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クロポトキンとプルードン:メモ

アナーキズムに関して、中国ではバクーニンが影響力を持ちましたが、日本においてはクロポトキンの影響が絶大です。
例えば鶴見俊輔などにも影響を与えています。ただそうした思想史的影響よりも、戦前『相互扶助論』が影響を持って、平塚らいてうなどが実際に消費組合をつくったことが重要だと思います。

また日本におけるプルードンの受容に関しては、『財産とは何ぞや』が大正時代に発売禁止になったのが大きかったと思います。
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現在でも入手できるテキストが余にも少なく「ユダヤ人」なる書の執筆計画のメモも藤田勝次郎氏(『プルードンと現代』p52)が紹介しているくらいではないでしょうか?

ちなみにプルードンは、男女を性質の違うものと考え、そこにアンチノミー(二元性)を見出していたようです。結婚(=契約)を愛よりも上位概念と捉え、同性愛を含めた性愛を下位に見ていたところは保守的というよりオーソドックスと言えそうです。

「あなた方淑女諸君は、両性のちがいは教育と習慣の結果にすぎないとおっしゃる。したがって体制が変われば、両性のちがいは消滅し、ただ生殖器官のちがいしかのこらないだろうとおっしゃる。言いかえれば、私は両性の特性の等価性(l'equivalence)の上に男女間の関係のシステムを打ちたてようとしたのに対し、あなた方は逆に、この両性の『平等』と『同一性』の上に男女間の関係のシステムを基礎づけねばならぬとしている。これが一切の争点だ。」
(「Pornocratie(『娼婦政治』)」。多田道太郎「プルードンの家庭論」『プルードン研究』岩波p320より)

ところでプルードンによればキリストはアナーキスト=革命家だったということになるようです(『プルードン研究』p338)。
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by yojisekimoto | 2009-01-30 06:47 | プルードン

オーウェンのニュー・ラナーク

ドイツとフランスの初期社会主義に触れたのでイギリスについても触れたい。
世界遺産の番組がTBSとNHKで放送されているが、今まで見た番組シリーズのなかで、ロバート・オーウェンが試みた工業団地の舞台であるスコットランドのニュー・ラナークは特に印象に残った。
日本語の動画は入手できなかったので、以下はyoutubeから拾った英語版の紹介動画。

この動画だとわからないが、住宅に関しては今でも人々が生活しており、そこが他の世界遺産と違うところだ。
1800-1825年まで続いたオーウェンの試みは、投機目的のお金の流れによって阻まれた。だがそれはオーウェンが間違っていたということにはならない。
むしろあらゆる場所で同時的にオーウェンの試みが必要なのだろう。
共同体の前に流通網が必要だとも思うが、そうしたプルードン的発想と共同体志向であるオーウェンやフーリエの発想は二律背反ではないと思う。

リンク:
http://4travel.jp/sekaiisan/newlanark/
TBS世界遺産
NHK世界遺産

追記:
オーウェンはその後アメリカのニューハーモニーでも同様の試みをしている(法政大学出版『都市と思想家1』に詳しい)。

追加参考動画(デアゴスティーニ世界遺産88日本語版より):
http://www.veoh.com/browse/videos/category/travel_and_culture/watch/v17426443NpwtKwzZ

世界遺産100
http://www.veoh.com/browse/videos/category/activism_non_profit/watch/v1940223364qCtFDA
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by yojisekimoto | 2009-01-28 18:02 | 研究

佐藤優とロバート・ベラー:メモ

’09年1月25日元外交官の佐藤優氏がサンデープロジェクトに出演し、オバマ合衆国大統領の就任演説について語った。


役所が責任から逃げようとする「消極的権限争議」(黒澤明が『生きる』冒頭で描いたものだ)についての話や日本が西洋にとって文化人類学的研究の対象であるという指摘が面白い。

さて、後半部の最初に名前の出て来る、アメリカの「市民宗教」なるものを指摘し命名したというロバート・ベラー(Robert N. Bellah)はタルコット・パーソンズの弟子にあたり、パーソンズの晩年は共同研究のパートナーでもあった(パーソンズは共同研究を重視した)。ベラーの『徳川時代の宗教』(岩波文庫)は丸山真男も著作集第7巻で論じている。この論文ではベラーが採用したパーソンズの機能図式(以前もこのブログで触れた)が紹介されている(丸山真男集第7巻p260)。

  普遍主義                特別関係主義
A_________________________________G
|              |                 |
|  Adaptation 適応      |    Goal Attainment 目標    |業績主義
|ーーーーーーーーーーーーーー+ーーーーーーーーーーーーーーーーー|
|              |                 |
|   Latency  潜在性   |   Integration 統合       |属性主義
|______________|_________________|
L                                 I

ベラーによれば日本人の場合、Lの潜在性は美的情緒的価値(宗教的なものでもある)にあたり、影響力が大きい。したがって為政者はこれを限られた区画でしか発揮できないようにしたという。

昨年の早稲田講演で柄谷行人が引用した丸山の論文に出てくる図式↓(丸山真男集第9巻)はこのベラーの論文に触発された可能性が高い(対応するであろうagilの記号は引用者がつけたした)。

      結社形成的
遠  I自立化(l)   D民主化(i)   求
心       +         心
的  P私化(a)   Aアトム化(g)  的
     非結社形成的

ベラーと丸山ではそれぞれパターンの変数設定が以下のように違う(上記図では上下が逆)。丸山の術語は()内。

普遍主義←→特別関係主義(遠心的 ←→求心的)
業績主義←→属性主義 (非結社形成的←→結社形成的)

用語は違うが性質はかなり近い。

(ちなみに柄谷のいうアソシエーションは引用者の恣意的な定義では、普遍主義ー結社形成的、遠心的ー属性主義的な「潜在性」だということになる。さらに変数を倫理学的用語に設定するとしたら契約的ー人格的ということになると思う。)

ベラーの言う「市民宗教」はアメリカにおける潜在性(Latency)*であり、佐藤氏に言わせればオバマが訴えかけたものに相当する。またそれは日本における宗教及び美的情緒的価値に相当し、国家形成(この場合は国家の自立化)の原動力なのだということだろう(柄谷はそれをアソシエーションに置き換えようとしている)。

*パーソンズの図式だと、生命/行為/社会システム(左が上位概念)のうち潜在性はそれぞれテリック(究極)/文化/信託システムに相当する。

ベラーは共時的側面を重視し、丸山は通時的側面を重視する点も多少違うし、4次元事象図は社会学でよく採用されるので(例:宮台信司『権力の予期理論』など)丸山がパーソンズを意識したかはわからないが、まったく無関係とも考えられない。

追記:
丸山の図式は直接的にはPublic opinion in war and peace / by Abbott Lawrence Lowell.の第7章にある図↓を参考にしていると明記されている。goolgebook該当箇所、同書p276

         CONTENTED 満足
      Liverals    Conservatives
     (リベラルa)  (保守的g)
SANGUINE  ーーーーー+ーーーーーーーNOT SANGUINE
楽観的   Radicals   Reactionaries   悲観的
      (急進的l)  (反動的i)
        DISCONTENTED 不満

なお、ベラーは上記書で石田梅厳の倫理的商業観に着目し、ウェーバーがヨーロッパ(及びそのプロテスタンティズム)にしたのと同じことを日本に対し行っている。石田は身分にとらわれない考え方でオバマ(というよりかつてのケネディ)と同じことを訴えたのだ。

補足:
その後ベラーの「アメリカの市民宗教」(邦訳『社会変革と宗教倫理』所収)を読んだ。「市民宗教」はルソーが最初に使った言葉だそうだ(社会契約論第四部8章)。ケネディをはじめ大統領就任演説を分析の題材にしたこの論でベラー自身はアメリカにおける市民宗教を潜在的なものというよりも統合する力として距離を置いて考えているようだ。それはインディアンへの配慮を記載していることからもわかる(邦訳p365)。ベラーは市民宗教に希望を持っているが、現時点でのそれを充分にヒューマニスティックだとは思っていない。
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by yojisekimoto | 2009-01-26 20:23 | パーソンズ

『黒いアテナ』と小田実追悼

もう4年ほど前、友人のベトナム反戦運動で知られる作家の小田実へのインタビューに同行したことがある。
ビデオカメラを担当していたのだが、何の拍子にか話しかけられ「ずいぶん修行をしたんだろ?」的な言葉をかけられた。

僕は『何でも見てやろう』をあわてて読んだくらいだったので、小田実のすごさがわからなかったが、どんな人間も対等に扱うという信念のようなものを体全体から感じた。

関西弁を話すせいか、柄谷行人を連想したが、この連想はそれほど間違いではないと思う。明らかに両者ともアナーキズムの方向へ一歩づつ歩いて行っている先行者だからだ。
もちろん柄谷は『思想の科学』あたりへの評価は厳しいのだが、資質的には正反対な二人はそれほど思想的にはなれている訳ではないどころか接近しつつあると感じたものだ。

さきの発言にも職業組合を大事にするアナキズム的な発想があったと思う。

本題は、その日行われた講演会で『黒いアテナ』の話題が出たことだ。

『黒いアテナ』は1992年に出版され、ギリシアの文化を創ったのが有色人種であることを明確にし、物議をかもしたものだ。

たとえばこれに従えば、ハイデガーのいうギリシャ哲学などというものは存在しないことになる。

もちろん1960年代にドッズの『ギリシア人と非理性』を背景に、パゾリーニあたりが芸術的な成果をすでに出してはいたが、学問的なインパクトはこちらの方が大きい。

実は、その『黒いアテナ』をやっと最近読んだということを書きたかったのだ。そしてそのことでやっと小田実への追悼文を書けると思ったのだ。

小田はその翻訳出版に尽力していたが、そのことは『黒いアテナ2』上巻の冒頭に詳しい。

ギリシアの民主主義は、小田が学生時代から研究したものであり、その民主主義と平和主義の両輪は小田の市民活動の両輪だった。

講演会では、ドナルド・キーンがみずからの第二次大戦のペレリューでの戦闘を扱った『玉砕』を翻訳してくれたという話題も出た。この小説はアメリカでラジオドラマになり、評判になったそうだ。

詳細:毎日新聞『玉砕』書評

英語版の序文でキーンは自らの通訳及び情報担当だった戦争体験を赤裸々に語り、小田が小説の中であかさなかったモデルとなった島のペレリュー等の名を類推している。

戦争があったからこそアメリカの日本研究が進んだというのは柄谷がよく言っているが、その代表例がキーンなのだと痛感した。

話は小田実に戻るが、憲法第九条がらみのインタビューは、小田がエッセイに触れることとなった。

<この歌のことをあらためて考えたのは、最近ロックを演奏して反戦運動をやっている若者男女三人が私のところに「わたしたちは戦争を知らない子供たちです」と言ってやって来たからだ。三人とも「9」と大きく印字したシャツを着ていた。ひところはやった「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」をもじって「ジャパン・アズ・ナンバー・ナイン」として「9」を印字し、まわりに「憲法九条」を英語、ロシア語、アラビア語、韓国語に訳して取り巻かせるという趣向のシャツで、なかなかいかした。>
(小田実「戦争を知らない大人たち」『西雷東騒2』岩波書店p176。以下でネット公開されている。)
http://www.odamakoto.com/jp/Seirai/040727.shtml

何のことはない。取材したつもりが取材されていたのだ。
プルードンならこれを相互主義と呼んだだろう、、、、、

小田実が2007年7月30日に亡くなって今年で二年経つ、、、、
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by yojisekimoto | 2009-01-24 00:00 | 歴史

ダンテ『神曲』とイスラム文化

以下のサイトを参考にして『神曲』を図解してみた。

~図解・『神曲』~
『神曲』世界を図解しようと試行するページ
http://commedia.jakou.com/index.html

ちなみに、地獄から煉獄へ出るところで引力の方向が逆転している。「下へおりる」から「上へ登る」になる(どこかスピノザ『エチカ』の構成を連想させる)。
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なお、スぺースの関係で煉獄と天国が重なってしまったが、本来はもちろん重ならない。小さな数字はそれぞれの界を構成する圏の数。天国篇では月から至高天へ到る星?の数。

さて、(ここからが本題だが)地獄篇28歌でマホメットが苦しんでいる場面をダンテが描いたために、『神曲』はイスラムを蔑視するべきでないと考える人々からは評判が悪いが、アヴェロエス(イブン・ルシュド)にも言及しているし(地獄篇5歌)、こうした物語の構造自体をダンテがイスラム文化から学んだものだと言う説がある。

より詳しく言えば、イスラムの凖聖典ハディースのマホメット昇天後の夜の旅、アル・ミーラージュ(Al-Miraj)からの影響があるという(『現代アラブ文学選』創樹社p306)。

アシン・パラシオスという学者が1919年に著作("La Escatologia Musulmana en la Divina Comedia"、『神曲におけるイスラム終末論』未邦訳、英語では以下。"Islam and the Divine Comedy")で発表した説らしいが、その指摘された影響源であるハディースには、ムハンマドの昇天、すなわち「夜の旅」は以下のように描写されている。

<私の精神が上昇したとき、私は天国につれていかれた。私は天国の門の前に置かれた。天使ガブリエルが門のところにいたので、私は中に入れてくれるようたのんだ。ガブリエルはこう答えた。「私は神の召使にすぎない。汝、もし門が開かれることを欲するならば、神に祈れ」。そこで、私は祈った。すると神がこういわれた。「私は、最愛の者たちにだけしか門を開かないであろう。汝と汝にしたがう者は、私の最も 愛する者たちである」。>

参考:
「スーフィー・イスラムの神秘階梯」ラレ・バフティヤルー著、竹下政孝訳平凡社
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/sufi-kig.html
http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/DocDetail?hdn_if_lang=jpn&txt_docid=NCID:BA50160964
(中公文庫の牧野信也訳のハディースではガブリエルはジブラールと表記されている。)

イブン=アラビー(後述)などを参照するとさらにはっきりするが、これは『神曲』のコンセプトそのままであり、サイードの『オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)』などでは指摘されていないが、重要な指摘だと思う。

日本では以下の楠村雅子の研究がネット公開されている。
http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN00015107/ISS0000160930_jp.html

「ダンテとイスラム文学との接点」( 楠村雅子 「京都大学大学院 イタリア学会誌」)
以下上記サイトで公開されているpdf(8/11)より

 「スペインのムルシアに誕生し、セビィリャで活躍したスーフィー教の神秘学者、イブン・アラビー(Ibn・'Arabi)は"メッカの天啓"一六七章、"幸福の魔術"の中で、哲学と理性に導かれた魂が人間、解脱、再生の遍歴をする様を描いている。彼はイスラム教神学者の伝統に則り、黄泉の構造を図式化し、それを前述の書に挿入した。
(略)
 彼のこの宗教思想を図式化したものは同心円を七区分し、中心にくればくる程重い罪の刑罰を配したものである。ダンテのそれと比較した場合、区分数に差異が認められるが、構造面から見れば、両者が基本的に同質であることに疑いをはさむ余地はないと言えよう 。」

以下のサイトで、この説を最初に発表したアシン・パラシオスについて紹介されている。
koguma-blog
http://koguma.wordpress.com/2007/07/21/asin_palasios/
樺山紘一講演
http://www.angel-zaidan.org/danteforum2004/www/session2_kabayama.htm

ヘーゲルなども遵奉するトリアーデは新プラトン派経由だが、むろんその前にアラブ系の学者たちの研究があるのは歴史的事実だ。

とはいえ、最近河出書房から文庫化された『神曲』を読めばわかるが、こうした政治的な論争を超越してかつ世俗的(=身体的)なものとして『神曲』は屹立している。

そして、ダンテが当時のイタリア語の口語で書いた脚韻を踏んだラップのような詩は、(最新のイスラム文化をふまえた上で)、最高級のロールプレイングゲーム(イタリア語と英語ではウェブでいいサイトがあるが、ドレーの挿し絵とともにニンテンドーDSかPSPにできないか?)として現代語で読むのが今日、より相応しいと思う。
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by yojisekimoto | 2009-01-23 00:47 | 文学

ギリシアの「戦士=農民共同体」

柄谷行人はギリシアの「氏族社会(戦士=農民共同体)」に関して書いていますが、はっきりとした原資料はありません(柄谷の説は被支配共同体と区別した、あくまで支配共同体に残った「戦士=農民共同体」に可能性を見ている点が画期的です。この二つをエンゲルスは混同して扱っているそうです。「at」12号参照)。

戦士に関しては資料は多々ありますが、農民に関してはヘシオドス『仕事と日』くらいでしょう。

柄谷が『日本精神分析』で引用したのは『丘のうえの民主政』という本ですが、さらにその元ネタはアリストテレスの『アテナイの国政』(岩波文庫、くじ引きに詳しい)で、これは『政治論』(岩波文庫、徴兵に関して総合的な記述あり)とともに原資料としておすすめですが。

戦士と農民に関しては、結局、『七人の侍』を見た方がいいくらいではないでしょうか? ただしこの映画も農民と兵士が菊千代以外は分けられているから歴史的史実に忠実という訳ではありません。

アリストテレスの記述を読んで要約すると、将軍選出にはくじ引きを使わない、農村共同体の組織を徴兵した際も使う場合があり、くじ引きの対象になる、ただし、労務者というより奴隷はくじ引き、つまり役職の対象から外れる、といったところでしょうか?

基本的にギリシアは農地が痩せていて、オリーブにしか適していませんが、そのせいかその油を早くから貿易で売って食料を外国から購入していたようです(河出文庫『世界の歴史4 ギリシア』)。

ピースボートに乗ったときも運用するのはギリシアの会社で、彼らの海洋国家としての自負は並々ならぬものがあると思いました。ケネディ元大統領夫人と結婚し、マリア・カラスと浮き名を流した海運王オナシスもギリシア人でしたし、、、

先の話題に戻ると、エンゲルスとマルクスが氏族社会のモデルとして驚嘆したモルガン『古代社会』で描かれたイロクォイ族の連合制度はアメリカ合衆国のモデルとなったそうです。
アメリカ先住民の文化には、ギリシア・アテネの民主制以上に、アジア的共同体のような官僚制、常備軍というシステムに頼らずに平和を維持するヒントがあるような気がします。

付録:

アジア的       |    氏族的
 支配#/被支配*  |     支配*#/被支配
___________|______________
古典古代的      |   封建的
(ギリシア・ローマ) | (ゲルマン的)
 支配*#/被支配  |  支配#/被支配* 

*エンゲルスが着目した部分(一貫性がない)。
#柄谷とマルクスが着目する部分。
アジア的支配者は、官僚制と常備軍という優れたシステムを持ち自国民を分断統治できた。
ギリシアは氏族社会の支配者側の戦士=農民共同体を維持し、アソシエーションの可能性を文化的に残している。
封建制の支配者側には双務的な契約があり、自由が存在した。

追記:
柄谷行人は「文學界」('08,11)の座談会でヘロドトスの『歴史』を最近読んだと述べ、人類学の書として絶賛しています(ヘロドトスはアリストテレスのような自民族中心主義がなく公平だそうです)。

また、『丘のうえの〜』より河出文庫『世界の歴史4 ギリシア』の方が古いですが総合的なので個人的にはいいと思います(ちなみにこの本で、ヘロドトスで広まった「ヒストリー=歴史」の語の元の意味は「探究or探求」だと知りました)。

今だに映画でいいものを探しているのですが、、、
戦士はわかるのですが、ギリシアと農民はなかなか繋がりません。やはりギリシアはかなり初期から海洋国家だったと考えるべきだと思っています。
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by yojisekimoto | 2009-01-19 17:17 | 柄谷行人

ヘーゲル左派とプルードン

マルクスとエンゲルスは『聖家族』(1844)の時代にはまだプルードンを高く評価していました(ちなみに大月版全集第二巻によれば『聖家族』は共著だがプルードンを扱った節のある第四章はマルクスの単独執筆(『聖家族』英語版該当箇所)である)。
それはあくまで青年ヘーゲル派またはヘーゲル左派のグループの観念性を批判することで現実性を持とうとしたマルクスの思惑に利用された形の相対的な評価でしたが、、、

さて、エンゲルスが1842年のベルリンにおけるヘーゲル左派のグループ「自由人(フライエン)」("Die Freien")の人々の集まりを漫画にして描いた絵があります。
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http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Skiz-hegel.png
ヘーゲル左派のメンバー・ルーゲやエトガー・バウアー・シュティルナーらがかかれている。エンゲルスによる風刺画。

解説:
1842年のエンゲルスによる戯画。左からアーノルド・ルーゲ*(『独仏年誌』共同編集者)、ルートヴィヒ・ブール*、カールナウ・ヴェルク*、ブルーノ・バウアー*、オット・ヴィーガント(『ハレ年誌』『ドイツ年誌』『唯一者とその所有』『聖家族』『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』を出版したライプツィヒの出版業者)、エトガー・バウアー*、マックス・シュティルナー*、エドゥアルド・マイエン(革命失敗後イギリスに亡命したジャーナリスト)、氏名不明の二人、カール・フリードリッヒ・ケッペン(隊長として。神学者だがこの絵では酒を飲んで酔っぱらっている)。ブルーノ・バウアーはマルクスが編集に参加した『ライン新聞』を踏みつけている。*印をつけた人の著作は平凡社『資料ドイツ初期社会主義』で邦訳を読むことができる。
壁には断頭台があり(ちょうどエドガー兄弟の上)、左の隅には一匹のリス(アイヒホルン)が描いてある(このリスはプロイセンの文部大臣ヨハン・アイヒホルン)を風刺したもの。(参照:大月書店『マル=エン全集』第27巻p345,531、または"The New Hegelians: Politics and Philosophy in the Hegelian School "by Douglas Moggach,p138-9 )

参考:青年ヘーゲル派wikipedia、およびthe young hegelians
ヘーゲル左派日本語研究文献目録

エドガー・バウアー(片手を上げた人)はプルードンに批判的な評論を書き、それが『聖家族』ではマルクスたちの再批判にさらされます。

左端のルーゲなどは、右傾化したと批判されます。そのルーゲと闘っているブルーノ・バウアーはエドガーの兄でエンゲルスを無神論に導いたとされる大学講師で、そのユダヤ人論はマルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)で批判されています。

また、シュティルナーのクールな姿が有名ですが(別バージョンあり)、ただし、これらはあくまでエンゲルスとマルクスの側から見た見取り図です。

もし、プルードンを思想的な中心におくとしたなら、

  マルクス(批判)→プルードン←(批判)シュティルナー

というように左右からプルードンが批判されている構図を描くことができるでしょう。

このように、ヘーゲル左派からはじまりプルードンに着目するのは突拍子もないことではありません。
実際、ヘーゲル左派を研究されている石塚正英氏は、「交換銀行論の系譜——プルードン・ヴァイトリング・ゲゼル 」といった発表をされていて、仏、米、独、といった国境を越えたプルードンの系譜に着目されていて、成果が待たれます。
参考:http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/
   http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/g.html

また、佐藤優氏は『私のマルクス』で、ヘーゲル左派の多様性に着目し、スターリン主義、神学、マルクス主義、ユダヤ主義といった要素を読み取っており、ジジェクなどと同様この時期の可能性を掘り起こすことに成功していますが、こちらは残念ながらプルードンへの言及はありません。
参考:http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0709.htm

エドガー・バウアーの描いた「批判的」プルードンとマルクスの理解する「ほんとうの/非批判的/大衆的」プルードンを対比によってマルクスが論じる『聖家族』*は、後の『哲学の貧困』の時期よりもプルードンの本質を描いていると思う。

*追記:
以下のマルクスの言葉をグラムシが何度も引用しているそうだ。

「もしエドガー氏がフランス語の平等を、ほんのしばらくでもドイツ語の自己意識と比べてみるならば、彼は後者の原理とは、前者がフランス語で、つまり政治と思考的直観のことばでいうところを、ドイツ語でつまり抽象的思考のことばであらわしていることがわかるであろう……」
(該当箇所邦訳大月版全集第二巻p36)。<戻る>
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by yojisekimoto | 2009-01-18 21:59 | ヘーゲル

フィジーの思い出と互酬性

数年前、ピースボート関連のボランティアでフィジーに行った時、事前に読んだ文献にサーリンズの著作があった。そこでカヴァという茶道に似た文化がフィジーにあることを知ったのだが、日本で本を読んでいるだけではいまいちイメージが掴めなかった。今考えると、それは神話を日常性のなかで反復することの意義は体感しないとわからないということだと思う。
以前も書いたがフィジーではカヴァという文化は日常的に生きており、体感することができた、、、、。

実はフィジーのカヴァは実は島々をつなぐ外来の文化であり、それが共同体の中に内部化されたのだ。それが証拠にカヴァを栽培できる島は本島から見て南の方にズレて存在する。

さて、これは柄谷行人が「at」誌上で展開する共同体論に確証を与える事例でもある。

柄谷もまた共同体と共同体の間にあるものとして互酬性を定義しているからだ。

ここで学問的な話を深める余裕はないが柄谷も参考にしたサーリンズの『石器時代の経済学』(邦訳p240)の図を以下に紹介しようと思う。
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柄谷がサーリンズと違って重視するのは第三(サージンズの図では第五番目)の周辺、部族間圏域である。
家族内の互酬性も柄谷に言わせれば、こうした外部の互酬性が内面化されたものだそうだ(2008長池講義)。これはニーチェが指摘するキリスト教における良心のやましさなどとも重なるのだろうが、その功罪を別として互酬性を(共同体を作りつづける)動的な力として捉えている点がニーチェ(というよりその源流であるスピノザと言いたいところだが)により近いと思う。

柄谷はさらに共同体における原父殺しをフロイトの超自我とつなげて、アソシエーションの契機と考えるのだが、これらはカント的な批判哲学を国家論へと応用するものであり、先に投稿したプルードンのカント解釈とも重なると思う。
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by yojisekimoto | 2009-01-16 22:55 | 柄谷行人

プル−ドン生誕200周年記念

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国際プルードン友の会(Ami de Proudhon,本部支部ともに横浜)は、2009年1月15日のプルードン生誕200年を記念して、減価式紙幣を発行します。
減価率は1週間で0.1パーセント、一年で約5パーセントですが、1000プルードン紙幣には1年に5回10プルードン切手を空欄に切手を貼って下さい。
一年で回収し新たなものと交換します。
なお、20年ですべての紙幣の価値がゼロになることになりますが、これは貨幣の価値を一世代で終わらせるためのゲゼルの出した変数*です。

電子マネーと連動する際には、1000プルードン未満を切り捨て、確実に年5パーセント減化するように換算します。

税金と給料に使用可能にするにはハードルが高いので、プルードン友の会の会費に使えるようにします。事務対価にも使われます。

というわけで、遅れましたが新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申しあげます。



1930年代初頭、ドイツ、シュヴァーネンキルヘンとオーストリアのチロル地方のヴェルグルでの減価通貨の減価率は、事務作業上の問題もあるのだろうが月1パーセントだったそうである。
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by yojisekimoto | 2009-01-12 13:11 | プルードン

ワルラス、マルクスとプルードン(プルードン生誕200年に際して)

ワルラスもマルクスもプルードン批判(というよりも詳細な吟味)からスタートしている。
読めばわかるがワルラスの均衡という概念もマルクスの価値形態という概念もプルードンからの剽窃であり、その価格論的展開にすぎない。彼らはプルードンの思想を具体化したというよりは、ある一面のみを取り出して「純粋化」したのである。
そのかわり彼らにはプルードンにはあった価値論が疎かになっている。
(ワルラスには労働価値論が足りないし、逆にマルクスには資本/国民/国家の三位一体といった総合的視野が欠ける。)
今の不況はそうした価値論が不足していたことが原因であろう。

プルードンの言説が具体的でないと感じるならば、以下の交換銀行定款をご覧下さい。
http://nam-students.blogspot.com/2008/12/blog-post_12.html

追記:
『プルードン研究』にも所収された佐藤茂行氏の「レオン・ワルラスのプルードン批判について」は以下でpdf公開されています。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/31237
「レオンが一般均衡論の体系を構成するに際して、否定的な対象であったにせよ [ 否定的対象であるが故に]プルードンの経済的均衡の体系をその念頭においていたことは想像に難くない。」(pdf版p36、『プルードン研究』木鐸社p331-332)

ここで論じられたレオン・ワルラスのプルードン批判の書『経済学と正義』の邦訳はまだないようです。
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by yojisekimoto | 2009-01-12 00:00 | プルードン