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ドゥルーズ、柄谷、プルードン

デリダのテクスト観とは違ってドゥルーズのテクスト観はダイナミックで魅力がある。

(以前にもこのことは書いたことがある。 http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51717849.html)
これは柄谷の禁欲的なテクスト観とも違う。
デリダも独特の魅力があるがこうした複数のテクスト観を同時に持つことが大事だろう。

ドゥルーズは柄谷のように詩的な言説を自ら禁じるのとは違って、機械の歯車のように連結させるのだ(『記号と事件』文庫版p22参照)。
それをドゥルーズは機械的<仕組み>=アジャスマンagencementと名付けている。

そうしたアジャスマンagencementとはズレてしまうが、フーリエ、プルードンと続く系列的弁証法(dialectique serielle)の系譜にドゥルーズはどれくらい意識的だったのだろうか?
(多田道太郎「プルードンの家庭論」『プルードン研究』p319参照。このこともブログに書いたことがある。http://yojiseki.exblog.jp/6757270/

サディズムとマゾヒズムといった二項をヘーゲルの弁証法とは違って止揚することなく開きつつ、(新たな均衡の系列=se'rieへと)展開させるのは、プルードンとまったく同じなのだが、、、、
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by yojisekimoto | 2008-10-23 18:23 | プルードン

『シェリング講義』書評

(以下、先日の日記に出てきた本の書評メモです。)

『シェリング講義』1999年、新書館
マルティン ハイデガー, Martin Heidegger著, 木田 元, 迫田 健一訳

本書ではハイデガーが珍しくスピノザに言及している。
正確にはシェリングの『人間的自由の本質』経由の間接的な言及だが、許し難い意図的なスピノザの誤読がある。

ハイデガーはシェリングを引用し、スピノザの誤りが「神が諸事物であり」、「一個の事物であるとするところにあるのだ」(p200)とし、存在忘却の典型だとしている。
しかし、シェリングの原書ではその先があり、「一個の事物であるところの無限的な実体の抽象的な概念的把握に、あるのである。」(世界の名著続9、p416)と続くのだ。

シェリングもハイデガーもスピノザを批判し、それ以上に能動性の契機を見出そうとしているのだが(シェリングは上記書p410でスピノザのいう実体を「A」、個別的実体を「A/a」と記載する等正確に理解しようとしているが)、ハイデガーの方はスピノザを矮小化したうえで「ドイツ観念論」に可能性を無理矢理見出そうとしているように見える。

それもカントの批判哲学に寄り添う形のドイツ観念論をカントのものではないと、カントを両義的に捉えるというよりも矮小化(p102,134,191)しつつ、、、(これはあるべきものの逆転であるというフランツ・バーダーの悪の定義にあてはまる。世界の名著p438)。

カントについては置くとして、肝心な点は、ハイデガーの存在忘却の指摘が実はスピノザの論理に近いという事だ。
例えば、p116(及びp148)に出てくるハイデガー作成の存在-神-論の図は、
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(要素を抽出するなら、)

   存在者である限り
 
存在者         存在者全体

    ロゴス

というものだが(左端の「存在者」を本書では「存在者そのもの」と記しており、複数に対する単数、様態に対する実体、つまり存在者=オンではなく存在=ウーシア的なものとも理解できる)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、

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(同じく要素を抽出するなら、)

   全論理空間  

実体        様態

   空のクラス 

と、上下は逆だが相似である(『論理学史』山下正男p208より。ただしハイデガーはヘーゲルと同じで最終的には排中律を取らない)。
つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである(ニーチェですらスピノザを正しく読んでいたのに)。

「悪」を欠如やたんなる転倒としてではなく、人間の可能的形態としての自由論、それも数学的な理性体系(p108)の中に位置づけるとするなら、スピノザの即物的で動的な「悪」の定義こそ重要になるはずだが、、、

そもそもハイデガーがカントの遺稿に言及するなら(p92-3)そこに記されたスピノザの重要性にきづいたはずである。

索引もあり、訳も読みやすく本書の「存在」自体はたいへん意義があると思う。
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by yojisekimoto | 2008-10-21 01:33 | ハイデガー

ハイデガーの論理学と時間(メモ)

以下読書メモです。
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上図は『ハイデガー=存在神秘の哲学 』(講談社現代新書)古東 哲明 (著)
(p174,175より)
多分ゲーデルの不完全性定理*が理解されていないから多くの場合論理学が神秘主義に転化する。
同書はその典型だが、ハイデガーのそうした傾向を体現し(右図は邦訳全集26巻-1928年の講義録-p282、左図は42巻にあたる邦訳『シェリング講義』-1936の講義録-p307より)、ハイデガーの作による時間図を紹介した功績は大きい。

左図は右図の応用だが、シェリングの生命観を示している。逆回転している点を除けばヘーゲル(フラクタルな三角形)と大差ないし、ニーチェ的でもある。

右下図は存在が過去と未来の間に挟まれている事を示す。ベルグソンを意識的に乗り越えようとしたものだ。

右上図は存在が先端(Spitze)にある事を示す右下図の前段階の図だが、精神と物質を示したライプニッツの図に似ている。精神の位置に存在を置いただけである。ちなみに右端の小さな記号はクエスチョンマークで(開けは放たれた地平を意味している)ベルグソン流の時間論の限界を体現する。

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上図は邦訳『シェリング講義』(p307)


ゲーデルの不完全性定理はカントールの対角線論法とライプニッツの普遍計画(結合法論)経由のゲーデル数が肝だ。逆に言うと、この二つだけ理解すれば不完全性定理も単なる三段論法である。
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by yojisekimoto | 2008-10-20 21:42 | ハイデガー

スピノザとライプニッツ再考

以下、以前紹介した図を利用してスピノザとライプニッツに関して再考してみました。

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ドゥルーズはかなりライプニッツとスピノザをつなげて解釈しています。
(彼のスピノザ論で概念が強調されるのもライプニッツ的な普遍計画への傾斜を反映しているのではないか。)

ドゥルーズによれば、ライプニッツとスピノザの最終的な違いは、多義性と(一義的)一元性ということになります(参照:ネグリ『野生のアノマリー』p327)。
ただし、スピノザの思惟と延長の平行論は安易な一元論を許しませんし(「疑いつつ、在る」は端的には二元論であろう)、ライプニッツの多義性は構成主義的な一元論と紙一重だと思います。

二人の違いは、スピノザとライプニッツの図形の捉え方を検証するとわかりやすいと思います。
(微分発見以前の)ライプニッツはある一点に集約される交点に精神を見出し、一方、スピノザは限られた空間内での図形のあり方に無限を見出しています。

参考図(過去ログより):
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(『ライプニッツの普遍計画』p370より。点Aはそれを中心とする円周(物質=延長)からどのように類推しても求められる最小点(精神=思惟)だが、物質として可視化出来ないにしても、確実に存在しているというもの。)
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(上はスピノザ自身による無限の説明図。『書簡12』--書簡50には無限の説明があるが図はない--、本来はデカルトのつくった図だが純数学的に改変して『デカルトの哲学原理』に採用されている。
円と円の比率が無限に存在するということは、実体に対して様相が無限に存在するということでもある。)
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(『エチカ』に出てくる最初の図--第1部定理15備考より--では、2本の線が無限に延びるとしたら、BとCのあいだと、既存の線と2種類の無限が外在的に存在してしまい、おかしいと説く。もうひとつの図--第2部定理8備考より--は任意の線であるDとEの矩形は無限に存在し得ると説く。こちらでは内在的無限の合理性を説明している。)

先に述べたように、ライプニッツには(多元論を束ねる一点を認めるという意味で)集権的な合理主義の危険があり、スピノザには精神が偏在すると考えることによる神秘主義の危険があります。
一般にライプニッツの数学的貢献が強調されますが、スピノザのカントール等に先立つような現代数学における先見的な価値もまた(柄谷行人が『探究2』第二部で述べたように)疑い得ないと思います。
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by yojisekimoto | 2008-10-04 00:44 | スピノザ