スピノザは実在論者か、観念論者か?

 「真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。」(『エチカ』第一部公理六

最近出版された河井徳治『スピノザ「エチカ」』36頁にはスピノザは実在論者とある。簡単に言えば観念の世界を反省するだけではなく、実際の世界との合一をスピノザは求めたというのだ(「観念は無言の絵ではない」二定理43備考,49備考)。
しかし、岩波文庫の注釈には(上282頁)スピノザはノミナリスト(唯名論者、あるいは観念論者*)だとある。

これは普遍論争自体の解釈のあり方の問題もあって難しい(倫理的な問題も浮上する**)。

個人的には河井氏の解釈に同意するが、潮流としてのノミナリスとの一群にスピノザがいた(トマス・アクィナス批判といった意味で)という解釈も出来るとは思う。


注:これはカントの観念論を意図したであろう河野氏の文脈に寄り添った場合の説明で、普遍論争の文脈だと観念論=実在論であろう。普遍的な観念が実在する、というのが実在論(実念論)だからだ。

**
倫理(エチカは住処を意味するエートスのラテン語)には(論理学用語で言えば)一対一対応とともに集合論的な場を前提とする。
ライプニッツ、フレーゲの論理学のラインには倫理が内包されていない。
スピノザ、ヴィトゲンシュタインには、その論理に倫理が内包されている。
フレーゲは素朴な集合論を忌避したから、逆に晩年にラッセルの集合論のパラドックスの逆優を受けた。
ライプニッツには集合論はあるが、その倫理の回避は、可能世界論の形をとる。
無限集合を導入することで倫理を回避するのだ。
スピノザ、ヴィトゲンシュタインはむろんタイプは違う。
スピノザの倫理は、観念が物体と対応すべきと言う実在論的なものだ。それは言語学的ではない。
スピノザの場合、可能世界のない世界が可能世界論的に一つある、と考えることから始まる。
そこに潜在性=本性、を問うことの出発点がある。

付録:
参考:エチカ全体図

              1実体 実体1d3 知1d4.2:49 神1d6 対象1a6
               /\      無限1:8 思惟1:21.2:1.2:7
             形/無限\想    能産的1:29 所産的自然1:29
            相/_無限定_\念         
    _______的/_2a属性__\的_______ 2a物体2d1 観念2d3
    \知 抑制  /  小/\大(完全性)  至福/  属性2:1 無限定2d5  完全性2d6
     \   悪/___2b様態\___\善   /   延長1:14.2:2.2:7 
      \  /\悲しみ_/\_喜び /\  /    2b様態1d5.2:6 精神2:11
       \/ 憎しみ \努力意 愛/  \/(共通概念) 認識2:40 身体2:13.
       /\対象/物体_衝動志観念\認識=第一・二種       第三種認識2:40
      /所産的自然_身体欲望精神知性\/  \     感情3d3 能動3d2 受動3d2
     /  延長\ 受動3感情/能動 /思惟  \能産的   努力3:7.4:22  
   神/______\___意識___第三種認識__\自然   欲望3:9 悲しみ3:11喜び3:11 
            \ 4理性  /             愛3:30 憎しみ3:30.f7
             \    /    理性2:40、4:18備 善3:39.4d1 悪4d2
            偶然\_徳_/必然   徳4d8 自然4:4 抑制4:7 至福4f4
            可能 \/ 
              5自由      自由 2:49.5:36
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by yojisekimoto | 2011-06-27 21:16 | スピノザ


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