開くには新たな詩の論理が必要になるだろう。

詩の論理とは、たとえば個有名や鍵括弧のもつ可能性を、そのつど音韻体系(これは音声によって構成される唯物論である)や自由間接話法によってパゾリーニが開いていったやり方である。それは何も文芸時評に限定された出来ごとではない。ジャンルを超えておこっていることなのだ。柄谷行人がカントを導入し、狭義の批評においては『日本近代文学の起源』において行ったのはこのようなジャンルの横断による詩=新たな論理の可能性(インフラ)の開拓であった。東浩紀はそのインフラを確かめたし、中島氏によってその検証がこの評論で歴史的にはじめてなされたことは歓迎したい。

この論理を推し進めるならば、論理学とともに詩を音楽と結びつける必要が出てくる。その昔、龍樹を沈黙させたヒンズー側の反論は、音楽の存在を無と呼べるか?といったものだったそうである。その意味で東氏の著作の重要な部分はリズムに関するものだったし、その可能性が開かれていないのは惜しい。今後、記号と身体といった問題意識は柄谷のアンチノミーを踏まえてこそ演奏(=命がけの飛躍,脱線)がなされ得るであろう。
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by yojisekimoto | 2007-11-16 22:14 | 書評

ハイデガー『ロゴス・モイラ・アレーテイア』:読書メモ

ロゴス、言葉、理義、集め置き(p20)
モイラ、運命、送り定めながら配分する(p80)
アレーテイア、真理、隠れなさ(p90)

ΛΟΓΟΣ,Λόγος, logos.
ΜΟΙΡΑ,μοίρα, moira.
ΑΛΗΘΕΙΑ , αλήθεια, aletheia.


ハイデガーの『ロゴス・モイラ・アレーテイア』(言葉・運命・真理)は『アナクシマンドロスの言葉』や『形而上学入門』と同じくらい重要なテキストであり、書名となった三つのギリシア語しか説明はしていないが一種のハイデガー用語辞典のおもむきがある。
まず、ヘラクレイトスは言う。「お前たちが、私にではなく、理義=ロゴスに聞いて、同じ理義=ロゴスで<全ては一である>と言うのが賢いことだ。(断片50)」(p6)。
「ロゴス」は通常、「言葉」あるいは「理義」と訳され、「集め置き」(p20)という語源がある。ラカンはこのロゴスの部分を仏訳している(後述)。

また、パルメニデスは言う。「思考することと、あるがあるという思想とは同じである(略)というのもモイラがそれを全体であり不同であることに結びつけているからである。(断片三及び八)」(p46)。
モイラは運命という意味で、「送り定めながら配分する」(p80)と言う語源がある。

さらに、ヘラクレイトスは暗い人でなく明るい人であるとハイデガーは指摘する(p88)。「決して没しないものを前にして、人はいかにして自分を隠すことができようか(断片16)」(p91)という言葉の内容が示すように、ヘラクレイトスが「アレーテイア」を志向したからである。「アレーテイア」はギリシアで言う「真理」であり、「隠れなさ」(p90)という語源がある。ただし、このような語源を指摘してもヘラクレイトスには近づき得ないとハイデガーは指摘する。ギリシア人が書いたテクストの中に身を置き、存在と存在者との差異を忘却から救う必要があるということだろう。

ラカンは前半三分の一のロゴスの部分だけ訳したが、これではシニフィアンの連鎖の優位さは指摘できても、ギリシア哲学の豊かさは体感できない。
理性(ロゴス)で集め置いた、隠れることない真理(アレーテイア)が、人びとに運命として配分(モイラ)されることが隠蔽されてしまうからである。ラカンの対象aは「隠れなさ」において「アレーテイア」を表象していると言えるが、それでも東浩紀の言う郵便的なもの、つまりここでは「モイラ」(運命)への視点が足りないのである。
(頁数はハイデッガー選集33巻『ロゴス・モイラ・アレーテイア』理想社より)

これらの言葉はハイデガーが示唆するように同じものを指し示していると考えることも出来るが、そうするとアリストテレスの4つの要因ともつながるような気がする。
アリストテレスの場合は銀杯を例に挙げることができたが、上記の場合はもう少し抽象的になる。
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参考サイト:
『エクリ』を読む 掲示板
http://www1.ezbbs.net/cgi/bbs?id=jwetton&dd=06&p=1
ラカンによるハイデガーのロゴス論翻訳(仏語)はここにあります。
http://www.ecole-lacanienne.net/documents/1956-00-00b.doc

以下はギリシア文字もつぶれていない。
http://www.scribd.com/doc/76088309/Traduction-de-«-Logos-»-de-Martin-Heidegger-par-Jacques-Lacan

日本語解説は以下が詳しい。
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/logos.html
「ハイデッガーはあくまで存在を、自分の外にある存在そのものではなく、それを自分の目の前に取り集める我々の(つまり現存在の)行為のうちで解釈する。
 それ(現存在)をいわゆる生物学的な存在としての「人間」と区別することで、その「取り集める」という行為を、人間の遺伝的で身体的な性質と切り離し、何らかの超越的なものとして解釈する。
 これによって、ロゴスは、人間の生存と子孫繁栄の欲求によって行われていることを押し隠したまま、何か崇高な行為として特権化される。
 そして、このようなロゴスはアレーテイア(真理)と同一視される。

 「Ἀληθείηとλόγοςは、同じものである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.28)」
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by yojisekimoto | 2007-11-12 17:49 | ハイデガー

サルトルとプルードン:資料

『プルードン研究』(岩波書店)でも引用されていましたが、サルトルのプルードンへの言及をあらためて引用したいと思います。
ドゥルーズが晩年、サルトルを再評価していたのもうなづけます。
以下引用です。

「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなければならなかったにちがいない。ところが人も知るように実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジーにすぎなかった。ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていたが、パリ・コンミューンの失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、その勝利は、マルキシスムがのり越えながらそのなかに含んでいたヘーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に単純に二律背反の一方の項を押えた外力によるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとってどういう代価を意味したかは、何度いってもいい過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキシスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態にあり、絶えず戦い、征服するために自己を変革し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれば、それは精神そのものとなっていたであろう。しかし、作家貴族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番人になっている間に、マルキシスムは教会になったのである。」

サルトル『文学とは何か』第三章「誰ために書くか」(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より

日本の言説界に関して、多少厳しいことを言うなら、僕自身参加したNAMなども閉じられたマルクス主義の延命装置といった側面がありました(柄谷さんのプルードン再評価に誰もついていけなかった)。
集合力理論の素朴な力強さを痛感する昨今ですから、今からでもプルードン再評価が必要だと考えています。
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by yojisekimoto | 2007-11-12 01:02

同一性の問題。11/10柄谷行人長池講義メモ

会場の最寄り駅南大沢は、多摩ニュータウンの一画と言っていいだろう。
この近辺の地域通貨の会合に出席したことがあるので、人工的な町並みに戸惑ったが予想の範囲だった。
まず冒頭、高澤秀次氏の司会で、いとうせいこう氏からひと言あった。
柄谷氏の引っ越し、この近くの池に飛び込んだという浄瑠璃姫の話などだ。
この講義は、熊野大学の延長だと言う。。。

本題にはすぐ入った。
(以下メモです。ほとんど柄谷発言を自由間接話法で記述します。)

まず、カントの

仮象(Der Schein,seem)     現象(Erscheinung,seeming)     物自体

の構造が示され、

仮象と現象の間が重要との指摘があった。

ヒュームは同一性を疑ったが、仮象がなければ自己がないということになる。それは病気であり、単なる観念上の遊びではない。
(ラカン的に、想像的、象徴界、リアルと言い換えることも出来るが、カントからラカンを読むべきでありその方がより正しい。)

仮象の検証は、経験を全称命題によって証明することにつながる。
これはポパーの唱えた反証可能性と同じで、物自体という他者に開かれている点で、
現象から単称命題を導くハーバーマス(西欧中心主義)などより優れている。

国家や資本やネーションはこのような仮象であり、取り除くことができたとしても別のものが補完してしまう。
カントの指摘、超越論的仮象は必要だし、そのようなものとして国家を考えるべきである。

事前に考えたカントに対し、ヘーゲルは事後的に考えた。
これは現実追認に終わる。

キルケゴールはヘーゲル批判からキリストを考えた。

ちなみに進化論はライプニッツ、ヘーゲルから始まる。19世紀からではない。
カントの第三批判は生物学を扱っている、目的論だけではない。
(カントは、歴史に目的はないが、目的があるかのように看做していいと言っている。)

マルクスは国家、税制を捨象してそれ自体としての経済を考えた。
『世界共和国へ』ではそれと同じことを国家に対して行った。このようなことをした人は他にいない。
(マイケル・マンは唯一評価できる。)


B  A
  +
C  D

という4つの交換図(省略)の中で、

人類学はAを考え、カール・シュミットBを考え、マルクスはCを考えた。

日本のアナーキストはCを通過していないでDに行こうとした点が駄目。

すべてを同時に見たい。(現代の奴隷制に関して『ミナミの帝王』の債務奴隷の話。)

中国、ソ連は官僚制度を維持した。
マルクス主義が官僚化したのではなく、官僚がマルクスを利用した。

アメリカで講演した時東洋的でないといわれたが、そもそもマルクス、カントはコスモポリタンであり、西洋的ではない。
Dを「空(くう)」といったように神秘的、仏教的に言うことも出来るが、、、それもゼロの発見の問題として構造的、形式的に述べることができる。

(また、印象に残ったのは、自然と人間という関係は、人間と人間の関係に原型を持つという指摘だった。人間への搾取は自然への収奪に行き着くということでありその逆も言える。これは『トランスクリティーク』における物自体が他者であり、仮にデータであってもデータを提示する他者を考えればいいという指摘と対応している。カントとマルクスを横断する思考の成果としては、国家及び自己の超越論的仮象の問題以上にここに集約するという印象を持った。)

後半は、日本の歴史の問題になった(高澤秀次氏による戦後日本の『国家論』のレジュメ、レクチャーあり)。

孔子はアナキストだから始皇帝に弾圧された。
キリスト教と並行関係で国教化されたが、本来は両者ともアナーキーである。

フランクの西欧中心主義批判は10年遅い。もはや東洋中心主義を批判すべきである(笑)。

国家の同一性は、対外的に保証されるので、天皇制もそのために必要だった。
下からの運動も重要だが、上からの視点もなければならない。
(幕府と朝廷、源氏と平家、封建論争、国連に九条を採択させるべき等、その他の話題。)

最後は、いとうせいこう氏による冒頭の浄瑠璃姫の話につながりそうだったがここで時間切れだった。


印象に残ったのは同一性の問題だ。もちろん他者という構造の問題を経たあとに出てくる問題としての同一性である。


僕も会場にいた昔世話になった方々に挨拶しようとしたが、(あわせる顔がないので)出来なかったので、この同一性が対外的に必要になるという指摘が堪えた。

このような会を無料で行うのはレシプロシティー(reciprocity。互酬制という言葉を今回使わなかった)になってしまうので、できれば地域通貨払いで定期的に行って欲しいと思った。

ここ数年の柄谷氏の思考を圧縮した講義だが、参加者が皆理解を示していた点が印象的だった。
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by yojisekimoto | 2007-11-10 20:47 | 柄谷行人

やるべきこと/やりたいこと/やれること

一般的に、
やるべきこと/やりたいこと/やれること
は一致していない場合が多い。
これらはどのように考えたらよいだろうか?

それぞれ、
象徴界/想像界/現実界
と考えると、以下のような三角形の中でいかにバランスをとるかという問題になる。


     象徴界
   (やるべきこと)

 想像界     現実界(やれること)
(やりたいこと)


ラカンは晩年、象徴界を強調したし、ジョイスはその逆にそれ以外が突出していた。
デリダは、象徴界にさからいジョイスと同じ道を意識的にたどったように思う。
『マルクスの亡霊たち』は基本的に想像界の復権だが、社会問題の「十の傷口」などは現実界の侵入だし、そもそもポストモダン批判に答えるという現実的動機によって書かれたものでもあった。
フロイトは「イルマの注射」によって自らを自己分析したが、そうした態度こそ倫理的だと思う。見習いたい部分だ。
自分に何が出来るのか?
やらなければならないことを、出来ることからコツコツやっていくしかない。
『まあだだよ』の中のセリフではないが一所懸命にやればその仕事は面白くなっていくだろう、、、
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by yojisekimoto | 2007-11-06 11:57

カント、ヘーゲル、ラカン

ジジェクはカントの4つの二律背反の前半の数学的矛盾を女性的な二重否定 とし、後半の力学的矛盾を男性的な全称肯定的とした(『否定的なもののもとへの滞留』ちくま文庫p112)。
これだけで何のことだか分からないが、『為すことを知らざればなり』ではうまくそうしたラカン仕込みの観念をグレマスの記号論や古典的論理学とつなげて説明している。
以下の基本図形があり、

   A ---- 反対 ---- E 
   | \     /|
   大 矛  矛  大
   小    盾盾   小
   |  /    \ |
   I --- 小反対---- O 


カントでは:

1. 世界の時間的・空間的無限性
2. 物質の構造
3. 自由の存在
4. 神の存在

といった矛盾の内、最初の2つの数学的矛盾で「反対」に相当し女性性を表し、残りの力学的矛盾が「小反対」で男性性に相当する。
力学的矛盾は共に真であり得る。つまり〈小反対対当〉(subcontrariae)はI-O間の関係であって、一方が偽であれば他方は必ず真であるが、一方が真であるからといって他方は偽とは限らないからだ。

ヘーゲルの弁証法では以下のようになる(p326)。

    必然的---- 反対 ---- 不可能的
    | \     /|
  大 矛  矛  大
   小   盾盾   小
   |  /    \ |
  可能的       偶然的

ジジェクは以下のように述べる。「必然性と不可能性との対立は可能性の領域に解消する」、「それと共に消滅するものが(略)偶然的なものである。」(p326)

さらにラカンでは以下になる(p328)。

命ぜられたもの---- 反対 ---- 禁じられたもの
    | \     /|
  大 矛  矛  大
   小   盾 盾   小
   |  /    \ |
許されたもの      X


一義的にはXは「真実」であるが、これを前出の男性、女性の定義とつなげれば、「性」そのものをつかもうとすることはXをつかもうとするのと同じということになる。
念のためラカンによる性差の図式は以下である。
http://www.ogimoto.com/ronbun/jack.html
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( 左が男性、右が女性を表し、反対と小反対が上下逆。)
左:
すべてのXに対してファロスの作用が及んでいる。下
ファロスの作用の及ばないXが少なくとも一つ存在する=父の名。上
(閉鎖集合)
右:
ファロスの作用はすべてのXに及んでいるわけではない。下
ファロスの作用が及ばないようなXは存在しない。上
(開放集合=すべての要素は数え上げられないし、数え上げられてもすべてではない。)*


参考図:
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(藤田博史『性倒錯の構造』p78より
「集合の図は四角で囲まれているが、実際は開放集合であるから、枠は頭の中で取り払って考えていただきたい。」p77)

ラカンの4つの式は、
I O
A E
として、
伝統的論理学の4つの命題、全称肯定命題(A)、全称否定命題(E)、特殊肯定命題(I)、特殊否定命題(O)のそれぞれに対応するものである。
ただしこう考えるとAを男性的、Oを女性的とした最初の指摘と矛盾する。これはXを認識し損ねているということだろう。
ややこしいが全称肯定命題(男性的)と全称否定命題(女性的)の対立(反対)は女性的で、特殊肯定命題(男性的)、特殊否定命題(女性的)の対立(小反対)は男性的ということか、、。詳しい分析をするにはジジェクが援用したコプチェク(『わたしの欲望を読みなさい』)の文脈を捉え直す必要がある。

アラン・ソーカルに言わせれば、ラカンの論理記号の使い方は間違っているということになるが、ファンクションのfをファルスにしている時点でラカンは確信犯だし、ジジェクに言わせれば論理記号自体の意味内容と表記法自体の裂け目に性差を見いだしたラカンは画期的だということになる。
そしてラカンの考察は昔ながらの論理学にも定位され得る真っ当な成果ということになる。

ちなみにジジェクはカントとヘーゲルを以下のように図示してもいる(p366,367)。
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へ−ゲルは単に円環を閉じたのではないところがミソだ。
上記の図はハイデガーが『ツォリコーン・ゼミナール』冒頭で描いた以前紹介したの現存在の図と比べると面白いかもしれない。
(ジジェクはコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』における図(邦訳p168)をヒントにしているに違いない。)
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by yojisekimoto | 2007-11-03 21:46

アントニオーニとハイデガー

ハイデガーと比較してみたい映画作家に先日亡くなったイタリアのアントニオーニがいる。その遺作に『エロス』という興味深い短編がある。
かつての代表作『情事』では女主人公が途中で失踪し、(恋人の男が探しても最後まで出て来ないで)男は別の女性と浮気をしその情けない姿で映画は終わった。
『エロス』でも主人公(男)の恋人が失踪するし、案の定男は別の女性と浮気をする。ただし、最後は男が出て来ないで、失踪した女性と浮気相手の女性が湖畔で裸になって踊るシーンで終わる。


ここでラストのメッセージをハイデガーが唱えた本来性の回復と見ることができる。それだけなら安易な比較だが、存在者に対して存在を描くアントニオーニの姿勢はストーリーに還元されず映画全体で一貫しているように思えるのだ。その点が同じく女主人公が失踪するヒッチコックの『サイコ』などとは違う。ちなみに女性という二重否定的存在に男性という全称肯定的存在が敗北すると読めば、アントニオーニはヒッチコック以上にラカンに通じることになる(*)。
ハイデガーとの違いとしては、アントニオーニの映画では性差は絶対的、というよりも絶対的に意識されている点だが、主人公の失踪などの偶然性は画面全体に行き渡っている感があり、それはハイデガーの現存在に通じる。
『赤い砂漠』などではサイバネティクスへの関心がうかがえるが、そうした技術へのアンビバレントな態度もハイデガーを連想させる。
アントニオーニは「私は腹で映画を撮っている」というが、そうした感覚、つまり頭という存在と腹という存在者の間で揺れているような姿は『存在と時間』にも見られ、アントニオーニはハイデガーと同じ課題を抱えていたように思えてならない。

20世紀の存在論として、本来性の回復という課題を国籍と性別を越えた外に開くためにも、両者を比較することには意義があると思う。

(*ラカンについては後日また書きたい。)
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by yojisekimoto | 2007-11-03 19:57

後期ハイデガー:メモ

後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
それは以下の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。

      天

神々           人間たち
  

      大地


大地の隣にシュヴァルツヴァルト(黒い森)、トートナウベルクの位置する森が付け加えられてもよいだろう。
トートナウベルクには日本人留学生に教えた謝礼金で造った山小屋があったのだ。
そしてドイツとギリシアをつなぐ媒介に選ばれた詩人がヘルダーリンだった。

以下、年譜におけるハイデガーの葬儀(=1976年5月28日、死去は26日)の記述より。

<死の少し前、ヘリングラード編のヘルダーリンの詩句を、「私の墓へ告別の挨拶としてゆっくりと単純に朗読する」ことを望み、ヘルダーリンの讃歌では「ドイツ人に寄す」、「宥和する者」、「巨人たち」から、悲歌では「パンと葡萄酒」から選ぶことを望んだ。(略)ヘルマン・ハイデッガーは父の意志通りにヘルダーリンを朗読した。その結びは「パンと葡萄酒」第三節のものであった。>

(人類の知的遺産75『ハイデガー』芽野良男、講談社p313より)
上記に挙げられた詩はすべて全集第2巻に所収されている。以下、その一節を引用する。


童児を嘲ってはいけない、鞭を手に 拍車をつけて
かれが木馬にまたがり 自分を雄々しい偉大なものと思っているときも。
なぜならドイツ人諸君よ、君たちも
思想に富んで行為に貧しい者なのだから。(以下略)

「ドイツ人に寄せる」  ヘルダーリン(手塚富雄訳)
(『ヘルダーリン全集2』河出書房p10より)

Spottet nimmer des Kinds, wenn noch das alberne
Auf dem Rosse von Holz herrlich und viel sich dünkt,
O ihr Guten! auch wir sind
Thatenarm und gedankenvoll!

"An die Deutschen"    Hölderlin
http://www.hoelderlin-gesellschaft.de/index.php?id=137
(ドイツ、ヘルダーリン協会サイトより)


ラジオ、テレビ、映画(『羅生門』に関して日本人との会話で触れている)との関わり(*)が端的に指し示すような、その技術論とともにこうした民族主義も後期ハイデガーを読む上で重要になるだろう。

*追記:
ハイデガーがヘルダーリンの詩を朗読したCDが現在販売されている。
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by yojisekimoto | 2007-11-02 00:17 | ハイデガー