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プルードンの手紙

プルードンの考えた社会革命(経済革命)とは一体どのようなものだったろうか?
二月革命の三年前、一八四五年一〇月に彼は『ノート』にこう書いている。

「農・工業の標準価格表と一覧目録を作製すること。‥…/かつてローマ人が行ったように、各労働者に家族の帳簿ないし記録帖をつけることを教えること。それは彼らの入金・支出のすべて‥…を記入するためである」(藤田勝次郎『プルードンと現代』p22より)

" Organiser la mercuriale et l'Ephéméride agricole et industrielle : cons'equence de l'établissement sur tous les points d'un bon système de comptabilité.
Apprendre à chaque ouvrier à tenir , comme autrefois les Romains, un registre ou carnet de famille, pour y inscrire en qq. mots toutes ses recettes, dépenses, les accidents heureux ou malheureux, et tous les événements domestiques qui peuvent intéresser, non pas l'Etat (chose absurde), mais la fammile."
("Carnets de P-J Proudhon" Tom.1,p.155 )


海運業者で会計を担当していたプルードンにとって、会計の重要性は明白だった。
もし絶対的な権力である国家官僚だけが会計能力を持っていたら、その会計監査はおおざっぱなものになってしまうだろう。
例えばそれ自身多様な自然エネルギーの自立分散的な総和よりも、ひとつの原子力発電所のエネルギーを選択するといった長い目で見て不経済な選択をしてしまうということも考えられるのだ。

上記に引用した言葉を紹介した研究者の藤田氏は、海運業時代の未刊行のプルードンの手紙を集めてそのファクシミリ版と活字版をセットで出版している(仏語版『プルードン未刊書簡集』全三巻、本の友社、1997年)。

二月革命を何の準備もなくむかえた民衆にいらだつプルードンの残した言葉とその筆跡もその手紙は伝えている。

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(『未刊書簡集』第三巻、p421-422より)

「(略)革命は理念をまったくもっていません。‥…市民たちは、絶えず私の家のドアを叩きにやってきます。ひとは、私をこの貴重な商品の希な独占者の一人だと思っているのです。(略)私は、ひとつの目的しかありません。それは、民衆を理性的にすることなのです。やがて大きな社会的な議論が開始されるでしょう。その時、私のやったことが考慮されねばならないでしょう。」(aux frères,Paris, le 27 février 1848.)(藤田前掲書p243-244より)

「革命は理念なしに行なわれた」("Carnets de P-J Proudhon" Tom.3,p.10 、藤田前掲書p245)という一貫した認識は、プルードンにとってマルクスのようなファルス化へ向かうこと無く、とことん当事者でありつづけるのである。
以前別ブログで紹介したルソーの言葉のように広場に花を飾ればいいというわけにはいかないのだ。
交換銀行が彼の理念の形象化である。

「語られ、求められ、提案され合っているすべてのことを理解になれば、きっと不安になることでしょう。幸い政府はその無力を認め、立ち止まっているように思われます。私がいつもいっていたこと、社会革命は、政治革命からは生まれず、政治革命が社会革命から生まれる、ということや、そのために政令でことをはこぶことはできない、ということが少しずつ分かってきています。」
(à Victor, Paris, le 17 mars 1848.)(藤田前掲書p244より)

ナポレオン三世による新自由主義と馬上のサンシモン主義、国家統制経済の行き詰まり、こうした事象はまさに21世紀初頭を生きる我々の問題意識と完全に重なるのではないだろうか?
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が現代的である以上に、プルードンの思考は現代的なのである。
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by yojisekimoto | 2008-05-23 23:42 | プルードン

デープ・エコロジー再考

   ‥‥‥我々は、我々の外に在る物を我々の使用に適合させる絶対的力を持っていない。
   ‥‥‥我々は単に全自然の一部であってその秩序に従わなければならぬ‥‥‥
   ‥‥‥我々がこのことを正しく認識する限り、その限りにおいて、我々自身のよりよき部分の努力[欲望]は全自然の秩序と一致する。 
             (『エチカ』第四部付録第32項)

以前、ノルウェーのディープ・エコロジスト、アルネ・ネスがスピノザをエコロジーの原理として推奨していることを紹介したが、少し補足しておきたい。
ネスの議論に対しては反論もあったが、その反論もまたスピノザの単純化された原理に従っているという意味で(基本原理が少ないからスピノザの思想は共通言語たりえるのだ)、スピノザの原理は有効だという思いを強くする。
以下、『エチカ』より。

「人間が自然の一部でないということは、不可能であり、また人間が単に自己の本性のみによって理解されうるような変化、自分がその妥当な原因であるような変化だけしか受けないということも不可能である。」『エチカ』(第4部定理4、岩波文庫下p16)

「むしろ理性は、動物が我々に対して有するのと同一の権利を我々が動物に対して有することを教える。」『エチカ』(第4部定理36備考1、岩波文庫下p48より)

前者は、基本となるエコロジーの考え方だが、内在する自然が外に対して開かれるというイメージ(=能産的自然?1:29備考)はスピノザならではだ。さらに「我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する」(5:定理24)という箇所をネスはある論文***で引用しているが、認識論をスピノザは捨てているわけではない。また、後者は、その後に人間が動物を力に応じて利用してもかまわないという意味の言葉が続く。これなどは『マックスモナムール』流の動物と人間の交歓こそが画期的だと言った考え方(絵本作家の長谷川修平が『映画未満』で批判していた)を退ける考え方で、注意が必要だ。スピノザはあくまでも精神の高みを目指しているのだ。

「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。」5:42『エチカ』の最終行より

参考:
以下、下記サイトより引用。

http://environ.shudo-u.ac.jp/~matuda/newpage2.htm#_ftnref4


「西欧の古典的な哲学を環境思想の観点から『反省』すること」と私が書いたとき,そこでの「反省」は決して「否定的評価」のみを意味していたのではない。「反省」という語を私は,対象を突き放して冷静に吟味するという広い意味で用いたのである。西欧の古典的な哲学は,実際,環境思想の観点から見て肯定的に評価されるべき点をも多々含んでいるであろう。例えば,スピノザの存在論・倫理学はディープ・エコロジーの提唱者であるノルウェーの哲学者アルネ・ネスにより,極めて高く評価されている[*]。

[*] スピノザに対するネスの肯定的議論については松田(2002)で**整理した。

**松田克進(2002)、「環境思想から見たスピノザ」、スピノザ協会編『スピノザーナ』第3号所収。

***
"Speculum Spinozanum 1677-1977"所収、"Spinoza and ecology",Arne Naess,oslo

追記:
後者のスピノザの発言は、スピノザがホッブズとの違いについて言及した手紙を読めばわかるように、人間社会においても共通して当てはまる原理だ。
ネスが証言しているように、動物も人間社会もスピノザにとっては同じ原理ではかられるのだ。
http://72.14.235.104/search?q=cache:VJOJ3nnD_oIJ:library.tuins.ac.jp/kiyou/jinbun-PDF/21.kiyonori.11.pdf+%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%96%E3%82%B9+%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6+%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%A8%A9%E3%80%80%E4%BF%9D%E6%8C%81%E3%80%80%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%8A%B6%E6%85%8B&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a



ところで、スピノザの「自然権」概念の特徴を明らかにするには、ホッブズのそれとの比較が一つの手がかりを与えてくれるように思われる。というのも、スピノザ自身が1674年6月2日付のイエレス宛書簡で次のように述べているからである。

「国家論に関して私とホッブズとの間にどんな相違があるかとお尋ねでしたが、その相違は次の点にあります。即ち私は自然権を常にそっくりそのまま保持させています( semper sartumtectum conservo )。従って私は、どんな都市の政府も力において市民にまさっている度合に相当するだけの権利しか市民に対して有しないものと考えています。自然状態においてはこれが常道なのですから。」*

ヘーゲルは自然状態を止揚し国家を打ち立てようとするが、スピノザは自然状態そのものを残そうとする。これは有限な空間に無限を見出したスピノザと、自然を止揚することで無限を見出したヘーゲルとの違いでもある。神=自然というスピノザ説に、神=無限を代入し、神=自然=無限と考えれば、有限空間に無限を見出したスピノザの数学的思考(http://yojiseki.exblog.jp/5748440/http://yojiseki.exblog.jp/5762898/)が、エコロジーに転用できるだけでなく、自然法擁護にもなりうるということを指し示していると思う。

*書簡50、『スピノザ往復書簡集』、畠中尚志訳、岩波文庫、237-238頁。スピノザは『神学政治論』第16章の傍注(ⅩⅩⅩⅢ)でもホッブズの名を挙げて、ホッブズの説との対比で自説の特色を述べている。
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by yojisekimoto | 2008-05-20 02:39 | スピノザ

企業間地域通貨

地域通貨にはいろいろあるが、最近話題になっている企業マネーもその一種だろう。下記は消費者を囲い込むためのそれとは違い、企業と企業の間の取引で使われる地域通貨の記事だ。アメリカで1970年代に考案されたもの(「コンスタンツ」*)も伝え聞いたことがあるが、下記はそれよりも大規模のもののようだ。

<物々交換は定義が一定していないので、信頼できる世界的統計を入手するのはむずかしいが、フォーブス誌はこう伝えている。「フォーブス誌五百社企業のうち六十パーセント以上が物々交換を使っていると推定される。ゼネラル・ラインズなどの大企業すら、財やサービスを交換していることが知られている」。フォーチュン誌も、主要な世界企業の三分の二以上が頻繁に物々交換を行っていて、そうした取引を扱う専門部署を設けていると伝えた。
 アルゼンチンでは二〇〇二年に経済危機に陥り、自動車販売が急減したとき、トヨタとフォードが自動車代金を穀物で受け取ることに合意した。ウクライナが巨額の天然ガス代金を滞納したとき、ロシアが代金の一部をTu - 一六〇戦略爆撃機八機で受け取ることに同意した。ロシアは、三十億ドルのストリチナヤ・ウォッカとペプシ・コーラ・シロップを交換したこともある。他国の政府も亜鉛からアルパカ毛織物まで、あらゆるものの物々交換を呼びかけている。>
 アルビン・トフラー他著『富の未来』下(第40章 明日の通貨 ペプシとウォッカ、講談社、p149-150より)

為替リスクに対抗して大企業は、信用と担保で取引を行っているのに、一般の地域通貨は信用と担保が不十分なために、今現在の日本においては不調だ。なぜ大企業に出来て、貧しいひとは団結できないのか?信用を創ることができないのか?その必要性は明らかなのだから、企業間地域通貨を批判的に分析することで、自らに活かすべきだろう。

また、地域通貨がインフレ時に力を発揮し、デフレ時には(法定通貨の流通が急務で)むずかしいということも確かに言えるが、資本主義は複利を基盤にした場合、慢性的なインフレ下にあるのも確かなので、地域通貨の可能性と必要性はやはり大きいと言わざるを得ない。

追記:
同じことがCO2排出権取引にも言える。
インターネットによるマッチングが容易になった現在、個人間でも排出圏取引をおこなってもいいだろう。


コンスタンツに関しては以下も参照した。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20050923
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by yojisekimoto | 2008-05-19 07:18 | 地域通貨

文法と思想

浅利誠『日本語と日本思想』において、柄谷行人が紹介したニーチェの説が触れられていたが、(引用はされていなかったので)ここにその該当箇所を引用しておきたい(たまたま手元にあった本からの引用なので、柄谷が参照したバージョンではない)。

「一切のインド、ギリシア、ドイツの哲学の不思議なまでの家族的類縁性は、いたって簡単に説明できる。ほかでもなく、言語の類縁性が存在するところ、文法の共通の哲学によってーー換言すれば同様な文法の機能による無意識的な支配と指導によってーーあらかじめすでに一切が哲学的体系の同種の展開と配列をもたらすように整えられているということは、到底さけがたいところなのだ。同様にそこでは、世界解釈の別種の可能性にむかう道が閉ざされているように見えるである。ウラル・アルタイ言語圏に属する哲学者たち(この言語圏においては主語概念の発達がはなはなだしくおくれている)は、おそらくきっと、インドゲルマン人や回教徒とは違ったふうに<世界>を観入するだろうし、彼らとは違った道を歩んでいることであろう。特定の文法的機能の呪縛は、ぎりぎり究極のところ、整理学的価値判断と種族的条件の呪縛にほかならないのだ。」

ニーチェ『善悪の彼岸』二〇(ちくま学芸文庫、p45-46)

ニーチェも柄谷も単純に状況論を並べてそれを信じているわけではないが、思考の同一性に対して異物を持ち込もうとする態度は興味深い。思考のエネルギーを取り戻そうとする作業だと言える。
ハイデガーもそうだが構造のなかでものごとをとらえているので単純な二元論ではない。ハイデガーの場合は解釈学的にドイツ語、ギリシア語の限界に自ら安住した部分もあるが、柄谷の言うように共同体と共同体の間を疾走する感覚がニーチェにはある。
おそらく、ニーチェをカントの批判を受け継いだものだと考えるようなドゥルーズのような視点が重要なのだろう。

参考:
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070814

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by yojisekimoto | 2008-05-19 07:16 | 研究

物自体及びスピノザの今日性

以前紹介したように、一般に感情的だと看做されがちなヤーコビ(1743-1819)は、メンデルスゾーンとの論争の後に出したヒューム論(1787)の中で、「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、しかも物自体によればカントの体系の中に留まれない」という有名な言葉を述べ、スピノザの側からカントの弱点を指摘した。
これなどはカントの哲学体系(空間重視)とスピノザのそれ(実体重視)が対立するというより、ある一点で交わるということの証明でもあるだろう(以前述べたように互いの体系にお互いの体系が相互的に組み込まれているという解釈も可能だが)。
上記の発言は、英訳ではこうなっている。

"I must admit that I was held up not a little by this difficulty in my study of the Kantian philosophy, so much so that for several years running I had to start from beginning over and over again with the Critique of Pure Reason, because I was incessantly going astray on this point,viz. that without that presupposition I could not enter into the system, but with it I could not stay within it. "

'David Hume on Faith' "The Main Philosophical Writings and the Novel Allwill"Friedrich Heinrich Jacobi (Translated by George di Giovanni,McGILL QUEEN'S. pp.336)

カントは遺稿で、自然科学への関心を保ていた。カントの物自体は認識できないという立場からの引き算だが、これは例えばスピノザの言う無限と捉えることも出来るだろう。スピノザは有限空間の中に数学的な無限を見出していたが、このカントールの先駆け的な視点は、実はデカルトの文脈で言えば物理学的なものであり、カントの立場と照応可能なのだ。

ヘーゲルはスピノザとカントの両者に「留まれない」として逸脱したが、両者をアンチノミーとして維持したまま、生産的な思考を生みだすことは可能だ。

スピノザの視点は政治論的には、民衆による自治は可能かと言う展望に関わるし、それ以前のストア学派からの影響などを重視すれば、西欧哲学に受け継がれた下からの力、多様な力の哲学の系譜(ドゥンス・スコトゥス等)が含まれることになる。

例えば、イスラエルはヨーロッパがユダヤ人を思想的に市民社会のなかに内包することができなかったから追放されたひとたちの集団と考えることができる(経済的には石油確保のための欧米の拠点ではあるが)。

スピノザの汎神論をもう一度西欧哲学の主流のなかに位置づけることができなければ、いつまでもユダヤ人は追放されたままであり、アラブと言う他者(これはデータを読み上げる他者=物自体である)も見えないのである。

また、スピノザの哲学は有からスタートしている点において無からスタートする東洋思想とは違うが、東洋の哲学との一致点は数多くあり、東洋にすむ住む人間にとっても人ごとではないだろう。


追記:
以前、ジジェクのヘーゲル論を紹介した際に言及したが、コジェーヴがプラトンの神学との関係において、スピノザ、ヘーゲル、カントを図解していて興味深い。
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邦訳『ヘーゲル読解入門』p185-189参照。
プラトンの神学では円環的な知という大きな円に概念という小さな環があった(上)。それに対してスピノザは概念そのものが存在となることで自らが宇宙となり、図では大きな円である宇宙が消える(左下)。
ヘーゲルは概念から絶対知へ至ることで自ら神となる。図では概念の運動は消える(中央下)。以前紹介したジジェクの図とは違うが、アウフヘーベンすることで自ら登った階段を外すと考えれば妥当だと思う。
カントは仮説的に神の概念を想定するので、小さな円は実線ではなく点線で表される(右下)。
完全に納得できるわけではないが、カント哲学とスピノザ哲学の相補性がこれだとうまく説明できる。

コジェーヴ作製の図は他にもあり、ちなみにアリストテレスの多神論的神学は小さな円が数個プラトンのそれに書き加えられたものとなっている。

p168にあるその前段階の図も興味深い。
そこでは最初の図は直線となっている。
円環としての知という東洋では一般的な思考法に至るには、西欧哲学においては準備がいるということだろうか。

追記:
その後スピノザの図を書き換えてみた(ジジェクではないが、ヘーゲルとプラトンも逆のような気がしてならないが)。
カントはそのまま。
スピノザとカントが点線と実線の位置づけにおいて相補的となっている。
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小さな円の上下をどちらか逆にすればよかった。
そうすれば、空間重視の批判哲学と、実体重視の汎神論哲学の対比が明白になったろう。

スピノザからカントを、カントからスピノザを読む
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by yojisekimoto | 2008-05-18 17:12 | スピノザ

ヘーゲル『精神現象学』各種翻訳の比較

ヘーゲル『精神現象学』(1807年)の「意識」の章の終わりあたりより、翻訳の比較です。

以下、同じ箇所を引用してみました。
/////////////

「知覚を越えて高まったとき、意識は現象という媒語を通じて超感覚的なものと推理的に連結したものとして現われてきて、現象という媒語を通じて[超感覚的なものという] この背景(後ろの根拠)を観じている。」
金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』上p166

「知覚を超えて高まったとき、意識は、現象という媒語[中間]によって、超感覚的なものと推理的に結ばれて、現われる。この媒語を通じて意識はその背景を見るのである。」
樫山欽四郎訳、平凡社上p203

「知覚を超えた境地にある意識は、現実界を媒介とし、現実界の背後を透視するというかたちで超感覚的世界とつながっている。」
長谷川宏訳、作品社p117

「意識[自身はというと、それ]は知覚よりは高まっているから、現象という中項を介して超感覚的なもの[内なるもの]と連結するのであり、意識はその中項を介してこの[超感覚的なものという]背景を覗き見るのである。」
牧野紀之訳、未知谷p311

"Raised above perception, consciousness exhibits itself closed in term of appearance, through which it gazes into this background [lying behind appearance]."
"HEGEL'S Phenomenology of Spirit"translated by A.V.Miller,p103

"Erhoben über die Wahrnehmung stellt sich das Bewußtsein mit dem Übersinnlichen durch die Mitte der Erscheinung zusammengeschlossen dar, durch welche es in diesen Hintergrund schaut."
G.W.F. Hegel"Phänomenologie des Geistes"
http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/kap3.htm


追加:精神の章の冒頭。

「理性が精神であるのは、あらゆる実在性であるという確信が真理にまで高められ、そうして理性が自分自身を自分の世界として、また、世界を自分自身として意識しているときである。」
金子武蔵訳、岩波書店『精神の現象学』下p731

「全実在であるという確信が真理に高められ、理性が自己自身を自己の世界として、世界を自己自身として意識するようになったとき、理性は精神なのである。」樫山欽四郎訳、創文社『ヘーゲル精神現象学の研究』p388

「物の世界すべてに行きわたっているという理性の確信が真理へと高められ、理性がおのれ自身を世界として、また、世界をおのれ自身として意識するに至ったとき、理性は精神である。」
長谷川宏訳、作品社p296

「理性は[今や]精神となっている。[自分は]全ての実在であるという[自己意識の主観的]確信が[客観的]真理にまで高まり、その確信が自分の世界との一体性を自覚するに至ったからである。」
牧野紀之訳、未知谷p618

"REASON is spirit, when its certainty of being all reality has been raised to the level of truth, and reason is consciously aware of itself as its own world, and of the world as itself. "
"THE PHENOMENOLOGY OF MIND "Translated by J. B. Baillie(先出とは違うmindバージョン。)
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hegel%20Phen/hegel%20phen%20ch%20VI.htm
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/ToC/Hegel%20Phen%20ToC.htm



"Die Vernunft ist Geist, indem die Gewißheit, alle Realität zu sein, zur Wahrheit erhoben, und sie sich ihrer selbst als ihrer Welt und der Welt als ihrer selbst bewußt ist."
G.W.F. Hegel"Phänomenologie des Geistes"

http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/kap6.htm


http://www.marxists.org/deutsch/philosophie/hegel/phaenom/index.htm



専門家には金子訳、一般には長谷川訳でいいのではないでしょうか?
ヘーゲルが大急ぎで書いたものなので、早く読める長谷川訳がいいと思います。
細かい訳の問題は、それぞれの訳者の書いた入門書にあたるのがいいと思います。
牧野訳における「序言」「序論」という目次設定は的確だと思いますが、、、
なお英訳にも精神をmindとする バージョンとspiritとするバージョンがあって、意見が分かれます。spiritの方が歴史的には正確でしょうが、mindの方が現在の意味としてはニュアンスが正確に伝わるようです。

追記:
概念を把握でき、読みやすく、本の造りもいい(高価だが金子訳ほどではない)という点で牧野訳が一番推薦できると最近は考えています。金子訳と長谷川訳の長所短所をふまえているという部分も評価できます。
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by yojisekimoto | 2008-05-14 00:22 | ヘーゲル

今井凌雪

『乱』以降(『影武者』は未確認)の題字を担当している今井凌雪氏は、書道界の重鎮だそうだが、黒澤映画の最も重要なスタッフと言えるのではないでしょうか?
『蝦蟇の油』や『全集黒澤明』の題字も担当しています。

以下、wikipediaより
黒沢明監督作品「乱(1985)」、「夢(1990)」、「まあだだよ(1993)」の題字を担当したことでも知られ、2002年には、映画「阿弥陀堂だより」題字も担当している。

映像
書・20世紀の巨匠たち(VHS・DVD)第二巻」天来書院
題字
「阿弥陀堂だより」
「新日本古典文学大系」(岩波書店)
「新桃太郎伝説」(スーパーファミコン用ソフト、ハドソン)


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by yojisekimoto | 2008-05-09 23:07 | 黒澤明

ヘーゲルの未来図:再考

以前ヘーゲルの『自然哲学』草稿に描かれたスケッチについて書いたことがある。
http://yojiseki.exblog.jp/6013122/
マラブー『ヘーゲルの未来』*の冒頭で紹介されていたものだが、もう一度考え直してみた。

以下、「ヘーゲルの自然哲学草稿の素描」(英語版『ヘーゲルの未来(The Future of Hegel)』表紙より。
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Naturphilosophie und Philosophie des Geistes.Felix Meiner Verlag, Philosophische Bibliothek, Bd 333, page 113

結論から言えば、中央の「U」は「否定性」(Negativitätで頭文字はNになってしまうが)と解釈すべきだったということだ。
否定性(有機体にとっては非有機体)を内側に持たない、類。
否定性を内側に持つ、種。
否定性を育てる、個。

ということになる。

*以下、『ヘーゲルの未来』p20より、スケッチの描かれた部分の草稿文。

「有機的なものの推論」
類はここでは有機的なものの側に立つ/ーー結論は、類は非有機的なものと直接に合一されるということである。ーー個体は自分自身を食い尽くす。排除することのない分裂。有機的なもののそれ自身との関係。/個体は自らの無機性を止揚し、自分自身から栄養を摂取し、自らを自分自身へと分岐させ、自分の普遍を自分の諸職別へと分裂させる。これが個体自身における過程の推移である。

訳注
☆1『自然哲学(下)ーーヘーゲル哲学体系初期草稿(三)』本田修郎、未来社、1984年、212頁。なお、同様の表現は『自然哲学(下)』、第342節補論、476頁にみられる。
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by yojisekimoto | 2008-05-06 11:41 | ヘーゲル

バーダーの思想:我思われる故に我あり

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Franz Xaver von Baader
(1765-1841)

ヘーゲルと同時代のキリスト教神学者および神秘思想家にバーダー(Franz von Baader)という人がいる。
光と闇のうち、闇を第一義にするベーメ譲りの伝統に位置するが、それだけではない。
イギリスのアナーキストの先駆者であるゴドウィンに傾倒したことが知られ、プロレタリアートという言葉をドイツではじめて使った人物だ。

彼は、生前人気のあったシェリングなどに比べ不遇だったが、最近見直されている。
例えば『ドイツ・ロマン主義研究』(御茶の水書房)という研究論文集では4本の論文がバーダーを扱っており、シェリングと並び最多だ。

バーダーは、デカルトの「我思う故に我あり(Cogito ergo sum)」 を「我思われる。故に我思い、我あり(Cogitor, ergo cogito et sum)」と言い換えている。

これだけでは何のことだかわからないが、人間には、神から恩恵を受ける受動性があってはじめて思考、存在が可能だということだ。
スピノザの「疑いつつ、ある」と似ているが、原点に先述した闇がある点が違う。

これは東洋哲学に親和性がある考え方だと思う。もっとも日本の場合、神が世間に置き換わる傾向はあるが、、、
(バーダーのキリストに対する同時性的態度などはキルケゴールに影響を与えたそうだが、「あれかこれか」といった二律背反ではなく、相互主義的な面をもっと評価できるかもしれない。)

ヘーゲルの一元論に対抗しうる考えを当時から持っていたバーダーはもっと評価されていい。
代表作といわれる『認識の酵母』(ヘーゲルが『エンチュペクロディー』第二版序で言及している)でさえ邦訳はないが、今後に期待したい。

参考サイト:
J. Glenn Friesen教授のサイト

http://members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html

http://www.members.shaw.ca/baader/(バーダーの英訳あり)
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by yojisekimoto | 2008-05-01 14:00 | ヘーゲル