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ガンジーの遺言

ガンジーの遺言_a0024841_22511783.jpg今から58年前の1948年1月30日午後5時、ガンジーは対イスラム強行派のヒンズー教徒の青年に暗殺された。ガンジーの遺稿詩として知られるものもあるが(※)、あまり知られていないものとして、ガンジーが死の前日に提出した新たなインドの組織案がある。


ガンジーは国民会議派を協会(サンガ)に移行させようとしていたのだ。
それは具体的には70万ある農村に成人男女5人ずつのパンチャーヤト(語意は五人会議というインド農村の昔ながらのグループ)を作り、さらに二つのパンチャーヤトは指導者を一人互選する。そして選ばれた50人の指導者からさらに指導者が選ばれ、200のパンチャーヤトは100づつの平行するグループとなり、このようなグループがインド全土をおおうことになる。各指導者たちはそれぞれ手紡ぎ綿布着用義務をもち、名簿管理などを行う。さらに全体としての協会は、手紡ぎ綿布、農業、教育、人権、動物愛護といった5つの支部を持つ、というものだ(みすず書房『わたしの非暴力2』)。

こうしたガンジーの案はその後、必ずしも現実化されたわけではないが、この案から小さな単位を大事にするガンジーの理念はよく伝わる。
特に出発点に二つの5人会議から互選で指導者を選ぶあたりが、ガンジーはイスラム教とヒンズー教といった政治レベルの対立をミクロレベルで解決するモデルを作ろうとしていたのではないかと思わせて興味深い。
(興味深いのは活動家は村民と「個人的な接触を持つこと」=「顔見知りになること」が求められていることだ! 上記書籍『わたしの非暴力2』p328、あるいはレグルス文庫『非暴力の精神と対話』74頁参照。後者ではその活動家は「平和部隊(シャンティ・ダール)」と呼ばれている。)

ガンジーが実践した手紡ぎ車(チャルカ)などは、自立分散的生産システムによる対抗手段だったし(地湧社『ガンジー自立の思想』)、聖人視されるか逆に軽視される傾向にあるガンジーは実に経済的にも政治的にも現実的な視点を持った人だったのだ(塩の行進も必需品を自国で生産したいという経済的根拠を持っていた)。また、今日的にガンジーの考えを応用するならば、コンピューターなども自立分散的に活用可能なものだと思う。

このように、ガンジーの遺志は私たちに託され、その実現へ向けた試みは今現在もまだ続いていると考えた方がいいだろう。

追記:

「わたし自身の体験から集約したいくつかの規約」

(一) 隊員はいかなる武器も所持してはならない。
(二) 平和部隊の隊員は容易に見分けがつくよう配慮すること。
(三) 全隊員が応急処置にあたれるよう、包帯・はさみ・針と糸・外科用ナイフ等を所持すること。
(四) 隊員は負傷者の運搬や移動の方法を知っておくこと。
(五) 隊員は、消火の方法ならびに、火傷を負わずに火事場に入る方法、また、荷物のあるなしに関係なく救出作業のために高い塀をよじ登り、無事に降りる方法を知っておくこと。
(六) 隊員は受け持ち地区のすべての住民と顔見知りになること。このこと自体、一つの奉仕である。
(七) 隊員はたえず心に神の御名(ラーマヤーナ)をとなえ、信仰をいだく多の人びとにもそうするよう勧めること。

一九四六年四月二十六日 ニューデリーにて (「非暴力の義勇隊」『ハリジャン(神の子)』一九四六年五月五日号)
(『非暴力の精神と対話』73−4頁)


ガンジーの死の3ヶ月前に書かれた詩として知られているものに以下がある。

 束縛があるからこそ
 私は飛べるのだ
 悲しみがあるからこそ
 高く舞い上がれるのだ
 逆境があるからこそ
 私は走れるのだ
 涙があるからこそ
 私は前に進めるのだ

   マハトマ・ガンジー 〔遺言詩〕
by yojisekimoto | 2006-01-30 17:00 | 研究


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