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モナドロジー46~90


46. しかし、一部の人びとのように、永遠真理は神に依存しているから恣意的なものであり神の意志に拠るものである、などと想像してはならない。デカルト、そして彼のあとポワレ氏がそう考えたらしい。けれどもこのことは偶然的真理についてしか当てはまらない。偶然的真理の原理は、適合すなわち最善なものの選択(la convenance ou le choix du meilleur)ということである。ところが、必然的真理は、もっぱら神の悟性(entendement)に依存しておりその内的対象となっているのである。


47.  そこで、神だけが原初的な「一」つまり本源的な単純実体であり(Dieu seul est l'unité primitive ou la substance simple originaire)、創造されたモナド、すなわち派生的なモナドは、すべてその生産物なのである。これらのモナドは、いわば神(la Divinité) の絶え間ない閃光放射(des fulgurations continuelles)によって刻々に産み出されてくるが、本性上(essentiel )限定されざるをえない被造物の受容性(la réceptivité)のために制限をうけている。

48.  神の中には、すべてのものの源泉である力(la puissance)と、さまざまな観念の細部を含んでいる認識と、さらに最善という原理にしたがって変化あるいは生産を生じさせる意志とがある。この三つは、創造されたモナドの中にある主体すなわち基礎と、表象の能力と、欲求の能力とに対応している。しかし、神においてはこうした属性は絶対的に無限つまり完全である。そして創造されたモナドつまりエンテレケイア(ヘルモウス・バルバルスの訳語ではペルフェクティハビエス)においては、その完全性の度合に応じてそれらの属性の模倣があるに過ぎない。

49.  被造物は、完全性をもっているかぎり外部に能動的に作用をおよぼすといわれ、不完全であるかぎり他の被造物から受動的に作用をこうむるといわれる。そこで、モナドが判明な表象をもつかぎりそれに能動作用を認め、混雑した表象をもつかぎり受動作用を認めるのである。

50.  ある被造物の中に、他の被造物に起こることの理由をア・プリオリに示すのに役立つものがあれば、その被造物は他の被造物よりも完全である。一方が他方に作用を及ぼすというのは、こうした意味なのである。

51.  しかし、単純実体の場合、あるモナドは他のモナドに観念的な影響をおよぼすだけであり、これも神の仲介によらなくては効果をもつことはできない。そのときモナドにできることは、神のもっている諸観念の中で、神が万物の始め以来他のモナドを規制していくに際して自分のことも考慮してほしい、と正当な要求をすることだけである。なぜなら、創造されたモナドは他のモナドの内部に物理的な影響をおよぼすことはできないので、一方が他方と依存関係をもつためには、この方法によるしかないからである。

52. そういうわけで、被造物のあいだの能動作用と受動作用とは相互的である。つまり、神が二つの単純実体を比較したとき、それぞれの中に一方を他方に適応させざるをえない理由を見出すのである。そこで、ある点では能動的なものも、別の観点から見ると受動的である。あるものにおいて判明に知られるものが、他のものの中で起こることの理由を示すのに役立っているかぎり、それは能動的であり、あるものにおいて起こることの理由が他のものの中で判明に知られているものの中にあるかぎり、それは受動的である。

53. ところで、神の持つ観念の中には無限に多くの可能的宇宙(univers possibles)があり、かつ宇宙はただ一つしか存在できないのだから、神に他の宇宙でなくこの宇宙を決定させる、神の選択の十分な理由があったはずだ。

54. そしてこの理由は適合(convenance)ということの中に、あるいはこれらの世界が含んでいる完全性の度合の中にしか見出せない。可能的なものはそれぞれが内包している完全性に応じて現実存在を要求する権利(droit de prétendre à l'existence)を持っているからだ。


55. これが、最善なるもの(le meilleur)の現実存在の原因であって、神はその知恵によって最善なるものを知り、その善意によってこれを選び、その力によってこれを生む。


56.  ところで、すべての被造物がそれぞれの被造物と、またそれぞれが他の被造物との間に持つこの連結(liaison)あるいは適応(accommodement)によって、どの単純実体も他のすべての実体を表出するさまざまな関係をもち、したがって宇宙を映す永遠の生きた鏡なのである。


57.  同じ都市でも、異なった方角から眺めるとまったく別の都市に見え、観点(=パースペクティブ)によって多様であるようだが、それと同様に、単純実体は無限にあるので、その数だけの異なった宇宙が存在することになる。ただしそれらは、それぞれのモナドの異なった観点から見た唯一の宇宙のさまざまな眺望に他ならない。


58.  そしてこれが、可能な限り多くの多様性を、しかもできる限り偉大な(最大の)秩序とともに得る方法なのである。つまり、できる限り多くの完全性を得る方法なのである。


59.  それゆえ、神の偉大さをそれにふさわしい仕方で称揚するものは、この仮説(あえて言うがすでに証明済みである)以外にない。このことはベール氏も認めたのだが、その辞典のロラリウスの項においては、私が神に、あまりに多くを、可能以上のことを託そうとしていると言わんばかりの異議が見られる。しかし、この普遍的な調和(cette harmonie universelle)、すべての実体が、他のすべての実体を自分との関係にしたがって厳密に表現するようにしむける普遍的な調和が、なぜ不可能なのかというどんな理由も、ベール氏は挙げることはできなかったのである。である 


60. しかし私が述べてきたことから、なぜそれぞれの事態が他ではありえないかの、アプリオリなそれぞれの理由がわかる。なぜなら神は全体を決定しつつ(enréglant le tout)、各部分、特に各モナドを考慮しているからであり、モナドの本性は表現的(représentative)なので、何ものもそれを制限して事物の一部分しか表現しないようにはできないからである。ただし、この表現は宇宙全体の細部では混雑している他なく、判明なのは事物のごく一部分、すなわち各モナドとの関係で、最も近いもの、あるいは最も大きいものにおいてでしかありえない。さもないと各モナドは神的なもの(une divinité)になってしまうだろう。モナドが制限を受けるのは、その対象においてではなく、対象の認識の変容(la modification de la connaissance de l'objet) においてである。モナドはすべて混雑したかたちで無限へ向かい、全体へ向かうが、それらは制限されており、表象(perceptions)の判明さの度合によって区別されている。


61.  そしてこの点において、複合体は単純体と一致している(symboliser)。というのも、すべてが充実している(tout est plein)ので、あらゆる物質(質料 matière)は結びつき合っているし、充実体(le plein)の中で、すべての運動はへだたった物体(les corps)に、距離に応じて何らかの効果を及ぼすからである。そこでどの物体もそれに接触しているものから影響を受け、そのものに起こるすべてを何らかの仕方で感知するばかりでなく、自分に直接接触している物体を介して、この物体に接触している別の物体を感知するのである。その結果、このような交感(communication)はどんな遠いところにも及んで行くことになる。そこで、どの物体も宇宙の中で起こることをすべて感知するから、何でも見える人がいれば、どの物体の中にもあらゆる所でいま起こっていることだけではなく、いままでに起こったことやこれから起こるであろうことさえ読み取ることができるだろう。時間的、空間的に遠く離れているものを、現在の中に見出すことによって。「スベテガ共ニ呼吸シテイル」とヒポクラテスは言った。しかし、魂が自分自身のうちに読み取ることができるのは、そこに判明に表現されているものだけである。魂は自分の襞( replis)を一挙にすっかり開いてみることはできない。その襞は無限に及んでいるからである。



62. そこで、創造されたモナドはいずれも宇宙全体を表現しているが、そのモナドに特別に付与されていて(lui est affecté particulièrement)、そのモナドを自分のエンテレケイア(現勢化力 entéléchie)にしている物体(身体 corps)をより判明に表象する。充実体(le plein)の中ではすべての物質(質料 matière)が結び合っているから、この物体(身体)は宇宙全体を表現するが、魂もまた特別の仕方で自分に属している(lui appartient d'une manière particulière)物体(身体)を表現することによって、宇宙全体を表現するのである


63. あるモナドに属していて、そのモナドを自分のエンテレケイアあるいは魂としている物体は、エンテレケイアと一緒になって生物と名づけ得るものを構成し、魂と一緒になって動物と名づけ得るものを構成する。ところで、この生物あるいは動物の身体はいつも有機的(organique)である。どのモナドも自分の様態で(à sa mode)宇宙を映す鏡であり、宇宙は完全な秩序において統制されている(étant réglé dans un ordre parfait)から、それを表現するもの(le représentant)の中にも、つまり魂のもろもろの表象(les perceptions de l'âme)の中にも、したがってそれによって宇宙が魂に表現される身体の中にも(dans le corps, suivant lequel l'univers y est représenté)、一つの秩序(un ordre)があるはずである。


64. だから、生物の有機的な身体は、いずれもある種の神的な機械あるいは自然的な自動機械なのであって、どんな人工的な自動機械よりも無限にすぐれている。人間の技術によって作られた機械は、そのそれぞれの部分までは機械になっていない。たとえば真鍮の歯車の場合、その部分とか断片とかはもうわれわれには人工的なものとは見えず、その歯車の本来の用途から考えてもはや機械らしいところは何も示していない。ところが自然の機械つまり生物の身体は、それを無限に分割していってどんなに小さい部分になっても、やはり機械になっている。これが自然と技術、つまり神のわざと人間のわざとの違いである。


65.そして自然の創作者は、この神的な、限りなく驚嘆すべき(merveilleux)わざ(artifice)をふるうことができた。なぜなら、物質のどの部分も、昔の人が認めたように無限に分割が可能であるばかりでなく、各部分は実際に(actuellement)さらに多くの部分へと限りなく細分されていて(sous-divisée)、その部分のどれもが固有の運動をしているからである。さもなければ、物質の各部分(chaque portion de la matière)が宇宙を表出することは不可能であろう。

66. そこで、物質のどんな小さい部分にも、被造物の、生物の、動物の、エンテレケイアの、魂の世界が認められる。


67. 物質のどの部分も植物に満ちた庭とか、魚でいっぱいの池のようなものと考えることができる。ただし、その植物のどの小枝も、動物のどの肢も、その体液のどの一滴も、やはり同じような庭であり池なのである。


68.  そして、庭の植物のあいだにある地面や空気、池の魚のあいだにある水は、植物や魚ではないけれども、じつはやはり植物や魚を含んでいる。ただ、それらがあまりに微細なので、ほとんどの場合われわれには見えない。


69. そこで宇宙の中には荒れ果てたところや不毛なところ、死せるところはまったくなく、混沌も混雑もない。ただそういう見かけがあるだけである。少し離れて池を見ると、池の魚そのものをはっきり見分けることはできず、魚の混雑した運動、いわばそれらのうごめきが見える、というようなものだ。

70.  そこで、どの生物の身体もそれを支配するエンテレケイア(une entéléchie dominante=現勢化力としてのモナド)をもち、動物ではそれが魂であることがわかる。ただこの生物のどの肢にも他の生物、植物、動物が満ちていて、そのそれぞれがまた、それを支配するエンテレケイアとか魂(son entéléchie ou son âme dominante)をもっている。


71.  しかし、ある人たちのように私の考えを誤解して、どの魂にもそれに固有な、つまりそれに割りあてられている物質のかたまりや部分があり、したがっていつも自分の役に立つように定められて他の下等な生物をもっている、などと考えてはいけない。すべての物体は川のように永遠の流動状態にあり、その部分はたえずそこに入ったり出たりしているからである。


72. というわけで魂は、自分の体をとりかえるのに、かならず徐々に、まただんだんにおこなうから、その全器官をいっぺんに失うことはけっしてない。動物の場合、変態はめずらしくないが、生まれかわり(メタンプシコーズ)(=死後にも魂は存続し、ふたたび別の身体にはいるという説)、つまり魂の転生は断じてない。また、体とまったく[切りはなされた魂]とか、体のない精霊などというものはない。ただ神だけが、肉体から完全に解きはなたれている。


73. だからまた、完全な新生もないわけだし、厳密な意味での完全な死、つまり魂が体から離れるところに成りたっている死もないのである。ふつう発生と呼んでいるのは、「外へひろがること」であり、増大のことであるにすぎない。死といっているものも、「内へすぼまること」であり、減少のことであるにすぎない。


74.  形相、エンテレケイア、あるいは魂の起源について、哲学者たちは おおいに困惑してきた。しかし今では植物、昆虫、動物について精密な 研究がなされて、自然の有機体は混沌や腐敗から生み出されるものでは けっしてなく、いつも種子から、つまり何らかの予先形成(préformation) を必ず含んでいる種子から生み出される、ということが知られている。 そこで種子の中には、受精以前にすでに有機体ばかりでなく、その体内にある 魂、一言でいえば動物それ自身が存していて、受精作用はこの動物が別種の 動物になるために大きな変形を受けるための準備にすぎない、と考えられている。 発生以外にも、似たようなことはウジがハエになったり、毛虫が蝶になったり するときに見られる。


75.  動物のうちには、受精によってさらに大きい動物の段階にまで達するものがあり、それらを精子的動物(spermatiques)と呼ぶこともできる。しかしそれらのうちで、もとと同じ種にとどまっているもの、つまりその大半は、大きい動物と同じように生まれ、殖え、滅びてしまい、もっと大きい舞台に移ってゆくのは、選ばれた少数のものにすぎない。

76. しかし、これは真理の反面にすぎない。私の考えによると、もし動物が自然的に存在し始めるということが決してないなら、自然的に滅びることもなく、どのような発生もないばかりでなく、完全な破壊も、厳密な意味での死もありえない。この推論はアポステリオリになされ、経験から導き出されているが、これは初めにアプリオリに演繹された私の原理と完全に一致する。


77. そこで魂、滅びることのない宇宙の鏡ばかりでなく、動物そのものでさえ不滅であることになる。もっともその(身体である)機械は、しばしば部分的に滅びたり、有機的な殻を脱いだり着けたりすることはあるけれども。



78. これらの原理によって、私は魂と有機的な身体との結合(l'union)あるいは一致(la conformité )について、自然的に説明する方法を得たのである。魂はみずからの法則(lois)にしたがい、身体もまたみずからの法則にしたがいつつ、あらゆる実体のあいだに存する予定調和(l'harmonie préétablie )のおかげで両者は一致する(se rencontrer)。 なぜならすべての実体は、同じ一つの宇宙の表現なのだがら。

79. 魂は目的原因の法則(les lois des causes finales )にしたがい、欲求や目的や手段によってふるまう。物体(身体)は作用原因(実現原因)の法則あるいは運動の法則(les lois des causes efficientes ou des mouvements)にしたがってふるまう。そしてこの二つの世界(règne)、 作用原因(実現原因)のそれと目的原因のそれとは互いに調和している。


80. デカルトは、物質の中にはつねに同一量の力があることから、魂が物体に力をあたえることはできないことを認めた。けれども魂は物体の方向を変えることができると信じていた。しかしこれは、彼の時代には、物質において方向も全体としては同一に保存されるという自然法則がまだ知られていなかったからである。もしデカルトがこれに気づいていたら、私の予定調和説をとることになったであろう。




81. この説によると、物体(身体)は魂がないかのように(ありえないことだが)ふるまい、魂は物体(身体)がないかのようにふるまう。しかも両者は、互いに影響を与え合っているかのようにふるまうのである。



82. 精神あるいは理性的な魂についていえば、すでに述べたように、動物も魂も世界とともにしか始まらず、世界とともにしか終わらないということは、すべての生物や動物について結局同じであることを私は認めるけれども、理性的動物にはやはり特別なところがあって、それが持っている微小な精子的動物は、精子的動物である限りただ普通の魂あるいは感覚的な魂しかもっていないが、そのうちのいわば選ばれたものが、実際の受精によって人間の本性に到達すると、その感覚的な魂は高められて理性の段階、つまり精神という特権に達するのである。


83. 普通の魂と精神とのあいだの他のさまざまな差異(その一部についてはすでに指摘した)の中には、さらに次のようなものがある。一般に魂は、被造物の宇宙の生きた鏡あるいはその像(images  河野訳「姿」、工作舎訳「似姿」)であるが、精神はその上に、神そのもの(la Divinité même)、自然の創造者そのものの像でもある。そこで宇宙の大系を知ることも、 自分のもっている建築術の片鱗(échantillons 見本、サンプル) によって宇宙のいくらかを真似ることもできるから、どの精神も自分の 領域における小さな神(une petite divinité dans son département) のようなものである。



84. このことによって、精神は神とのある種の交際関係(société)に入ることができるとともに、神が精神に対する関係は、発明家の機械に対する関係(神が精神以外の被造物に対する関係がそうであるのと同じく)にとどまらず、君主と臣下、むしろ父と子の関係なのである。


85.  そこから容易に、すべての精神の集合は、神の国(la cité de Dieu)、すなわち最も完全な君主のもとにある、できる限り完全な国家をつくっていなければならないという結論が生じる。


86.  この神の国、この真に普遍的な王国こそ、自然の世界の中にある道徳的世界であり、神の作品のうちで最も崇高、最も神的なものであって、神の栄光が真に存するところである。もし神の偉大さと善意とが精神によって認められ賞賛されなければ、神の栄光はありえないからである。さらに、神の知恵や神の力はいたるところにあらわれているが、神が本当に善意をもっているのは、この神の国に対してである。


87.  さきにわれわれは、二つの自然界、つまり作用原因(実現原因)の世界と目的原因の世界のあいだに完全な調和があることを確認したが、ここではまた、自然の物理的な世界と恩寵の道徳的な世界、つまり宇宙という機械の建築家として考えられた神と、精神からなる神の国の君主として考えられた神とのあいだに、もう一つの調和があることを認めなければならない。



88.  この調和によって、事物はまさに自然の道を経て恩寵にまで導かれる。たとえば、この地球は精神に対する統治がそれを要求するたびに、あるものを罰し、あるものを賞するために、自然的な道によって破壊されたり修復されたりすることになる。



89.  さらに次のように言える。建築家としての神は、すべての点で立法者としての神を満足させる。そこで、罪は自然の秩序によって、さらには事物の機械的な構造によって、自分の罰を担わなければならない。同じように、美しい行ないも、身体に関わる機械的な道によって、その報償を得るのである。もっともこれは、いつでもすぐに起こるとは限らないし、起こるべきであるとも言えない。

90. 最後に、この完全な統治のもとでは報償のない善行はなく、罰のない悪行もない。善い人々にとって、すべてが幸福な結果をもたらすに違いない。善い人々とは、この偉大な国にあって不満をいだくことなく、自分の義務を果したあとは神の摂理(Providence)を信頼し、すべての善の作者をこよなく愛しかつ模倣し、自分の愛する者の幸福を見て喜ぶという真の純粋な愛の本性にしたがって、神のもつさまざまの完全性を眺めて楽しんでいる(se plaisant dans la considération de ses perfections)人々のことである。こうしたところから、賢明で有徳な人々は、推測により知られる神の先行意志にかなうと思われることをすべて実行するとともに、他方では神の秘められた、帰結的かつ決定的な意志によって実際に起こることに満足する。彼らはこのとき次のように考えている。われわれに宇宙の秩序が十分に理解できれば、その秩序はもっとも賢明な人たちが抱くいかなる願いより優れていて、それを現在の状態よりもっとよくすることはできない、ということがわかるだろう、と。このことは全体について一般的に言われるだけではない。われわれが万物の作者に対して、建築家つまりわれわれの存在の作用原因(実現原因)としてだけでなく、われわれの主君つまりわれわれの意志の全目標たるべき目的原因、それのみが人間の幸福をもたらすことができる目的原因として、しかるべく結びついているときには、われわれ自身について個別的にもそう言えるのである。
by yojisekimoto | 2013-10-15 09:36 | ライプニッツ


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