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ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド

ユングの東洋趣味はよく知られているが、フロイトも1920年『快感原則の彼岸』(ちくま文庫『自我論集』191頁)の脚注で、ウパニシャッド(「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」)の以下の部分を孫引きして、プラトン(『響宴』でアリスとファネスに語らせている神話)への影響の可能性を論じている(前出のちくま文庫では「ブリハード・アラニヤーカ・ウパニシャッド」と表記されてしまっている)。
さすがにフロイトはユングのような元型論はとっていない。

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/3311
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(Brhadaranyaka-Upanisad)
湯田豊:訳

1:4:3
それ(アートマン)は快として楽しまなかった。
それゆえ,単独でいる時には,人は楽しまない。それは第二者を望んだ。
それは抱擁している夫妻の大きさであった。
それは,自己自身を二つの部分に分割した。
それから,夫と妻が生じた。
それゆえ,われわれ両人は,いわば,この片割れである,とヤージュニャヴァルキヤは言うのを常とした。
それゆえ,この空虚は妻によって満たされる。
彼は妻を抱いた。
それから,人間が生まれた。

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/3311/1/kana-7-5-0002.pdf

注:
インド哲学の側から見ると、シャンカラが『ウパデーシャ・サーハスリー』で一部このテクストの註釈(不二一元論の源流?)をしていることからもわかるように最重要のテクストである(ただし「世界の名著」1に部分訳があるだけで手近かな邦訳はない)。湯田氏が「ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド」として『ウパニシャッド―翻訳および解説』(上記引用箇所は20頁)で全訳しているが、ユングは冒頭の文章も断片的(下259頁等)に引用しているので『変容の象徴』が入手しやすいテクストということになる。

追記:
フロイトの知識はユング経由だと思う。『変容の象徴』上本文321及び345頁の脚注に(「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」ではなく)「ブラダーラニヤカウパニシャド」という書名で同じ箇所の紹介及び同じ指摘がすでにされているからだ。
脚注(プラトンへの影響説=ユングの場合はフロイトのように『響宴』ではなく『ティマイオス』を引用しているが)は1952年版にはじめてつけられたからユングがフロイトを模倣した可能性もあるが、「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」自体の紹介はドイセン(またはドイッセン)経由で本文(1912年)にあり、ユングの方が早い。
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http://nirmukta.com/2009/12/16/the-upanishads-attempt-to-reform-brahmanism/
「実に、感覚器官のかなたに事物があり、事物のかなたに思考がある。
思考のかなたに理解力があり、理解力(buddhi)のかなたに、大いなる自己(mahan atma)がある。」
(カタ・ウパニシャッド3:10、上記書456頁より、湯田豊訳)
湯田豊によればウパニシャッドという言葉の語源は弟子が師匠の下に座っていたことを意味するのではなく、人と事物の属性を規定していることにあるようだ。ネットで拾った上記の図は(西欧的文脈だが)ウパニシャッドの意義を良く指し示している。
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by yojisekimoto | 2010-10-29 23:45 | インド哲学

HIPHOPの名作

HIPHOP(RAP)の名作
源流


源流??


日本語ラップの最高峰



いとうせいこう MESS/AGE より 噂だけの世紀末

http://dictionary.goo.ne.jp/のような辞書サイトともいいが、
新版福韻書をネット上で公開、共同作成すべきだろう。

参考:
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Drum/2914/05_10_08.html

同時期に出た対照的なグループの対照的な曲。暴力への対峙と母親讃歌。




 
ポールが本当に出てきて驚いた。
Jay-ZのTシャツの中のジョンとも共演?
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by yojisekimoto | 2010-10-27 16:29 | 音楽

バラモンとキサー・ゴータミー

以下別ブログより、転載です。

「法句経(ダンマパダ)」の注釈書に、子どもを亡くした女性の話が出てくる(仏教説話大系12、すずき出版)。
ブッダの最初の女性の弟子になったというキサー・ゴータミーという名前の女性だ(キサーは痩せているという意味)。
脚色された話かも知れないが、本来の仏教の姿を伝えていて興味深い。

ブッダ 大いなる旅路part1より キサー・ゴータミーの話

http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/nayami25.htm
以下上記サイトより

キサー・ゴータミーの話

キサーゴータミーは、結婚するとまもなくかわいい男の子を授かった。ゴータミーは大変この子をかわいがり大切に育てていた。しかし、男の子が歩いて遊ぶようになったころ、突然死んでしまったのです。

ゴータミーは愛児の突然の死が信じられず半狂乱の状態になってしまった。ゴータミーは、死んだ愛児を抱きかかえ、

「誰か、この子を生き返らせる薬を下さい」と言って、町じゅうを歩き回ったのです

町の人もさすがに「このまま放って置けない」と考え、ブッダに薬をもらうよう、ゴータミーに教えた。
ブッダに会いに行くとゴータミーは言った。

「この子を生き返らせる薬を下さい」
するとブッダはこう言った。

「ゴータミーよ、よく聞きなさい。それでは今から町に行き、家々を訪ね、まだ一人の死者も出したことのない家から、芥子の粒をもらってきなさい。そうすれば、その薬を作ってあげよう」

町に出たゴータミーは言われた通りに、一軒一軒訪ねて廻った。
しかし、死人を出した事のない家などあろう訳はなかった。そのうちようやくブッダが自分に何を教えようとしたのかわかったゴータミーは、

「愛する我が子よ、わたしは今まであなたが一人だけ死んでしまったとばかり思っていた。でも生まれてきた者は皆死ぬのが定めなのだ」

ゴータミーは愛児を墓に埋めてやり、ブッダのところへ再び言った。
ブッダが訪ねた。

「ゴータミーよ、芥子の粒はもらえたかね」
それに対して、

「ブッダよ、もう芥子の粒はいりません。家々を訪ねて廻るうちに、死なない人などいないということがわかったのです。わたしをあなたの弟子にしてください」
とゴータミーは答えた。

参考サイト:

http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/mission/howa/rewa/rewa_6.htm
http://72.14.235.104/search?q=cache:edD8IeEjdKcJ:www.takamatsu-u.ac.jp/nlibrary/kiyo/no34/no34akamatsu.pdf+%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%80%80%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80&hl=en&ct=clnk&cd=1

追記:
バングラデッシュのチッタゴンに残る仏教の本来の姿。
僧侶はお経を生きているひとたちのために語る。

ブッダ 大いなる旅路part1より お経の本来の姿

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by yojisekimoto | 2010-10-27 16:06 | インド哲学

「和歌ではない歌(うたではないうた)」(wikiへのリンク付き)

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中島敦

1909年(明治42年)5月5日 - 1942年(昭和17年)12月4日

以下、wikiより
「和歌でない歌」は日本の作家、中島敦の作品、連作詩の題名。以下の「遍歴」はその冒頭の詩。
54人ほどの偉人、歴史上、伝説上の人物が全55行のなかに言及、引用されている(引用者注:東洋人が11人でそのうち日本人が4人、中国人が6人、インド人?が1人)。中島敦の圧倒的な教養とバランス感覚を伺い知ることができる(英訳がなく、海外研究者に知られていないのが残念だ)。
以下はふりがなを()内に入れ、ワ+濁点をすべてヴァ*に変え、固有名詞を一般的なものに変えたヴァージョン。
原文に記号としての()は存在しない。()内のリンクはすべてwikiに飛ぶようにしてある。

追記:
「ある時は整然として澄みとほるスピノザに來て眼(め)をみはりしか」の「來て」は「似て」の誤植かと思ったが、元原稿が存在しないので校訂された全集版にしたがった。

和歌でない歌

中島敦

    遍歴

ある時はヘーゲルが如萬有をわが體系に統(す)べんともせし
ある時はアミエルが如つゝましく息をひそめて生きんと思ひし
ある時は若きジイドと諸共に生命に充ちて野をさまよひぬ
ある時はヘルデルリン(ヘルダーリン)と翼(はね)竝べギリシャの空を天翔りけり
ある時はフィリップ(シャルル・ルイ・フィリップ)のごと小(ち)さき町に小(ちひ)さき人々(ひと)を愛せむと思ふ
ある時はラムボー(ランボー)と共にアラビヤの熱き砂漠に果てなむ心
ある時はゴッホならねど人の耳を喰ひてちぎりて狂はんとせし
ある時は淵明(えんめい(陶淵明))が如疑はずかの天命を信ぜんとせし
ある時は觀念(イデア)の中に永遠を見んと願ひぬプラトンのごと
ある時はノヴァ*ーリス(ノヴァーリス)のごと石に花に奇しき祕文を讀まむとぞせし
ある時は人を厭ふと石の上に默(もだ)もあらまし達磨の如く
ある時は李白の如く醉ひ醉ひて歌ひて世をば終らむと思ふ
ある時は王維をまねび寂(じやく)として幽篁の裏(うち)にひとりあらなむ
ある時はスウィフトと共にこの地球(ほし)のYahoo(ヤフー)共をば憎みさげすむ
ある時はヴェルレエヌ(ヴェルレーヌ)の如雨の夜の巷に飮みて涙せりけり
ある時は阮籍(げんせき)がごと白眼に人を睨みて琴を彈ぜむ
ある時はフロイド(フロイト)に行きもろ人の怪(あや)しき心理(こころ)さぐらむとする
ある時はゴーガン(ゴーギャン)の如逞ましき野生(なま)のいのちに觸ればやと思ふ
ある時はバイロンが如人の世の掟(おきて)踏躪り呵々と笑はむ
ある時はワイルドが如深き淵に墮ちて嘆きて懺悔せむ心
ある時はヴィヨンの如く殺(あや)め盜み寂しく立ちて風に吹かれなむ
ある時はボードレエル(ボードレール)がダンディズム昂然として道行く心
ある時はアナクレオンピロンのみ語るに足ると思ひたりけり
ある時はパスカルの如心いため弱き蘆をば讚(ほ)め憐れみき
ある時はカザノヴァ*(カサノヴァ)のごとをみな子の肌をさびしく尋(と)め行く心
ある時は老子のごとくこれの世の玄のまた玄空しと見つる
ある時はゲエテ(ゲーテ)仰ぎて吐息しぬ亭々としてあまりに高し
ある時は夕べの鳥と飛び行きて雲のはたてに消えなむ心
ある時はストアの如くわが意志を鍛へんとこそ奮ひ立ちしか
ある時は其角(宝井其角)の如く夜の街に小傾城などなぶらん心
ある時は人麿(柿本人麻呂)のごと玉藻なすよりにし妹をめぐしと思ふ
ある時はバッハの如く安らけくたゞ藝術に向はむ心
ある時はティチアン(ティツィアーノ) のごと百年(ももとせ)の豐けきいのち生きなむ心
ある時はクライストの如われとわが生命を燃して果てなむ心
ある時は眼(め)・耳・心みな閉ぢて冬蛇(ふゆへび)のごと眠らむ心
ある時はバルザックの如コーヒーを飮みて猛然と書きたき心
ある時は巣父の如く俗説を聞きてし耳を洗はむ心
ある時は西行がごと家をすて道を求めてさすらはむ心
ある時は年老い耳も聾(し)ひにけるベートーベンを聞きて泣きけり
ある時は心咎めつゝ我の中のイエスを逐ひぬピラトの如く
ある時はアウグスティン(アウグスティヌス)が灼熱の意慾にふれて燒かれむとしき
ある時はパオロ(パウロ) に降(お)りし神の聲我にもがもとひたに祈りき
ある時は安逸の中ゆ仰ぎ見るカントの「善」の嚴(いつ)くしかりし
ある時は整然として澄みとほるスピノザに來て眼(め)をみはりしか
ある時はヴァ*レリイ(ヴァレリー)流に使ひたる悟性の鋭(と)き刃(は)身をきずつけし
ある時はモツァルト(モーツァルト)のごと苦しみゆ明るき藝術(もの)を生まばやと思ふ
ある時は聰明と愛と諦觀をアナトオル・フランス(アナトール・フランス)に學ばんとせし
ある時はスティヴンソン(スティーヴンソン)が美しき夢に分け入り醉ひしれしこと
ある時はドオデェ(ドーデ)と共にプロヴァ*ンスの丘の日向(ひなた)に微睡(まどろ)みにけり
ある時は大雅堂(池大雅)を見て陶然と身も世も忘れ立ちつくしけり
ある時は山賊多きコルシカの山をメリメとへめぐる心地
ある時は繩目解かむともがきゐるプロメテウスと我をあはれむ
ある時はツァラツストラ(ツァラトゥストラ、ザラスシュトラ)と山に行き眼(まなこ)鋭(す)るどの鷲と遊びき
ある時はファウスト博士が教へける「行爲(タート)によらで汝(な)は救はれじ」
遍歴(へめぐ)りていづくにか行くわが魂(たま)ぞはやも三十(みそぢ)に近しといふを



出典:
青空文庫:[http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/43043_17363.html]

なお、Yahoo知恵袋に、中島敦の「悟浄出世」が、「いろいろな師に教えを請いながらも、どの思想にも安住できずに放浪を続ける主人公の悟浄は、この「遍歴」の中島敦とそのまま重なります」という指摘がある。
上記サイトや日本語版wikiでもピロンに関する情報が少ないが、著名なところでは『カラマーゾフの兄弟』(上/第三篇 淫蕩な人たち/八 コニャクを飲みながら)で父親によって言及される。
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by yojisekimoto | 2010-10-26 23:38 | 文学

Pearl Jam Wishlist

Pearl Jam Wishlist



I wish I was a neutron bomb, for once I could go off
I wish I was a sacrifice but somehow still lived on
I wish I was a sentimental ornament you hung on
The Christmas tree, I wish I was the star that went on top
I wish I was the evidence, I wish I was the grounds
For 50 million hands upraised and open toward the sky

I wish I was a sailor with someone who waited for me
I wish I was as fortunate, as fortunate as me
I wish I was a messenger and all the news was good
I wish I was the full moon shining off a Camaro's hood

I wish I was an alien at home behind the sun
I wish I was the souvenir you kept your house key on
I wish I was the pedal brake that you depended on
I wish I was the verb 'to trust' and never let you down

I wish I was a radio song, the one that you turned up
I wish...
I wish...
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by yojisekimoto | 2010-10-26 04:26 | 音楽

Cronenberg’s “A Dangerous Method”

「ザビーナ・シュピールラインはすでにこの考え方(引用者注:「死の欲動」)をうちだしている。その論文は内容も思想も豊富だが、残念ながらわたしは完全には理解できない」(フロイト『快感原則の彼岸』一九二〇 の脚注より)


2011年公開予定のクローネンバーグによるフロイト伝記映画『デンジャラス・メソッド』のスチール写真及び撮影風景。
(近年再評価の声が高い)ザビーナ・シュピールライン(*)をキーラ・ナイトレイが演じるようです。
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http://www.filmshaft.com/very-interestink-more-images-from-a-dangerous-method/

http://eiga.com/news/20100312/3/
以下上記サイトより

デビッド・クローネンバーグ監督とビゴ・モーテンセンが、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」「イースタン・プロミス」以来3度目となるタッグを組むことが分かった。クローネンバーグ監督の新作「The Talking Cure」から当初キャスティングされていたクリストフ・ワルツが降板したため、モーテンセンが代役で出演する。

同作は、クリストファー・ハンプトンの同名戯曲を映画化するもので、精神分析学の創始者ジークムント・フロイトとカール・ユング、そして患者として知り合ったユングと恋に落ち、のちに自身も精神分析家となる美女ザビーナ・シュピールラインの3人の複雑な人間関係を描く。フロイト役をモーテンセン、ユング役をマイケル・ファスベンダー、そしてザビーナ役をキーラ・ナイトレイが演じる。5月中旬のクランクインを予定。


以下、wikiより

ザビーナ・シュピールライン(Sabina Spielrein 1885年 - 1942年)はロシア出身の精神分析家。

ロストフの裕福なユダヤ人の家庭に生まれ育つ。父ニコライは商人、母エヴァは当時のロシアでは珍しい大学卒(歯学部)の女性だった。
ロストフの女子ギムナジウムを経て、1904年8月17日、統合失調症患者としてチューリヒ近郊のブルクヘルツリ精神病院に入院し、ここで医師として働いていたユングと知り合い、恋に落ちる。1905年6月1日に退院した後、チューリヒ大学医学部に入学し、1911年、統合失調症に関する論文を提出して医学部を卒業するまでユングとの関係は続いた。ユングは彼女が学位論文を書くにあたっての助言者だったが、同時に彼自身もザビーナから学問的に多大な影響を受けた。しかし既婚者のユングが、彼の子を産みたいというザビーナの希望を撥ねつけたため、二人の愛は破局を迎えた。同じ1911年、ウィーンでフロイトと会い、ウィーン精神分析学協会に参加。ユングとの恋愛体験に基づく論文『生成の原因としての破壊』は、フロイトのタナトス概念に影響を与えた。
1912年、ロシア系ユダヤ人医師パヴェル・ナウモーヴィチ・シェフテルと結婚し、ベルリンで暮らした。第一次世界大戦中はスイスで暮らしたが、1923年、ソヴィエト政権下のロシアに帰国し、ロシア精神分析学協会に参加すると共に、モスクワにて幼稚園を設立。なるべく早い時期から子供たちを自由人として育てることを旨とした幼稚園であり、スターリンが息子ヴァシリーを偽名で入園させたこともあったが、3年後、幼児たちへの性的虐待という冤罪をかけられたため、閉鎖を余儀なくされた。背後には、精神分析学に対するスターリン政権からの弾圧があった。
1936年、大粛清の最中に夫が病死し、ザビーナと娘たちは1942年に故郷ロストフにて、侵攻したナチの手で殺害された。
2002年、『私の名はザビーナ・シュピールライン』と題するドキュメンタリーがスウェーデンの映画監督エリザベト・マルトンによって作られ、2005年には米国でも封切られた。近年、精神分析学に対する彼女の貢献に関して再評価が進みつつある。



http://www.linkclub.or.jp/~kiri/r29.html
以下上記サイトより
「アルド・カロテヌート『秘密のシンメトリー』について

 1977年、スイスのジュネーヴで、女性精神分析家ザビーナ・シュピールラインの1909年から1912年にかけての「日記」と彼女の「手紙類(ユング宛、フロイト宛書簡を含む)」が偶然発見され、イタリアのユング派精神分析家アルド・カロテヌートが、それらの資料に「秘密のシンメトリー」と題した一文を付して、80年にイタリアで出版した。内容は欧米で反響を呼び、数か国語に翻訳されたという。この日本語版には、他にシュピールラインの生前の論文『生成の原因としての破壊』(1912年『精神分析学・精神病理学年報』)と英語版から訳出されたフロイト派の精神分析家ブルーノ・ベッテルハイムの解説文『ベッテルハイムのコメント』(1983年「ニューヨークレビュー紙」)を加えたものとなっている旨が、あとがきにことわられている。
 おそらく精神分析運動史の研究者でもなければ、その名を知ることもないであろう一女性分析家の半世紀以上も前に残した手紙や日記をまとめた書物が、なぜ欧米でことさら話題になったのかといえば、とりあえずは資料が分析心理学の創始者カール・グスタフ・ユングとザビーナ・シュピールラインとの間に生じた不幸な恋愛事件についての記録(スキャンダル)をあかすものだったからだとはいえよう。また、そうした暴露的興味とは別に、彼女がユングやフロイトに与えた思想的な影響ということに関して、フロイト派とユング派の研究者たちに激しい解釈上の対立を投げかける内容となっていることがあげられるかもしれない(註1)。
(略)
(註1)ユング派のカロテヌートは「シュピールラインはこの論文(「生成の原因としての破壊」1912年)で、フロイトが1920年に『快感原則の彼岸』の中で提出する概念を、ほとんどそっくり先取りしている」と指摘しており、フロイト派のベッテルハイムは、アニマの概念にとどまらず、ユング心理学の多くの基礎概念が「直接または間接的にシュピールラインに負うものである」ことが明白になったという論旨を展開している。解説者が、互いの属する学派の始祖の思想の核心となるような概念の独創性に疑念をはさんで辛辣にやりあっていることの意味や切実さは、私などにはとうてい了解できない。 」

追記:
フロイト関連映画では、(ヒッチコックやダグラス・サークなどの精神分析的映画もいいが)ジョン・ヒューストン監督、モンゴメリー・クリフト主演の伝記映画"Freud: The Secret Passion"(1962)がお勧めなのですが、残念ながら日本語版DVDは出ていないようです。
サルトルの書いたシナリオ第一稿は邦訳が出版されているのですが、、、




追記の追記:

ざっと『秘密のシンメトリー』を読んだ感想としては、一人の女性(の転移)に翻弄された二人の医師というよりも、二人の偉大な思想家の中間点を探った女性という印象だ。ユングの集合無意識とフロイトの破壊衝動の中間点として、シュピールラインは個人的体験と違って種族的体験は自己犠牲的な死を自ら選ぶ場合があることを主張している(395頁)。三角関係に関しては、ユングの手紙が遺族によって公開を拒否されているのでよくわからない。
ブログ冒頭に掲げたフロイトの記述は(ちくま『自我論集』186頁の訳はニュアンスが少し違う)結果的に死の欲動におけるシュピールラインのプライオリティーを認めているが、同時にシュピールライン自身も語るユングのプライオリティー(参照:ユング『変容の象徴』**ちくま学芸文庫下294頁)を隠蔽しているところに複雑さがある(ジャネに対するフロイトの対抗心とも似ている)。

参考:http://www.shosbar.com/works/crit.essays/spielrein.html

**注:
シュピールラインが1912年の論文冒頭で引用したユングの『リビドーの変容と象徴』は、日本語版と少し訳文が違うようだ(内容的には重複するが「二重の母」という章はない)。多分『生命力の発展』(世界大思想全集44所収の方だと思われる)。

「情熱的な欲望にもふたつの面がある。それはすべてを美化するがまた事情によってはすべてを破壊することもある力である。‥」(ちくま学芸文庫『象徴と変容 上』「五 蛾の歌」225頁の訳)

参考:http://nirc.nanzan-u.ac.jp/Hito/watanabem/links/jungbib-b.htm

追記:
日本語版トレーラー


カットされていないバージョン

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by yojisekimoto | 2010-10-24 05:16 | フロイト

単純再生産について

(別ブログの記事「マルクス再生産表式&経済表:再考」からの転載です。)
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/52121991.html

以下、花田清輝「ユートピアの精神」『復興期の精神』(三一書房、全一冊シリーズ、p679)より

(略)ユートピアは、いまでもほろびてはゐない。(略)
 いつたいユートビアが、フライエルのいふやうに「政治的な島」であり、それ自身の空間に存在する完結的な体系であるとするならば、我々の時代におけるユートビアは、経済的には、単純再生産の表式によつて正確に表現されるでもあらう。周知のやうに、単純再生産の正常な進行のためには、生産手段の生産部門(I)における可変資本(V)と剰余価値(m)との和が消費資料の生産部門(II)における不変資本(C)にひとしくなければならず、したがつて、I.1000v+1000m=II.2000c なる表式の成立が、不発の諸事情の下におけるユートピア社会の誕生のためには欠くべからざるものであらう。この単純な表式は、ビランデルロの聖母子像よりも、はるかに我々にたいして切実であり、このやうな非情な数字によつて、その存在の前提條件が示されるならば、ユートピアはかならずしも時代遅れな感じを我々にあたへないですむのではなからうか。いまもなほ我々は、たしかにユートピアの実現をねがつてゐるにちがひない。現代の課題は、資本制社会の枠内において、まづ、いかにしてこの単純再生産の基礎を確立するかにあるのだ。とはいへ、我々のユートピアもまた永山の頂のごときものであり、それが、なんらの陰影もみとめられない極度に精確な表式によつてとらへられるにいたつたことは、かへつて我々の極度の混乱を暗示するものにほかならなかつた。むろん、この種の抽象的な表式は、我々のユートビアにのみ特有のものではなく、あらゆるユートビアにみいださるべきものであり、たとへば、レッセ・フエールによつて基礎づけられたユートビアとしての原始社会や未来社会のばあひにおいても、表式の成立は、それ、どは意識せず準備されてゐたのであつた。いや、過去においてもユートビアのもつ再生産過程が、まつたく束づかれずにゐたわけ.てはなく、すでに「支那の専制政治」にユートビアをみいだしてゐたケネーは、また、「経済表」の作者でもあつた。我々のばあひは、その表が表式にまで精密化されてゐるにすぎない。多かれ、少かれ、いつの時代にも混乱はあつたのだ。


スガ秀美が指摘するように(*)、吉本隆明はこの記述をマルクスのテクストを参照せずに、花田を誤読し、官僚制の証として責め立てた。「重層的決定」といった政治的な用語で、マルクスの分析がうやむやにされていったフランスの場合と同じだ。
ただ、マルクスも経済表では消費部門を1に据えていたのに、再生産表式では生産部門を1に据えている。そして、全体の1/10ほどが交換に廻されるという但し書きを削ってしまっている。こうした自らの理論を純化せんがための現実からの遊離、状況に合わせるための変節があったために後続の者達にこうした不毛な論争が引き継がれたとも考えられる。
環境問題等を考えると、花田は重視していないが「島」という点が重要で、ユートピアに置ける単純再生産は、生命地域主義的に循環及び独立している所に重点があるのだ。その点でケネーの経済表に還るべきかもしれない(自給自足のための技術的方法論や情報は世界市場で交換、流通されるので、マルクスのような世界経済の一元的把握が不毛であるという訳ではないし、CO2排出などへの世界的な対策等にも有効ではあるが)。

ただし、花田の読みは消費部門におけるCに対して生産部門のV(給料)が足りないではないか、といった単純な読み(「資本論第2.3巻を読む」(宮川彰著)など)をとっていない点は特筆すべきだ。


追記:
スガの論考『吉本隆明の時代』97頁によると、吉本は引用冒頭の仮定文を削除し、誤ったテクストにもとずいて「でもあろう」を「であろう」として引用している(講談社で文庫化されている現行流通バージョンはもちろん正しく校正されている)。
その結果は花田はユートピア主義者と断定される。
後年youtubeなどで吉本は、相手が勝手に痛いところをつかれたと思って反論してきたのだといった主旨の発言をしているが、党派的なレッテルばりを吉本が花田に対して行ったことは否定できない。

小林秀雄→吉本→柄谷、といったヘゲモニーはマルクスの座標を規準にしてきた。
その限界が明らかになった今、ユートピアを具体化できる花田の想像力が見直されるべきだ(**)。なお生産表の第二部門に掛け合わせるべき「n」がその想像力を具体化する鍵だ。循環型の社会(単純再生産の社会)は複数個、n個あるべきなのだ。

**
例えば柄谷が『世界史の構造』で復権させた狩猟採集は自給自足と同じく単純再生産である。
職場、生活環境に、複数の単純再生産が必要なのだ。

付録:
以下は、マルクス経済表







***
ちなみに経済表及び再生産表式は、複数の変数を同時に把握するエクセルのようなスプレッドシートと考えていい。
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by yojisekimoto | 2010-10-23 15:45 | マルクス

大冒険

大冒険

Hey 生きてる意味を 君が探しているのなら
Hey わずかな望み そいつを手放しちゃ駄目さ
Hey こいつは罠だ そんなことはわかっているさ
Hey それでもいいさ 君とつながっていたい

Hey Hey Hey これから始まる大冒険の物語はきっと君が主役
Hey Hey Hey これから始まる大冒険を君としたいと僕は一人つぶやく

Hey むなしい気持ち そいつは隠し切れやしない
Hey それでもいいさ 君とつながっていたい

Hey Hey Hey これから始まる大冒険の物語はきっと君が主役
Hey Hey Hey これから始まる大冒険を君としたいと僕は一人つぶやく
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by yojisekimoto | 2010-10-22 17:59 | 歌詞

スピノチストとしてのラカン

スピノザのエチカは物体をシニフィエ、観念をシニフィアンとすると、そのままラカンの欲動図(グラフ)に対応する。

                2b様態
               /\   不可能性と欲動に左右に分裂
              /無限\
        完全性  /    \
 悲しみ______小←/_2a属性__\→大______喜び
    \      /   /\   \      /
     \   悪/___1実体\___\善   /  
      \  /\  知_/\_至福 /\  /  
     憎しみ/ 経験/ \  第三種/認識\愛
       /\  /\/_\/_\/\  /\
    所産的自然\/ 神\__徳__自然(能産的) \
     /  延長\個体 5自由/ 認識/思惟  \ 
  物体/_____身体___\/___精神_____\観念
            \ 4理性  /  
             \    / 記号表現と欲望に左右に分裂
              \努力/
               \/
               欲望   同一化=自我理想と無意識の主体に左右に分裂
              3感情

ラカンの欲動のグラフ:


         何を欲するか?
      /______欲望____
      \            \  
 _不可能性______________欲動_____\   
享楽|                  |   去勢/ 
  |__________________| 欲望
  |   ___/________   |
  \  /   \        \  /  
 _意味作用________\___他者___\ シニフィアン→ 
記号表現\         /   象徴A  / 声            
     \            /  
 _____\__________/______               
     自我\        /他者のイメージ  
        \      /                       
      同一化\    /無意識の主体
     自我理想     
     ←シニフィエ
      ノエマ    ノエシス
       客観     主観
           ☆ 
(ここにスピノザに倣って欲望を置く)
   a0024841_10233066.jpg



参考:http://zankyo.relove.org/text/iminoimi/imi.html
http://yokato41.exblog.jp/11431431/

追記:
「いかなる個人の情動でも、他の個人の情動とはけっして一致しない。その不一致の度合いはちょうど、一方の人間の本質が他の人間の本質と異なるに従って、それだけ大きくなる。」(スピノザ『エチカ』第3部定理57)『人格との関係から見たパラノイア精神病』ラカン、朝日出版社、冒頭より
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by yojisekimoto | 2010-10-22 10:26 | スピノザ

『礼記』「経解篇」五経(六経)の得失:メモ

参考:『四書五経入門』平凡社ライブラリー 196−8頁より

孔子曰く、

意訳:
『詩経』の学習は、人心をやわらげ、情愛を深めさせる効果がある。溫柔敦厚
『書経』は、歴史に通じさせ、知識を豊かにさせる。疏通知遠
(音楽の学習は心を広々とさせ、かつ純真にする。)廣博易良
『易経』は、精神を鎮め、思考を精密にさせる。潔靜精微
礼の教育は、身を引き締め、態度を慎重にさせる。恭儉莊敬
『春秋』は、事件と事件との関係を正確に記述する能力を会得させる。屬辭比事


『詩』の学習が浅薄であると、ただのお人よしになる。その注意が必要。愚
『書』については衒学的なほら吹き学者にならないように注意すること。誣
(音楽の学習は、まちがうと奔放で気ままな性格を作る。)奢
『易』については世俗を軽蔑して非社会的・反社会的にならぬように注意。賊
『礼』については、礼儀作法に拘泥して細事にうるさい人物にならぬように注意。煩
『春秋』については、物事の因果関係について詭弁を用い、常識を攪乱することにならぬように、その注意が必要である。亂


原文:
http://ctext.org/liji/jing-jie/zh?en=on
《經解》

1 經解:
孔子曰:
“入其國,其教可知也。其為人也
:溫柔敦厚,《詩》教也
;疏通知遠,《書》教也
;廣博易良,《樂》教也
;潔靜精微,《易》教也
;恭儉莊敬,《禮》教也
;屬辭比事,《春秋》教也。

故《詩》之失,愚
;《書》之失,誣
;《樂》之失,奢
;《易》之失,賊
;《禮》之失,煩
;《春秋》之失,亂。

Jing Jie:
Confucius said, 'When you enter any state you can know what subjects (its people) have been taught.
If they show themselves men who are mild and gentle, sincere and good, they have been taught from the Book of Poetry.
If they have a wide comprehension (of things), and know what is remote and old, they have been taught from the Book of History.
If they be large-hearted and generous, bland and honest, they have been taught from the Book of Music.
If they be pure and still, refined and subtile, they have been taught from the Yi.
If they be courteous and modest, grave and respectful, they have been taught from the Book of Rites and Ceremonies.
If they suitably adapt their language to the things of which they speak, they have been taught from the Chun Qiu.

Hence the failing that may arise in connexion with the study of the Poems is a stupid simplicity;
that in connexion. with the History is duplicity;
that in connexion with Music is extravagance;
that in connexion with the Yi is the violation (of reason);
that in connexion with the practice of Rites and Ceremonies is fussiness;
and that in connexion with the Chun Qiu is insubordination.


礼記:wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E8%A8%98
26 経解 通論 六芸(六経)の得失について論じたもの。



 _______________________
|           |           |        
|           |           |
|  書経       |    詩経     |       
|           |           |        
|  春秋       |   (楽経)    |        
|           |           |      
|           |           |        
|___________|___________|
|           |     |     |         
|           | 大学  | 中庸  |         
|           |     |     |         
|    易経     |____礼記_____|        
|           |     |     |        
|           | 孟子  | 論語  |        
|           |     |     |       
|___________|_____|_____|

                 /\金
                /天_\
               /\孟子/\  
              /_心\/__\
             /\物 木  性/\
            /__\    /__\   
           /\大学/\理=道\論語/\ 
          /__\/__\/__\/__\
         /\              /\
        /__\            /__\ 
       /\春秋/\   朱子学    /\中庸/\
      /__\/__\        /__\/__\
     /\  火   /\      /\  水   /\
    /__\ 気  /__\    /__\ 気  /__\
   /\易経/\陰 /\書経/\  /\詩経/\陽 /\礼記/\
 土/地_\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\ 
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by yojisekimoto | 2010-10-17 05:01 | 研究