ライルが『心の概念』において、心身二元論を大学とその建物という比喩でカテゴリーミステイクとして批判したのは、明らかにホワイトヘッドからの剽窃だ。邦訳著作集第4巻『自然という概念』所収の「自然と思考」は、ライルのようにデカルトを悪者にしているだけではなく、経験といったものの質を如何に拾い上げるかという根本的な議論をしている。これを読んではじめてドゥルーズのホワイトヘッド賞讃の理由が分かったような気がした。
さて、クワイン等も直接および間接的にホワイトヘッドから影響を受けているが、その可能性を厳密性と引き換えに閉ざしてしまった観がある。クワインの「自然化された認識論」も、認識論を自然科学へ手渡してしまっただけで、ホワイトヘッドの意図とは結果的に真逆になってしまった(ドゥルーズは何よりも出来事の哲学としてホワイトヘッドを賞讃したのだが、それは論理学の中に閉じ込めることは出来ない種類のものなのだ)。
先に言及した後続の哲学者による剽窃の例は、アドルノとジジェクの関係にも見られる。
むろんヘーゲリアンとして開き直るジジェクとアドルノでは立場は少し違う。アドルノの理論の縮小再生産はアドルノ自身にも原因がある。結局アドルノは本格的なヘーゲル論を書くべきだったと思う。それを書かなかったからジジェクのようなヘーゲリアンがレトリックとして気軽にヘーゲルを使うようになるのだ。
スピノザからニーチェへの影響、ライプニッツから論理哲学への影響等も更なる例としてあげられ得るが、哲学史には自明となってしまたまま隠蔽された剽窃と言うべき事件、出来事が我々の想像以上に多いような気がする。