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オシム=統整的理念としてのトータルフットボール

ジーコの言う自由も、トルシエの指導したフラットスリーも目指すべきサッカーを構成的に考えたものだった。それぞれ目指す理想は素晴らしいものだったかも知れないが、どちらもWC本戦で限界が露呈していたのは確かだろう。その一方で、今度監督になったオシムのサッカーには構成的ではなく統整的という言葉が当てはまる。
構成的というのは理想をある特定の鋳型ととらえ、そこに選手なり組織を当てはめるというものだが、統整的というのはその都度調整して目指すべき地点に一歩づつ近づけていこうという現実的な態度だ。
ジーコなどは選手を型に当てはめなかったと言えるかも知れないが、三都主のポジションなどを見ればわかるように、中盤の選手の自由と引き換えに、他の選手がそれぞれのポジションに縛られていたし、自由という理念が放任と取り違えられ、一人歩きしていた観があった。

オシムのサッカーは改善の余地があるとはいえ、一人一人に判断の早さを求めるトレーニングなど、考えながら走るサッカー(=トータルフットボール)という理想が一人歩きせずに統整的(レギュラティブ)に機能していると思う。各自に判断の主体があるというのは、前例にとらわれやすい日本社会では重要なことだし、型を与えて有無を言わさずハードルを越える技量を身につけさせる宗教などとは違うものだ。オシムの7色ものビブスを使った練習や、4バックか3バックかを選手に判断させる練習方などを見ても構成的ではなく統整的だと思う。

上記の構成的、統整的(統制的とも書くが、こちらの方がニュアンスが伝わりやすい)というのは実はカントの言葉である。
ただし、オシムのサッカーはポジションにとらわれないのでカントの言う統整的理念を彷彿とさせるのは無論だが、カントの作った哲学体系よりも、スピノザの哲学を想起させるところがある。オシムサッカー(=「統整的理念」)が日本社会に波及する様子を見ていると、オシムのサッカーはむしろスピノザ的な複数の中心を持つカオスを創出していると言えるかも知れない。
by yojisekimoto | 2006-08-11 00:31


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