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地域通貨体験ゲーム・シナリオ:再送

以前、別ブログで投稿したものを再送します。
希望者がいれば(スカイプ、お絵描きチャットが必要ですが)遠隔地の方にもノウハウをシェアいたします。
ノウハウを受け取った方は、それぞれの各地域で対面で身近の方にゲームを披露していただきたいです。

ちなみに、
           /\
   _   _  /_ WEBネットワーク
 _|_|_|_|/|_|/_
| |地| |地| |地|  |
|_|_|_|_|_|/|_関心別
  | |/| | / | ネットワーク
 _|_/_|_|/|_|__
| |域| |域/ |域|  |
|_/_|_/_|_|_|_年代別
 /|A|/|B| |C| ネットワーク
/ |_| |_| |_|
\  /
 \/
上記図でいえば、今のコミュニティは多様性が失われていますから、遠隔地からネット(WEB)を通じて方法論をシェアする必要があります。
多様性(様々な関心別、年代別のクラスタを持つ)を外から学ぶ形になりますが、主体はあくまで地域住民です。

以下再送です(固有名も改変していません)。
______________________________

地域通貨の集い&バザールで恒例となっている地域通貨体験(LETS)ゲームのシナリオを以下、御紹介します。本来レインボーリング代表の安部芳裕さんが考案したものですが、独自にアレンジし、非営利を前提に使用させていただいているものです。
/////////////////////////
シナリオ・地域通貨(LETS)体験ゲーム
 用意するもの:ペン(人数分。各自用意してもらえばよい)、付箋(看板の代わり)、おもちゃのお金(100円券×5×人数分)、通帳(各自に罫線を書いてもらってもいい)、画用紙(グラフを書くためだが、あくまでオプション)
(5から10人のグループに分かれる。名札とおもちゃのお金を各自500円分づつ渡す)
これからみなさんに利子のある取引の実例と地域通貨のなかでも通帳式の取引を体験してもらいます。このゲームはここにいる方々が親睦を深めることも目的の一つです。よろしくお願いします。私は銀行役をする【  】です。名札に看板代わりにして、店をもったつもりになって、取り引きしてください。
 ただし、あとで元本500円プラス利子を20パーセントいただきます。
(各自取引する)(2)
 では利子をいただきます。
払えない人は店を没収、つぶれてもらいます。(名札とお金を没収。エーという声が聞こえたら)この椅子取りゲームのようなことは今銀行が商店や中小企業に対して実際に行なっていることです。
                 
 つぎに利子のつかないシステムを紹介します。(リストと通帳を渡す)
リストに売りたいものを書い下さい。実際にできることがいいです。自分に何ができるか考えるいい機会にもなるので。
品目と値段が互いに決まったらサインを通帳に書きあってください。取引が成立後、「アミーゴ(男性の友達へ)」「アミーガ(女性の友達へ)」と言い合って返事してください。
(各自取引する)(1)
 普通の地域通貨ゲームではここで終わるのですが、今回は次に、通帳に記入する手間を半分にする、つまり買う側だけが記入するやりかたを紹介します。先程の例は利息を取らないので誰もつぶれませんが、通帳を各自が管理するのが大変です。会員が50人までの規模でしたら、一人め人に通帳を管理してもらえば簡単です。(一人が手を挙げる、手形を配る)実は先程の例は通帳の情報を各自が管理したうえでさらにコンピューターやFAXで管理者に送らなければなりませんが、次のやり方は情報を送ることを簡単にできるやりかたです。
                                    
 手形に名前(IDとサイン)と値段をサービス内容を書いて、売ってくれた人に渡します。受け取った人は管理する係の人に取引きく市場)が終わったあと渡します。自分の番号の記入された封筒に入れていただけると分かりやすいです。通帳にマイナスの人はマイナス、プラスの人はプラスと係の人が記入します。
(取引後、管理者は半券を回収し、数字とグラフを画用紙に記入)
 一番稼いだ方は?(反応)先程の銀行のように利益を持ち逃げしませんよね。マイナスの人は?
(反応)マイナスの人でも取り立てられることばありません。これは全部合わせるとプラスマイナスゼロで利子はつきませんし、循環型の社会が出来ると言われています。
 ただ、定期的な市場を開くことが管理者には要求されます。
 これは利子を取らないので誰もつぶれません。さきほどおこなった通常の記帳式(LETSと言いす)は各自が通帳を管理しますが、会員が50人までの規模でしたら、操り返しになりますが一人の人に通帳を管理してもらえば簡単です。
 この方式は、シントラルといって、南米エクアドルで自国の通貨がなくなりドルだけこなった状況で、実際に行われているシステムです(3)。ゾクゾクはこれをマネしたものです。カフェスローのノートとホームページで通帳を見ることができるようにしてあります。
 また住んでいるお近くで地域通貨を使えるバザールを開きたい方を応援するシステムでもあります。
 このようなシステムがネックレスの輪のように沢山つながって行くといいですね。
 
参考文献:『地域通貨入門』(北斗出版)(2)(この書にRR代表・安部芳裕さんによる地域通貨体験ゲームの原案がある)、『マネー崩壊』(1)、『ピースローソク』(3)、『スローライフ100のキーワード』(3) 
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by yojisekimoto | 2011-02-28 13:00 | 地域通貨

デカルトの四則演算:メモ

デカルトは『精神指導の規則』後半の第18規則(全21規則)で四則演算の説明をしている(著作集4ほか)。
題名から連想される倫理的な説明ではなく、機械的な説明で、特に最終部分で計算の方法を子供に教えるように説明しているのだ。

例えば、

3足す2は
___ __
 a   b
_____
  ab

と説明される。

3引く2は、
a___
b__


_

と表現される。

3掛ける2は、

 ____
| a
|b

 _____
|_|_|_|
|_|_|_|

と表現される。
割り算はこの逆である。

現在の研究水準でどう評価されるのかわからないが、例えば百升計算よりは優れた説明だし、
水道方式のようにタイルを使うよりも優れているように思える(デカルトの説明だとかけ算の概念が方程式に直結するから)。

デカルトは数論と幾何の両方を重視しており、こうした態度は「我思うゆえに我あり」という命題よりも説得的だ。
スピノザのように「思いつつ、ある」(注)とも言えるが、一目瞭然、百聞は一見に如かず、という言葉であらわされる直観(どちらかといえば数論的というより幾何学的)の優越に理論的根拠があたえられることのモデルのような気がしてすがすがしい。


注)これは、スピノザの『デカルトの哲学原理』のなかの言葉だが、この言葉には、「思惟することに対する思惟の能力は、存在し作用することに対する自然の能力より大ではない」という注釈が付け加わり得るだろう(書簡40)。國分功一郎氏はこの言葉を近著(『スピノザの方法』p211)で精神は自然の力に劣るという意味に解釈しているが、思惟と延長(この場合は自然の能力のような実体ではない)は同時共存し得ると肯定的に解釈してもいいと思う。
四則演算をする際の観念、思惟は、デカルトの図式という延長と、互いに一対一対応をすることから説明でき、これは思惟の無限(というより無限定、無際限)の遡行を直観により能動化する良い例だと思う。

ちなみに百升計算は無際限な遡行と言える(百升計算のような人間の計算は決して真無限ではない。なぜなら人間には寿命があるから無限に数を数えることはできないから)。
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by yojisekimoto | 2011-02-26 00:24 | 数学

シネマ=狂気、シネマ=消尽:メモ

以前、ドルーズのシネマ1に出てくる映画の動画をyoutubeで見つけてきて紹介したことがあるが、そのとき気付いたのはドゥルーズは狂気を裏のテーマにしているということだった。
シネマ=運動ならぬ、シネマ=狂気である。
これはガタリとの共闘以前に、『意味の論理学』でも主題化されていた。ルイスキャロルとアルトーの狂気の差異、ドゥルーズはむろん狂気に耽溺しないでその差異を見極め生産的な仕事につなげていた。

さて、シネマ2の方は何が裏テーマかと言うと、やはり消尽ということになるのではないだろうか?
老人を扱ったデシーカの『ウンベルトD』が冒頭で言及されるのは偶然ではない気がする(ちなみにデシーカやビンセントミネリやクレールなど、カイエ派から無視されがちな作家をドゥルーズはうまく居場所を見つけて評価している。これは思想史でベルグソンやヒュームを再評価した手腕と同じだ)。

すべての可能性を使い果たすことではじめて潜在性に到達する。その潜在性は身体の中にあるが、映画を見てはじめて観客は自らの潜在性に気付く。若い時はそれが狂気となって外に放出されるが、老年になれば消尽という形をとる。

そのベケット論を引用するまでもなく、観客自身がそれをすでに持っている、、、
それは完全性の縮小ではなく、欲望の一種だ。欲望の減退もまた欲望の一種なのだ。
スピノザはそれをコナトゥスと言ったのではなかったろうか?
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by yojisekimoto | 2011-02-25 00:16 | ドゥルーズ

エチカの境界:メモ

スピノザのエチカ全体は2部と3部の間で分かれる。
各部もそれぞれ以下のように分かれる。
1部は定理9から、2は定理13から、3と4は付録から、5は定理21から、それぞれ具体的かつ能動的な契機を持つ。
図解では、△→▽、で表現した。 http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/

興味深いのはそれぞれの境界上の定理を歴史上の哲学者が引用、活用しているということだ(ネット上のテキストには()内にその名前を付記している)。

1:8及び9はゲルー及びドゥルーズがその方向転換に着目している(『無人島2』他)。

 第1部
 定理八 すべての実体は必然的に無限である。    
 定理九 およそ物がより多くの実在性あるいは有をもつに従ってそれだけ多くの属性がその物に帰せられる。

 
2:13(証明及び備考も含む)はネグリが『野生のアノマリー』でエチカの頂点とまで書いている(図解で2部を二つに分けたように、様態の記述が始まる2:6が境界と見ることもできるが内容上の変化は13で起きると見ていい)。

 第2部
 定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。


3章の始め(厳密には3:2備考)にある「(我々は)身体について知らない」というフレーズは、ドゥルーズ経由で浅田彰が引用している(フォーサイス論他)。
3:57はラカンが博論で冒頭に掲げている。
これは厳密には59まである第三章の付録寸前の章ではないが、58、59は付録の導入部と解釈できるので、境界上にあるとも読み取れる。
 
 第3部
 定理五七 各個人の各感情は他の個人の感情と、ちょうど一方の人間の本質が他方の人間の本質と異なるだけ異なっている。
   

5:20(証明及び備考も)はプルードンが『革命と教会における正義』(未邦訳)で引用している。
 
 第5部
 定理二〇 神に対するこの愛はねたみや嫉妬の感情に汚されることができない。むしろより多くの人間が同じ愛の紐帯によって神と結合することを我々が表象するに従って、この愛はそれだけ多くはぐくまれる。


ちなみにゲーテが感動したというのはその前の19、

 第5部
 定理一九 神を愛する者は、神が自分を愛し返すように努めることができない。
       

残念ながら4部は見当たらないが、ニーチェが善悪の彼岸のコンセプトを借りたらしい(別の説もある)、4:68(73まであるが)を挙げてもいいだろう。

 第4部
 定理六八 もし人々が自由なものとして生まれたとしたら、彼らは自由である間は善悪の概念を形成しなかったであろう。

 
ちなみに4:73は、 

 第4部
 定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定 に従って生活する国家においていっそう自由である。   

というものである。
NAM原理の改訂版の冒頭にふさわしいと個人的には思う。


追記:
以下のサイト(転載)では、1、3、4部はそれぞれ、一16三9四38、から主題が変わるとされている。

http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/ethplan.htm
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by yojisekimoto | 2011-02-23 19:13 | スピノザ

パゾリーニ「造花の情景」(『愛と怒り』より)

パゾリーニ詩集が刊行されたが、彼の未完の小説『石油』こそ邦訳が待たれる。
さて、北アフリカ、中東情勢を鑑みると、パゾリーニのある短編映画が思い出される。

http://www.tudou.com/programs/view/_BOnZWlwW2o/
今年は戯曲版『豚小屋』も東京で上演されるようだし、パゾリーニはゴダール以上に注目されるべき存在だ。
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by yojisekimoto | 2011-02-19 02:49 | 映画

複素平面

國分功一郎氏がブログで、『経済学の船出 : 創発の海へ 』(安冨歩著)におけるスピノザとホイヘンスの同時代性という視点からの、スピノザによる非線形科学の先駆け説を紹介していた。
これは非常に重要な指摘で、非線形科学が基礎とする複素平面によってスピノザの幾何学的な無限の説明もわかりやすいものとなる。
誤解を招くかもしれないが、すべての微視的な一点にブラウン運動のような無限の活動が内包しているというイメージである。
國分氏の近著『スピノザの方法』にもこうした説明があったが、ホイヘンスとの同期を紹介していたらもっとわかりやすかったであろう。

ただ、本題はスピノザではなく柄谷行人である。
柄谷は近著で非常に単純な歴史の構図を示した。
そして、これも複素平面だと考えるとわかりやすいのではないかと思うのだ。
最近亡くなったマンデルブローが提唱したフラクタルなどを、技術的に可能にしたこの数学的概念を柄谷は『内省と遡行』以来取り上げていない。
しかし、ここ最近、その必要性が実践的かつ理論的に浮上している。

最近の大澤信亮、佐々木中らの批評は柄谷の図で言えば右上のネーションの拡大、重視を目指しているが、これはアーキテクチャ重視の批評とは反目すると一般には見られる。
しかし、複素平面であると考えればネーションの内部に無限の可能性が図示できるのだ。
つまり、ネーションの位置づけは技術論的な地平で可能なのだ。

そもそもアンダーソンは印刷、通信技術がネーションを生んだと言っているのだから、議論が元に戻ったとも言える。

とにかく柄谷の交換図の可能性はまだまだあるということだ。
実際に『世界史の構造』で行われたのはネーションの部分をさらにフラクタルに細分化したものだと言えると思う。


追記:
949 :考える名無しさん :2011/03/18(金) 18:59:10.75 0
以下、すこし文脈は違うが、情報の即時性の悪い面を指摘した16年前の記
事から。「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」
(InterCommunication No.12 1995 座談会―――浅田彰/大澤真幸/柄谷行人/黒崎政男)より。
大澤――つまり,直接民主主義は実現できないから仕方なしに代議制でやる
んだと言っているときに,民主主義というのはいちばんうまくいくんですよ.
先ほどの話との関係で言えば,直接民主主義ということを言った場合,理論
上は,個々の主体はアイデンティティを確立してちゃんとした意見を持って
いるという前提があるわけです.しかし意見を表明するにも1 分前といまと
では意見が違うというようなことなら,民主主義というのは成り立たなくな
ってしまうわけです.パソコンのネットワークというのは,実際にちょっと
意見が変わった場合に,これをネットワークを通じて伝達したり,集計に反
映させたりすることを,技術的に可能にしてしまった.
柄谷――「朝まで生テレビ」にしても何にしても,TV でディスカッションを
しながら,その内容に関して視聴者からファックスで意見を聞いたり世論調
査をしたりするけれど,それは非常に曖昧かつ流動的で,誰かが強力にしゃ
べると,サーッとそちらに変わったりして,一定しないんですね.
黒崎――だから,直接民主主義というのを,どの時点でやるのか,ニュース
を流す前にやるのか,後にやるのか,それだけで結果が全然違ってくる.
柄谷――自己というものを持つには,一定程度の時間が必要なんですよ.そ
のことは,ヒュームも言っているし,ニーチェも実はそれをひそかに引用し
ていると思う.
つまり,自己というのは一つの政府(ガヴァメント)だ,多数の自己の間で
の代表だ,とその意味で,自己というものがすでに代表制でしょう.そうす
ると,そのような自己から成り立つ政府形態というものを考えるときに,そ
れを直接民主主義でやるというのはおかしいんです.全国民がボタンを押し
て絶えず現在での意見で政策を決めるようになれば,政策の一貫性なんてな
くなるんですよ.


追記:


柄谷は外側に国民/国家/資本のフラクタル構造を見つけようとしているが、

    |
国連  | WHO
____|_____
    |国家|国民
IMF |__|___
    |資本|X
    |  |

内側にこそ見つけるべきなのだ。

    |
国家  | 国民
____|_____
    |籤引|多重所属 
資本  |__|___
    |地域|(長池評議会)
    |通貨| ∞
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by yojisekimoto | 2011-02-18 12:28 | 柄谷行人

Maggie's Farm

Maggie's Farm

I ain’t gonna work on Maggie’s farm no more
No, I ain’t gonna work on Maggie’s farm no more
Well, I wake in the morning
Fold my hands and pray for rain
I got a head full of ideas
That are drivin’ me insane
It’s a shame the way she makes me scrub the floor
I ain’t gonna work on Maggie’s farm no more

I ain’t gonna work for Maggie’s brother no more
No, I ain’t gonna work for Maggie’s brother no more
Well, he hands you a nickel
He hands you a dime
He asks you with a grin
If you’re havin’ a good time
Then he fines you every time you slam the door
I ain’t gonna work for Maggie’s brother no more

I ain’t gonna work for Maggie’s pa no more
No, I ain’t gonna work for Maggie’s pa no more
Well, he puts his cigar
Out in your face just for kicks
His bedroom window
It is made out of bricks
The National Guard stands around his door
Ah, I ain’t gonna work for Maggie’s pa no more

I ain’t gonna work for Maggie’s ma no more
No, I ain’t gonna work for Maggie’s ma no more
Well, she talks to all the servants
About man and God and law
Everybody says
She’s the brains behind pa
She’s sixty-eight, but she says she’s twenty-four
I ain’t gonna work for Maggie’s ma no more

I ain’t gonna work on Maggie’s farm no more
No, I ain’t gonna work on Maggie’s farm no more
Well, I try my best
To be just like I am
But everybody wants you
To be just like them
They sing while you slave and I just get bored
I ain’t gonna work on Maggie’s farm no more
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by yojisekimoto | 2011-02-18 00:40 | ディラン

カージオイド

カージオイドはハート形で知られている。
素数の性質を探ったリーマン予想にも関係するらしい。

素数は円から脱出する多角形をイメージするとわかりやすいが(素数ゼミのように)、相互に円を描いているということだろう。そのブラウン運動は複素平面上で表現可能だ。

追記:
前掲の動画は充分興味深いものの、ノーマン・マクラレンだったらもっとすごい動画を作っただろう。
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by yojisekimoto | 2011-02-15 19:08 | 数学

スピノザ、ヒューム、フレーゲ

フレーゲは自らの個数言明の理論に確証をもたらすものとして、(半ば批判的にではあるが)スピノザを引用している(邦訳『算術の基礎』49節、109頁。むろんフレーゲはスピノザとは逆に表象から概念が始まっても構わないと考えていて、この時点では実念論的ではない)。

「我々は物を共通の類に還元した後でのみその数の概念の下に考えることができる」(邦訳『スピノザ往復書簡集』書簡50、238頁)

スピノザが硬貨を例に挙げていることが重要なのだがここでは割愛する。
さらに、フレーゲは63節で数の一意的対応の根拠にヒュームを持ち出している(参考:旧投稿)。

ここにヒューム、スピノザは経験論、決定論の区別なく、数学の基礎に位置づけられる。
なお、フレーゲの試みはラッセル、より本質的にはゲーデルに破壊されたとはいえ、ゲーデル数と自然数の対応など、ゲーデルもフレーゲの理論を借り、突き詰めることでフレーゲ理論に反駁したという点が重要である。

今日まで、スピノザ、ヒュームが、カント(フレーゲは前掲書で「カントの改善」を試みたと言っている)によって神秘主義、懐疑主義者とされてしまった弊害は大きい(なおカントも『遺稿』ではスピノザの土俵に立ち返っているが)。

追記:
ネグリ、ハートは『野生のアノマリー』(邦訳297頁)『コモンウェルス』(未邦訳)で上記のスピノザの言説を引用し、政治学的に展開しているようである。
『野生のアノマリー』はアルチュセールの影響を受け、あまりに政治的だったが(あまりに政治的なので、スピノザが硬貨を例に挙げたことの経済学的な重要さ〜プルードンの相互主義に通じる〜が理解できていないようだが)、それでも書誌的な研究はしっかりしていたし、彼らはそれを続けていることになる。
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by yojisekimoto | 2011-02-15 17:54 | スピノザ

ドゥルーズのABC「左翼について」2/2

以前紹介したドゥルーズのyoutube動画が消されていたので再投稿いたします。

「左翼政権なるものは存在しない」という発言は動画の3分頃。
「(日本人が住所を書く時のように)遠くの知覚から始める」という発言もその後にある。

自己統治の問題を知覚の問題に接続するには? 
自己統治を他者へのシンパシーと両立させるには? 
具体的な判例を重視するには?

プルードンなら貸方借方という複式簿記を自己の内面に持つことが、生成変化を可能にすると言うだろう。
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by yojisekimoto | 2011-02-13 20:12 | ドゥルーズ