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モナドロジー図解1~45

 モナドロジー図解
           1/∞
論 反 精 魂 表 モ
理 省 神   象 ナ ←
          ド
↓   〜調和
          神
    身 動 欲 の
神   体 物 求 国
∞/1        

(エチカ)+[モナドロジー]:
              1実体  
       []     /\    [論理] 
              (無限) 
             /_無限定_\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 (完全性)至福/ 
     \ ()/___2b様態\____\() /  
      \(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/ 
       \/ 憎しみ \努力/()  \/ 
       /\対象/ /[調和]\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\
     / 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的
   神/______\___\/_第三種認識____\自然 
       [動物] \ 4理性  /  []  
       [欲求]  \[基礎]/  [表象] 
              \_徳_/ 
       [神の国]   \/   [モナド
              5自由 

モナド 20
表象 1428
完全性1841485290
欲求 15194879
魂  196183
精神 29
反省 30
論理 3146
無限 3641
神  3860
受動、
能動 4952
襞  61
身体 62
宇宙 62
有機的637178
動物 14216675
調和 7886
善悪 90
愛  90
神の国8590 

モナドロジー  ライプニッツ (インデックス〜とエチカリンク:::::::::
http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/leibniz/monadologie.html
(72~83/90 http://zinbun.denpark.net/1018208029.html)

1.  これから論じられるモナドとは、複合的なものに含まれている単純実体に他ならない。単純とは、部分がないということである。

2. 複合的なものがあるのだから、単純実体がなくてはならない。複合的なものは単純なものの集り、つまり集合体に他ならないからである。

3.  ところで、部分がないところには、広がりも、形も、分割の可能性もあり得ない。それで、こうしたモナドは自然の真のアトムであり、一言でいえば諸事物の要素である。

4. また、モナドには分解の惧れはないし、単純な実体が自然的に消滅しうるなどとは、とても考えられない。  

5.  おなじ理由により、単純な実体が自然的に生じ得るとは、とても考えられない。単純な実体は、複合することによってつくることはできないからである。  


6.  そこで、モナドは生ずるにせよ滅びるにせよ、一挙になされるしかない、と言える。つまり、創造によってのみ生じ、絶滅によってのみ滅びるのである。ところが、複合されたものは、一部分ずつ生じ、あるいは滅びる。  

7.  さらに、どのようにしてモナドがその内部を何か他の被造物により変質され、変化されることがありうるか、ということも説明しようとしても不可能である。モナドには何も移し入れることは出来ないし、モナドの中で内的な運動を引き起こしたり、それを導いたり、増大あるいは減少させたりすることができる、などとは考えられないからである。そういうことが可能なのは部分同士の間で変化がある複合的なものにおいてである。モナドには、そこを通って何かが出たり入ったりできるような窓はない。かつてスコラ哲学者が説いた感性的形象のように、偶有性が実体から外へ離れていったり、さまよい出したりする、というようなことは出来ない。こうして、実体も偶有性も、外からモナドの中に入ることはできないのである。  

8.  しかし、モナドは何らかの性質を持っているに違いない。さもないと、モナドは存在するものとはいえなくなる。それに、もし、単純実体がその諸性質〔qualités〕によってそれぞれ異なっているのでなければ、事物のうちにどんな変化が起こっても、それに気づくことが出来ないであろう。なぜなら、複合的なものの中に起こることは、単純な要素からしかこないからである。そして、もし、モナドが性質をもたないとすると、そもそもモナドは量の点については差異がないのだから、お互いに区別がつかなくなる。したがって、充実〔した空間〕を仮定すると、運動においてはどの位置も、つねに今までもっていたのと等しいものしか受け取らないことになるから、物の状態は他の状態から識別できなくなってしまう。  


9.  おのおののモナドは他のすべてのモナドと異なっていなければならない。というのは、自然においては、二つの存在するものがお互いにまったく同じで、内的〔interne〕差異、すなわち内在的〔intrinsèque〕規定に基づく差異がないということはありえないからである。 


10.  すべての創造された存在するものは変化を受ける。したがって、創造されたモナドもまた変化を受け、しかもその変化はおのおのモナドのなかで連続的〔continuel〕である。これらのことは誰しもが同意しているものと私は考える。  


11.  これまで述べてきたことから、各モナドの自然な諸々の変化は内的な〔interne〕原理に由来する。なぜなら、外的な〔externe〕原因はモナドの内部に影響を及ぼすことはできないからである。


12.  しかしさらに、変化の原理の他に、変化するある細部〔具体的な内容〕があって、これが、いわば単純実体に、特殊化〔細部の特性〕と多様性とを与えているのでなくてはならない。  


13.  この細部は、一、あるいは単純なもののなかに多を含むのでなければならない。なぜなら、あらゆる自然な変化は徐々に行なわれ、あるものは変化し、あるものは変わらないからである。したがって、単純実体に部分はないが、多様な変化する状態〔affections〕や関係が必ずあることになる。  


14. 一、すなわち単純実体において、多を含み、かつ多を再現前している移ろいゆく状態、それがいわゆる表象〔perception〕に他ならない。あとで明らかになるが、表象は統覚〔aperception〕つまり意識とは区別されねばならない。この点、デカルト派の人たちは大きな誤りをおかして、意識されない表象など無いものと考えた。そのために、彼らは精神だけがモナドであって、動物の魂とかその他のエンテレケイアとかは存在しないと思い込み、俗見にしたがって長い失神状態と厳密な意味での死とを混同した。そこで彼らは、完全に分配された魂というスコラ学者の偏見にふたたび陥って、ねじけた心の持ち主に魂の死滅説を固く信じさせることにさえなったのである。


15.  一つの表象から他の表象への変化や推移を引き起こす内的原理のはたらきを、欲求( appétiton )と名づけることができる。もちろん、欲求のはたらき( appétit )が、その目ざす表象の全体に完全に到達できるとは限らない。しかし、いつもその表象から何かを得て、新しい表象に到達するのである。  


16. われわれの意識する思考がどんなに僅少なものであっても、対象の中にある多様性を含んでいることに気づくとき、われわれ自身で単純実体の中にある多を経験するのである。そこで魂が単純実体であることを認める限り、誰でもモナドの中にこうした多があることを認めなくてはならない。この点について、ベール氏が彼の『辞典』の「ロラリウス」の項で述べているような難点に出会うことはなかったはずである。  

17.  それはそうと、言っておかねばならないのは、表象も表象に依存しているものも機械的な理由によっては説明できない、すなわち形と運動からは説明できない、ということである。いま仮に、考えたり感じたり表象をもったりできる仕組みをもった機械があるとしよう。その機械が同じ釣合いを保ちながら大きくなり、風車小屋に入るようにそこにはいれるようになった、と考えてみよう。そこでそう仮定して、その中にはいってみたとき、見えるものといってはいろんな部分がお互いに動かし合っていることだけで、表象を説明するに足りるものは決して見出せないだろう。そこで、表象を求むべきところは単純実体の中であって、複合的なものや機械の中ではない。さらに単純実体の中に見出すことができるのは、それのみすなわち表象とその変化のみである。また、それのみが単純実体の内的作用のすべてなのである。  



18. すべての単純実体、つまり創造されたモナドには、エンテレケイアという名前を与えることもできよう。モナドは自分のうちにある種の完全性をもっている(εχουσι το εντελεζ)からである。モナドには自足性(αυταρκεια)があって、そのためにモナドは自分自身の内的作用の源となり、いわば非物体的自動機械となっているのである。  



19. いま説明したような広い意味での表象と欲求をもつものすべてを、魂と呼ぶことにすると、単純実体すなわち創造されたモナドは、すべて魂と呼ぶことができよう。しかし、知覚〔sentiment〕は単なる表象以上のものであるから、表象だけしかもっていない単純実体には、モナドとかエンテレケイアという一般的な名称で十分である。もっと判明な表象をもちかつ記憶を伴っているモナドだけを、魂と呼ぶことにしたいと思う。  


20. というのは、われわれは何も覚えていない状態、際立った表象をすこしももたない状態をわれわれ自身の中で経験する。たとえば気絶したときとか、夢さえ見ないような深い眠りに入った場合である。こんな状態のときには、魂と単なるモナドとは目立つほどの違いはない。しかしこの状態は長く続かず、魂はそれから抜け出してくるので、魂は単なるモナド以上のものということになる。  


21  しかしそうだとしても、単純実体には表象がまったくないということにはならない。それは前に述べた理由によってもありえないのである。なぜなら、単純実体は消滅することはできないし、存続しているからには、何か変化する状態を伴っているが、これこそ表象に他ならないからである。しかし、微小表象〔petites perceptions〕がどれほど多くあっても際立った表象がないときには、ひとは茫然とした状態にある。たとえば、たてつづけに何度も同じ方向に廻ると、目が廻って気が遠くなり、すこしも物事の見分けがつかなくなるようなものである。死は、動物をしばらくこの状態におくことがある。



22.  ところで、単純実体においては、現在の状態はいずれもそれに先立つ状態から自然的に出てきた結果であり、したがってここでは現在は未来をはらんでいることになるから、  


23. そこで、気絶状態から目ざめたとき自分の表象を意識するのだから、たとえ意識していなくても、目ざめる直前にも表象をもっていた、としなくてはならない。というのは、表象は自然的には他の表象からしか出てこられないからである。運動が自然的には別の運動からしか出てこられないのと同じである。  


24. ここからわかるように、もしわれわれの表象の中に、くっきりと際立ったいわば引き立っているところ、ひときわ高い好みなどがすこしもなかったら、われわれはいつまでも気絶、茫然自失の状態にとどまっていることになるだろう。これがまったく裸のモナドである。  


25.  さらにわかることは、自然が動物に引き立った表象を与えたこと、多くの光線や空気の振動を集めそれらを結びつけて、効果をいっそう大きくするためのいくつかの器官を動物にそなえさせる、という配慮をしていることである。嗅覚、味覚、触覚、そして恐らくわれわれの知らない他の多くの感覚においても、事情は似ているところがある。そして、魂の中で起こることが、諸器官の中で起こることをどのように表現するかは、あとで説明することにしよう。  



26.  記憶〔mémoire〕は魂に一種の連絡作用〔consécution〕を与える。これは理性に似てはいるが、理性とは区別されなくてはならない。動物において見られるように、強い衝撃を与えるものの表象をもち、さらに以前にも同じような衝撃を与えたことのあったものの表象をもったとき、動物は記憶の表現作用によって、この以前の表象の中でそれに結びついていることが起こることを予期し、そのときにもったのと同じような感覚〔sentiment〕をもつようになる。たとえば、犬に棒を見せると、棒から受けた苦痛を思い出して鳴きながら逃げてゆく。  



27.  動物に打撃を与え深く揺さぶる強い想像力は、以前もった表象の大きさやその数の多さに由来する。実際、強い印象が、長いあいだの習慣とか弱くても何度も繰り返された多くの表象〔perceptions médiocres réitérées〕と同じ効果を一挙に揚げることは、よくあることである。  


28. 人間といえども、表象間の連結がただ記憶の原理によってのみなされているあいだは、動物と同じような行動をしており、この点理論抜きでただ実地の体験を積んだ経験派の医者に似ている。じつはわれわれの行動の四分の三は、経験派的なものでしかない。たとえば、明日も夜が明けるだろうと予期するのは、いままでそうだったからという経験派的な振舞いである。このことに理性によって判断を下すのは、ただ天文学者のみである。  


29. しかし、われわれは必然的かつ永遠の真理を認識しており、この点で単なる動物から区別され、理性と知識〔les sciences〕をもつのである。われわれは高められて、自己自身を知り神を知るにいたる。そして、これこそわれわれの中にある理性的な魂、すなわち精神と呼ばれるものである。  



30.  さらにわれわれは、必然的な諸真理〔vérités nécessaires〕の認識と真理を抽象する作用とによって、反省という行為〔actes réflexifs〕にまで高められる。この行為が自我と呼ばれるものを考えさせ、これとかあれとかがわれわれの中にあることを考察させる。このようにして、われわれは自分自身を考えることによって、存在、実体、単純なものと複合されたもの、非物質的なもの、さらに神そのものを考えるようになる。それは、われわれにおいては制限されているものが、神においては制限がないということを理解するからである。つまり、このような反省という行為がわれわれの思想のはたらき〔raisonnements〕の主要な対象を与えてくれるのである。  



31. われわれの思考のはたらき(raisonnements)は二つの大原理に基づいている。その一つは矛盾の原理で、これによってわれわれは矛盾を含んでいるものを偽(faux)と判断し、偽と反対なもの、偽と矛盾するものを真(vrai)と判断する。  




32.  もう一つの原理は十分な理由の原理で、これによってわれわれは、事実がなぜこうであってそれ以外ではないのかということに十分の理由がなければ、いかなる事実も真(vrai)であることあるいは存在することができず、またいかなる命題(énonciation)も真実である(véritable)ことはできない、と考えるのである。もっともこのような理由は、ほとんどの場合われわれには知ることはできないけれど。  



33.  真理(vérités)にも二種類ある。思考(raisonnement)の真理と事実(fait)の真理である。思考の真理は必然的でその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的(contingentes)でその反対も可能である。真理が必然的である場合には、その理由を分析(analyse)によって見つけることができる。すなわちその真理をもっと単純な観念や真理に分解していって(résoudre)、最後に原始的な観念や真理にまで到達するのである。  



34. そこで、数学者の場合についていうと、理論上の定理〔théorèmes〕も応用上の規範〔canons〕も、分析によって定義や公理〔axiomes〕や公準〔demandes〕に還元される。  



35. そうして最後に、定義することのできない単純概念がある。また、証明することができず証明する必要もない公理や公準、一口でいえば原始的な原理がある。これらは自同的命題〔énonciations identiques〕で、その反対は明白な矛盾を含んでいる。  


36. しかし、偶然的真理すなわち事実の真理の中にも十分な理由がなくてはならない。つまり被造物の世界にあまねく行き渡った事物(choses)の関連のうちにも、十分な理由がなくてはならない。この場合、自然の事物が極めて多様であり物体(corps)は、無限に分割されているから、個々の理由に分解してゆくと限りなく細部に到ることになる。過去現在の形や運動が無数にあって、それらがいま私の書いていることの作用因(cause efficiente)をなしている。また、私の魂にある現在や過去の無数の微小な傾向(inclinations)や気持ち(dispositions)は、つきつめれば究極的な原因〔cause finale〕にまで至る  
 

37.  ところで、どのこうした細部にも、それに先立つあるいはより細微な偶然的要素のみが含まれていて、その要素のそれぞれに理由を与えるためには同じような分析がまた必要となってくる。だからいくらやっても、少しも進んだことにはならない。そこで、十分な理由すなわち最後の理由(la raison suffisante oudernière)は、偶然的要素のこうした細部がたとえどれほど無限でありえても、やはり細部の関連つまり系列の外にある、としなくてはならない。  


38.  そうすると、事物の最後の理由は一つの必然的な実体の中にある、としなくてはならない。この実体の中にはさまざまな変化の細部が、あたかもその源泉の中にあるごとくただ卓越的に(éminemment)存している。その実体こそわれわれが神と呼ぶものなのである。


  39.  さて、この実体はすべてのこうした細部の十分な理由であり、またこの細部はいたるところでたがいに連関しているので、神は一つしかない、かつこの神だけで十分である。


  40.  さらに次のようにも考えられる。この最高の実体は、唯一の、普遍的な必然的な実体で、それに依存しないものは他に一つもなく、また可能的存在からの単純な帰結であるのだから、この実体には限界などありえず、可能なかぎり多くの実在性〔réalités〕が含まれているのでなくてはならない。

  41. そこから神は絶対的に完全であるということになる。完全性〔perfection〕とは、事物のもつ限界や制限を除き去って、厳密な意味に解された積極的実在性の大きさに他ならない。そこで限界のないところ、つまり神においては完全性は絶対的に無限である。


42.  さらにそこから、被造物の完全性は神のはたらきに由来するが、その不完全性は限界なしであることができない被造物の固有の本性から得る、ということになる。被造物が神から区別されるのは、まさにこの点なのだからである。


43.  神が存在するものの源泉であるばかりでなく、本質の源泉でもあることは確かである。ここでの本質とは、実在的な本質あるいは可能性の中にある実在的なもののことである。なぜなら、神の悟性は、永遠真理とか永遠真理のもととなっている観念が存する領域だからであり、もし神がなければ、可能性の中の実在的なものは何もなくなり、現実に存在するものだけでなく、可能的なものさえなくなってしまうからである。

44.  というのは、本質すなわち可能性の中に、あるいは永遠真理の中にも実在性があるならば、この実在性は何か現に存在しているもの、現実的なものに基づいていなければならない。したがって、本質が現実存在を含んでいるような、すなわち現実的であるためには可能的でありさえすればよいような必然的な存在が現に存在していることに基づいていなくてはならない。

45.  そこで神(すなわち必然的存在)のみが、可能的であれば必ず現に存在するという特権をもっている。制限も否定も含まず、したがって矛盾を含まないものの可能性を妨げるものはないから、このことだけで神の存在をア・プリオリに知るのに十分である。われわれは、神の存在を永遠真理の実在性によっても証明したことになる。
 しかし、われわれはさきほど、この証明をア・ポステリオリにもしている。つまり、偶然的なものは現に存在しているが、それの最後の理由つまり十分な理由を必然的な存在の中にしかもつことはできない。だがこの必然的な存在は自分自身の中にその存在の理由をもっているからである。
by yojisekimoto | 2013-10-15 09:38 | ライプニッツ


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