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カントの批判哲学(空間が先か事物が先か)

カントは空間が先か事物が先か、という問題に関して面白い論考を残している(1768年「空間における方位区別の第一根拠」)。これは『プロレゴメナ』第13節でも要約されているが、カントの認識論の前提となる議論である。
カントはもちろん、事物より空間が先だと言っている。これはスピノザやライプニッツに対抗したものだが、幾何学的認識をカントが軽視したからではなく逆である。
カントは鏡に映った右手が右手そのものと一致しないという幾何学的?事例を挙げる。その他にも「赤道の弧を共通の底辺とする両半球上の球面三角形」や片方の手袋をもう片方の手で使用することができないなど事物の非相似性を例に挙げて空間の重要性を説いている。

カントは続けて言う。

「この先験的(超越論的)という語は、決して物に対する我々の認識の関係ではなくて、認識能力に対する我々の認識の関係を意味するにすぎない」(岩波文庫『プロレゴメナ(序論)』p90)

ここから理性の越権行為を許さないカント特有の批判哲学のシステムが生まれる(これは人間をエアコンに喩えたら、その強度を調整するインバーターのようなものかも知れない)。

空間(内的な場合は時間ということになる)を経験の条件として先に考えること自体はいいが、弊害として、これだと物自体は認識不能だから自然科学などは重要でないという考えがでてきてしまう。デモクリトス以降のギリシア哲学もこうした傾向があった。

一般に考えられているのと逆にカントはこの自身が開発した批判哲学のシステム(=エアコンのコンバーターシステム??)に満足していなかったというのが僕の意見だ。それはカントの『遺稿』(未邦訳)にニュートン(絶対空間説の先駆)と並んでスピノザ(実体説の先駆)の考察が執拗に含まれていることから分かる。批判哲学そのものはカント自身もいうように形而上学の準備段階なのだ。

ここでもう一度カントの空間論をそのまま突き進めるとどうなるか、を考えたい。
カントは経験の条件として空間(内的な経験の場合は時間)を考えたが、これは20世紀に見出された、四次元空間を可視化したミンコフスキー空間を考えると分かりやすい。

(ミンコフスキー時空に関しては以前も書いた。上記図の手段、目的、倫理、質云々に関してはカントの倫理学と第一批判とを結びつけようとした個人のメモにすぎないので無視して下さい。)
http://yojiseki.exblog.jp/5493434/

スペースライク、タイムライクと区切られた図形において、スペースライクをカントの言う物自体と考えることができる。
カントは物自体においてアポリアを見出すことで、自然科学の限界を見出していたが、カント哲学とミンコフスキーの時空図を比較する限り、自然科学は物自体の追求にも役立つし、(これが肝心だが)カントの批判哲学自体の構造も明確にするのである。

参考:
『カント全集 第三巻』(理想社)
『哲学の歴史7』(中央公論新社)
『湯川秀樹「物理講義」を読む』(講談社)

追記7月2日:
ちなみにヴィトゲンシュタインはこのカントの説に異論を称えている。空間ではなく一次元の直線を考えても同じ例をあげられるというのである(『論理哲学論考』6・361・2)。
例えば<()>といった記号も、左右の手袋のように互いに向き合ってはいるが(直線から外れることができないならば)重なり合わない(しかも、ヴィトゲンシュタインは四次元空間を考えれば右手の手袋を左の手ではめることも可能だとさえ述べている!)。
さて、もうすこし極端にして、点の場合を考えたらどうであろう。モナドの中に全てが移し込まれているという考えによって、カントの空間優位説がモナド論に回収されることになる。カントは『自然形而上学』においてはライプニッツを自らの説に引き寄せて解釈しているが、同じことがライプニッツの側からも言えるのだ。

追記7月21日:
以下、『『モナドロジー』を読む』(世界思想社)より

「たとえモナドが神の属性を「模倣」するとはいえ、それは、ちょうど<鏡>に映すように、左右逆対応になるのである。この私の右腕は、鏡の中の私の左腕になるように、<モナドの知力=神の意志>、<モナドの意志=神の知力>となるような交差関係の図式のもとでの模倣が起こるのである。」(pp117-118)

単子論48節「模倣」についての池田善昭氏の恣意的な解釈だが、カント(及び同時代のクラーク)の空間優先説に対する実体優先説側からの興味深い反論となっている。
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by yojisekimoto | 2008-06-30 19:56 | カント

ライプニッツとスピノザ

ライプニッツは思惟が物質ではないことを示すために、面白い図を提出している。
(『ライプニッツの普遍計画』p370より)
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点Aはそれを中心とする円周(物質=延長)からどのように類推しても求められる最小点(精神=思惟)だが、物質として可視化出来ないにしても、確実に存在しているというものだ。

主辞に述語が含まれるというライプニッツの普遍文法を想起させるし、点Aはモナドとして、予定調和と対になっていると考えられる。

また、ライプニッツは中心である精神の点は、無数に存在しうるとしている。

これらは以下のような、ライプニッツの言説に対応するだろう。

「それゆえこれらの微小表象(表象=perception)は、考えられているよりもずっと大きな効力をもつ。集合的全体では明晰だが、部分としては錯然としているあの何とも言えぬもの、好み、感覚的性質の諸形象を形成するのはこれら微小表象である。われわれを取り巻く物体のなす、無限を包み込んだ印象や、各存在が宇宙の他のすべてとの間にもつ繋がりを形成するのもこれら微小表象である。これら微小表象の結果として、現在は未来を孕みかつ過去を担っているとさえ言えるのだ。」(ライプニッツ「人間知性新論」、邦訳「ライプニッツ著作集」第4巻、工作舎)
http://www.furugosho.com/precurseurs/leibniz/perception.htm


無限を説明したスピノザを想起させるが、こちらは知的な行為によって精神というよりも真理の測定が可能としているところが違う。
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by yojisekimoto | 2008-06-29 21:22 | スピノザ

「汝」と「それ」

柄谷氏による長池講義は、それ自体無料でおこなわれ互酬性にあてはまるものだが、学問的にいろいろ考えさせてくれる。
その一つがスピノザとヴィトゲンシュタインの共通点だ。『探究2』で言及されたスピノザの無限論は無際限ではなく、ヴィトゲンシュタインによる「世界の中に神秘があるのではない、世界があることが神秘なのだ」という言葉と響きあう。これは無際限的集合を支持したラッセルを間に入れると分かりやすい。

ヴィトゲンシュタインは先の日記に書いたブーバーの猫の記述とも関連してくるだろう。
両者とも無限を日常のなかに認め、関係性において記述したのだった。

さて、ブーバーの言う「汝」と「それ」を柄谷の交換図に当てはめれば、汝がAに、それがCにあたるだろう。四次象限図は集合論的にベン図に直すと分かりやすい。
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柄谷に言わせれば、互酬性にあたるAの「汝」と資本制にあたるCの「それ」の対立がブーバーが猫と目が合った際に浮かび上がるものだということになるだろう。
一方、互酬性にあたるAの「汝」と資本制にあたるCの「それ」の二つのいい部分だけをあわせたのがDのアソシエーションであり、国王(一方的な社会契約でも結果的には同じだが)のような超越した第三項を立てて両者のすべてを捨象するがBの国家ということになる。

Bの国家は、Dのアソシエーションと相容れることなく対峙しているわけだから、Dを規定することでBを、Dを規定することでBを浮き彫りにすることは原理的に可能だ。

柄谷はatの第7号でカントをこうしたDの思想家として対応させているが、ヴィトゲンシュタインもDを語ったと考えることができる(ブーバーは前述のようにAの汝とCのそれを対立させることでDを浮き彫りにしたからDを直接語ったわけではない)。
スピノザなどはDとBの両面から語っている(『エチカ』=Dと『国家論』=B)。

ブーバーに関係づけて比喩的に言うならば、猫を見つめる異なる複数の人間を記述しなければ、アソシエーションを語ったことにならないということも言える。その点でヴィトゲンシュタインの問題意識はより本質的にアソシーエーションを内部から語った問うことかも知れない。

長池講義では、頭文字だけだとヴィトゲンシュタインとウィットフーゲル(これはBを主に語った)と紛らわしいといった冗談が語られたが、柄谷氏の問題意識が(周期説ではないが)一周してより深まったという思いを新たにした。
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by yojisekimoto | 2008-06-24 04:02 | 柄谷行人

猫と互酬性

21日、柄谷行人氏の第二回長池講義行ってきました。以下メモです。

講義は交換をめぐる論考のなかでも主に、互酬性、共同体をテーマにしたものだった。
印象に残ったのは高澤秀次氏がマルクスの人間所有の歴史観に関してホワイトボードにこう書いたのを、

   共同(体)所有
    |
   私的所有
    |
   個体的所有


柄谷氏が以下に訂正したことだった。


   共同(体)所有
    |   個体的所有
国家ー私的所有


解説するなら、個体的所有は古代にもあったし、私的所有は納税義務を見れば分かるように国家に付随した概念だということになる。
共同体所有と記述し、共同所有としなかったのは、生協などの共同所有と混同しないようにという配慮であり、現代の感覚では
「互酬性」は見えて来ないというのがこの日の講義の一貫したテーマだった。
モースの再評価も行われたが、これは共同体所有を「神が所有するようなもの」という感覚を現代人が理解することができるかが鍵
だということだろう(この件に関して柳田国男にも触れられた)。

at,12号に掲載されるザスーリッチへの書簡をめぐる考察の詳細が語られたのも印象的だった。
簡単にいえば、マルクスはギリシアの独立精神のある(「未開の」)氏族共同体に可能性を見出したのであって、中世共同体やロシア
の農村共同体の可能性に関して否定的だったということである。
これはスターリンの行った農機具国有化への追認として誤解される恐れがある見解だと個人的には思うが、マルクスの読みとしては
正しいと思う。

講義の後半はこうした生産ではなく交換に眼を向けることの重要性と、アジア的生産様式の概念を維持すべきだという(そうでない
とギリシアの独自性も分からない)ことの解説が行われた。後者は当日太田出版の方から購入したat,12号(最新号)に詳しい。また、
22日朝日新聞掲載の書評でもアジア的生産様式に関しては触れられているようだ。

ブーバーの『我と汝』*における猫の記述をアニミズムと関連づけていた(at,7号に詳細あり)のも印象的だった。

追記:
レジュメは以下に掲載されると思う。第一回のレジュメも掲載されている。
http://web.nagaike-lecture.com/

* ブーバー『我と汝』(岩波文庫p123)より

「大地が動き、関係が生まれ、つぎの瞬間、ほとんど間を置かず別の関係が起こる。<それ>の世界が私と猫を取り囲み、一瞬の間、
<なんじ>の世界が深淵から輝いたけれど、今や再び<なんじ>の世界は、<それ>の世界へ消えていったのである。」
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by yojisekimoto | 2008-06-23 02:07 | 柄谷行人

私的官僚制への疑問

柄谷行人は「at第5号」(p143)にマックス・ウェーバーの以下の文章を引用している。

「今日では、私的官僚制と公的官僚制とは並行して、少なくとも可能性としては対抗して、活動しているから、とにかくある程度互いに抑制し合っている。」(「新秩序ドイツの議会と政府」『政治・社会論集』、河出書房p329)

ウェーバーの文章は公的*というよりワイマール期における国家官僚制の権力の拡大を危惧したものだが、柄谷はそれとは逆に、アナルコキャピタリストが、公的官僚制を私的官僚制に回収することの虚偽を、軍隊のアウトソーシングを例にして告発している。
この例から明白なように、昨今の民営化万能論もこの虚偽を免れない。

プルードンが民衆に会計能力を要求したように(http://yojiseki.exblog.jp/7140637/)、アソシエーションというオルタナティブな回答を柄谷は用意しているが、それは国家と資本の分析を歴史的にした上で、彫像を彫るようなかたちで明確にしようとしている。これは大きな遠回りとも見えるが、技術的な試行錯誤と並行して行うべき必要な課題ではある。


もちろん、官製不況といった側面が明らかになっている現在、公的官僚制の限界も露呈しつつあることは言うまでもない。それは地方分権と並んで大きな課題である。ここで柄谷が称える中間団体論(http://demosnorte.kitaguni.tv/e539083.html)が重要になると思うが、柄谷はここでも丸山正男の歴史的考察を基盤にして、議論の土台、共通理解をつくろうとしているようだ。

*注
公と私、国家と個人の関係に関しては(私的→公的でもありうると説いたカント『啓蒙とは何か』の議論を参照しつつ)以下の図が書けるだろう。

   公
国家 + 個人
   私
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by yojisekimoto | 2008-06-09 03:54 | 柄谷行人

マルクス価値形態論への疑問:メモ

マルクス『資本論』の価値形態論は「論理的」(*)なものだが、決定論の見地から確定的なものではない。

貨幣は、カント的に言えば数学的矛盾と物理的矛盾のうちの物理的矛盾にあたるので、数学的矛盾と違い現実的には許容されてしまう。
しかし、これはあくまでも表象として許容されているのであって、ヘーゲル的弁証法のようにその矛盾を捨象するべきではない。
様相論理学的に言うならば可能性であって潜在性ではないのだ。

柄谷も言うように「本人が考えたのとは違う体系のなかにある」とスピノザをマルクスが評したことがマルクス自身にもあてはまる(**)。

実無限を限定された空間に見出すスピノザの論理(スピノザの無限1http://yojiseki.exblog.jp/5748440/、2http://yojiseki.exblog.jp/5762898)が価値形態論にも援用されるべきであり、その無限性は貨幣にではなく一般的価値形態に見出すべきだ(***)。

つまり、一般的価値形態から貨幣形態への変化は不可逆なものではないのだ。一般的価値形態、横並びの商品にこそ労働という潜在性を見出すべきなのだ。

貨幣を王権とする比喩表現がプルードンやマルクスに見られるが、実際の歴史を観れば分かることだが、歴史における王権は民主主義を不可能にするものではない。逆に民主主義を準備するものである。

『エチカ』においてスピノザは観念から表象を批判したが、このことからも価値形態論における貨幣批判は表象批判ということになる(****)。実体としての神という公理系からスピノザが出発するのは、構成された価値論におけるプルードンが「神」から論考を発展させるのと同じで、表象としての貨幣を相対化するには公理系を確立する必要があるからだ。

*定本『トランスクリティーク』pp243
**同pp242
***講談社学術文庫『探究2』pp363
****
参考:
『エチカ』第四部付録第28項にはこうある。
「しかしこれ(養分)を調達するには、人間が相互に助け合わない限り、個々人の力だけではほとんど十分でないであろう。ところですべての物が簡単に貨幣で代表されるようになった。この結果として通常貨幣の表象像が大衆の精神を最も多く占めるようになっている。人々は、金銭がその原因と見られないような喜びの種類をほとんど表象することができないのである。」(岩波文庫下巻pp93)

続いて第29項にはこうある。
「しかしこうしたことは、欠乏や生活の必要から金銭を求める人々についてではなく、貨幣の術を学んでこれを誇りとするがゆえに金銭を求めるような人々についてのみ非難されるべきである。‥…」
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by yojisekimoto | 2008-06-06 22:49 | マルクス

1+1=2?

ラッセルは『数理哲学』(Principia Mathematica)で集合論を援用して1+1=2を証明している。

画像は『数の悪魔』及びgoogle booksより。

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http://pds.exblog.jp/pds/1/200409%2F21%2F43%2Fa0035543%5F42547%2Ejpg

上記ブログより
「『数の悪魔』(エンツェンスベルガー著、丘沢静也訳、晶文社)というのがある。
この本の217~219ページにラッセル卿(バートランド・ラッセル。1872~1970。享年97。長生きでしたね)が1+1=2を証明した、とさらっと書いてある。そしてその証明方法を記したものが示されている。」

ラッセル=ホワイトヘッドの証明はフレーゲの証明を考慮しなかったために、現在では先駆的意義のあるものとみなされていないが、それでも当時としては画期的だった。
それは集合論的帰納法に基づいているからだ。
ラッセルによれば各数字はその数の集合を代表すると見なされる。これで数字の意味づけが完成する。
さらに、ラッセルはペアノの定理を利用し、ゼロと順列を定義する。
どのような数字であろうともゼロから順列が続いていると定義するのだ。
そして、1+1=2の証明においては、(ここが重要だが)、1と1が集合論的に重なっていないことが確認される。
これは例をあげる必要がある。例えば夜空の星をふたりの人間が数えていて、ふたりともひとつづつ見つけたとしよう。
だが、ふたりの見つけた星が同じ星だとしたら1+1=2にはならない。ふたりの見つけた星がそれぞれちがうからこそ合計が2と言えるのだ。このあたりの説明が集合論を援用するとうまくいく。

(映画『ノスタルジア』『赤い砂漠』で、1+1が1であるという主張がなされるが、こうした手続きが間に介在されるところが芸術と数学の違いと言うことだろう。ただし、ふたりの人間が「地球」を数えているのだとしたら1+1が1にならなければ「数学的に」おかしいということになるだろう。アントニオーニの場合、人間は互いに重ならないという認識が冷たい作風を生んでいるのかも知れない。)

さて、ラッセルは『プリンキア・マテマティカ』を一般向けにした『数理哲学入門』(河出書房、世界の大思想ほか)において、この辺りの考え方の基礎を分かりやすく説明している。(ラッセルは、今日では丸括弧であらわす数式記号をコンマで表したりしているので読みにくいというのも理由のひとつだが)それでも一般にはむずかしいのでなかなか認知されていないのが現状ではないだろうか。

参考:
http://blog.plover.com/math/PM.html

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by yojisekimoto | 2008-06-06 21:14 | 数学

スピノザによるトランスクリティーク

最近柄谷の『探究2』を読み直している。

この時期はまだ交換ではなく交通がキーワードだ。

「スピノザの『エチカ』のオプティミズムは、フロイトのこのペシミズムとちょうど表裏の関係にある。‥…一方では、希望・意味をもたないがゆえにペシミズム・ニヒリズムにみえ、他方では、絶望・無意味をもたないがゆえにオプティミズム・信仰に映る。」
(講談社学術文庫『探究2』柄谷行人pp189)

スピノザの理解において傑出しているこの本は、スピノザとデカルト、スピノザとカント、スピノザとマルクス、スピノザとフロイトのトランスクリティークである。

同種の考察は『異端の系譜』( イルミヤフ・ヨベル)でも見られたが、柄谷はより徹底している。

柄谷は論理学をつきつめることで論理学から逸脱し、スピノザを神という公理系(観念)から表象=概念=想像知を批判したとするのだ。いろいろな研究書を読んだが、ここではじめて『エチカ』の幾何学的記述が必然性を持つことが納得させられた(pp168)。

「境界」に立ち続けた(pp316)フロイトに関する考察は、定本第4巻に引き継がれるが、カント、フロイトへの無条件の賛美を持たないこの時期の柄谷はやはり突出している。

相互主義的に社会契約において自然権を留保したスピノザ、、、(pp196)、NAMのような社会運動の試みもまたスピノザに関する考察が基盤をなしている『探究2』の公理系=原理から再出発する必要があるだろう。

スピノザは以下のように言っている。

「理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である」(Eth.Ⅳ, Prop.73)(スピノザ)
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by yojisekimoto | 2008-06-05 11:44 | 柄谷行人