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弁証法の拒絶=ゴダール『さらば、愛の言葉よ』:メモ

ゴダールの3Dは、ドゥルーズがゴダール作品の特質として最初に指摘した、弁証法の拒絶の結実だ。映画内の章にも1(隠喩)と2(自然)はあるが3はない。エイゼンシュテインがその立体映画論において未来に存在を楽観視した民衆のための広場はそこにはないが、未来の代わりに現在がある。子供の代わりに犬がいる(デリダへの応答は珍しい)。

夫婦から生まれる赤ん坊の隠喩はヘーゲルの弁証法のプロトタイプだが、ゴダールは音だけで処理する。
想像力がある者は現実に頼らない、ということだろう。

未来はないと言ったが、前半仕切りに流れるスラブ行進曲(音楽ではなく音への遡行、むしろ数学への傾倒)は、プーチンの暴走を予言している。ゴダールはプロセスをそのまま作品にしているが、未来を予言しているところもある。例えば、『ソシアリスム』冒頭に出ていた経済学者はシャルリーへのテロに巻き込まれて2015年に殺されている。

左右のカメラをわざとズラすシーンは2箇所。ともに男女の乖離を描いているが、すぐに元に戻る。モンタージュされないのだ。2Dではどういう処理になるのだろうか?
ちなみに同じく視差を扱って成功しているのは宮崎駿の風立ちぬ(冒頭メガネのシーン)くらいだろう。

3Dの効用は、望遠が使えず、画角が一定になり、人物に近づくしかなくなるために、かえって被写体が生き生きしてくることだ。

邦題が不評だが、ハードボイルド小説を踏まえた命名はこれまでのゴダール作品の流れからは正しい。しかし今回はもっと素のゴダールが出ている。
引用群はここではない何処かではなく(アフリカが記号的に使われるが)、日常を異化効果によって蘇らせる。『ソシアリスム』にあった資本への視点は消え、自然への視点が増えた。映画の引用は素材が3Dではないからか後退しており、それがいい方向性を示している。『リア王』の時のソニマージュ(における実験の体験)を立体映画でやり直している観がある。もっと私小説的なのだ。

政治的問題は男女間の問題(排泄と平等及び『アリア』的女性の叫びの変奏)に二重写しされる。
ゴッホの点描を見た後のような視覚の広がりを歴史的にゴダールは我々にもたらした。
普通の日本語字幕が浮き出て見えることで映像と観客との溝は広がるのだが、その溝が心地よい。

弁証法の拒絶は、同一化への希求の表れ(キリーロフ)でもある。

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以下、参考サイト:

動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある (単行本): ジャック・デリダ, マリ=ルイーズ・マレ, 鵜飼 哲: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/448084743X/
内容紹介
猫に自らの裸を見られた体験から始まる講演など4編を収録。デカルト、カント、レヴィナス、ラカン、ハイデッガーを辿り直し、動物と人間の伝統的な対立関係を考察する。
by yojisekimoto | 2015-03-28 22:26 | 映画


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