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デリダとディラン

最近のボブ・ディランのアルバムには彼自身の意向で英語歌詞カードがついていない。
これは思想家ジャック・デリダが音声中心主義を批判したのと逆だが、興味深い事実だ。
ディランは音に集中してもらうために書機を避け、デリダは音声を避けている。
もっと言えば、「現前性」を称揚するのがディランで、批判するのがデリダだ。

ディランの新作(modern times)にも英語歌詞はついていない。

デリダとディランーーーだが両者にも共通点はある。それは両者がユダヤ系であることに加え、書き継がれたものと歌い継がれたものといった継続性を大事にする点だろう。
書くことと歌うことと立場は違えどそこが似ている。

『法の力』でデリダは、法によって/法を越えて、アポリアを乗り越えようと模索している。
同じようにディランは『バイオグラフ』で「ハッティキャロルの寂しい死」と「パーシーズソング」(turn turn turn again)で裁きが軽すぎる場合と重すぎる場合、二つの事例を歌っている。

裁きの根拠となる法の問題は、神の問題にもつながる。
ある講義で学生から「神とは何か」と聞かれたデリダは、キルケゴールを援用し、我が子を殺そうとするアブラハムの話を学生に聞かせたと言う(『デリダ』現代思想の冒険者たちシリーズより)。
態度はユーモラスなものでデリダと異なるが、ディランもまた「追憶のハイウェイ61」でアブラハムのエピソードから歌い始めている。

「子どもを殺せと神がアブラハムに言った
 アブラハムはだますつもりだろうと言った」(ディラン「追憶のハイウェイ61」より)

死後の世界、不可知なものについて両者の対応はどうだろうか?
『マルクスの亡霊たち』(未邦訳)でデリダは遺産と幽霊にこだわるが、これは幽霊の他者性、非現前性のリアリティについて述べたものだろう。
他方、ディランは小説『タランチュラ』(角川書店)で自らのレクイエムを書き、その中でこう看破している。「幽霊もまた人格である」と。

つまり、 ディランもまた、デリダとは違う形で「メシアニズムなきメシア的なもの」を求めているのだ。
それは「I shall be released」や「天国の扉」の歌詞に現れている。「いつの日か」ではなく「今だって(any day now)」、解放されるべきであり、天国の扉を叩くのは、「かつてあったのと同じように(many times before)」(ライブバージョンより)なのだ。

デリダよりもドゥルーズの方が実際にディランについて何度か言及し、接点があるかに見えるが、やはりデリダとディランが「ユダヤ的なるもの」によって互いに引き寄せ合っていることは否定できない。
しかしこれは断じて民族主義ではない。なぜなら二人は狭義のシオニズムからユダヤ的なエクスキューズを奪い取り、その偽善性をもはぎ取ってしまうだろうからだ。両者は世界をさまよう単独者としてそのユダヤ性を発揮しているのだから、シオニズムとは無縁だ。ディランがシオニズムを擁護する時、それは「近所のごろつき」(アルバム『インフィディルス』より)という一隣人としてなのだ。

デリダ亡き後、ディランはそれまでと同じように世界をライブ活動でわたり歩いている。ここには神秘ではなく、デリダがカント論(『エコノミメーシス』)で見いだしたような「労働」を見出すべきだろう。

最後に、余談だが、デリダの送り間違えた(*)ポストカードをディランが受け取る。そのような単独者同士の架空のアソシエーションを想像することはできないだろうか?

「拝啓お手紙受け取りました
 お元気ですか?というのは
 何かの冗談のつもりかい?」(ディラン「デソレーションロウ」より)

追記:
ディランの新作『モダンタイムス』は、『タイムアウトオブマインド』から続く散文的な歌詞と、『スロートレインカミング』を連想させる聴きやすいサウンドが一体となった傑作だと思う。個人的には「復讐」(洪水のような自然からのそれを含む)のテーマの昇華が見られるのが興味深い。曲別では「ワーキングマンズブルース#2」と「エイントトーキン」が素晴らしい。

*ただし、「誤配」に関してはディランはデリダの一歩先を行っている。「違法ダウンロードに悩む音楽業界が、人々が無料で音楽を手に入れていると苦情を唱えていることについては、元々何の価値もないんだから問題ないじゃないか、と一蹴した。」(ボブ・ディラン最新インタビュー記事より)
by yojisekimoto | 2006-09-01 00:00 | ディラン


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