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アントニオーニとハイデガー

ハイデガーと比較してみたい映画作家に先日亡くなったイタリアのアントニオーニがいる。その遺作に『エロス』という興味深い短編がある。
かつての代表作『情事』では女主人公が途中で失踪し、(恋人の男が探しても最後まで出て来ないで)男は別の女性と浮気をしその情けない姿で映画は終わった。
『エロス』でも主人公(男)の恋人が失踪するし、案の定男は別の女性と浮気をする。ただし、最後は男が出て来ないで、失踪した女性と浮気相手の女性が湖畔で裸になって踊るシーンで終わる。


ここでラストのメッセージをハイデガーが唱えた本来性の回復と見ることができる。それだけなら安易な比較だが、存在者に対して存在を描くアントニオーニの姿勢はストーリーに還元されず映画全体で一貫しているように思えるのだ。その点が同じく女主人公が失踪するヒッチコックの『サイコ』などとは違う。ちなみに女性という二重否定的存在に男性という全称肯定的存在が敗北すると読めば、アントニオーニはヒッチコック以上にラカンに通じることになる(*)。
ハイデガーとの違いとしては、アントニオーニの映画では性差は絶対的、というよりも絶対的に意識されている点だが、主人公の失踪などの偶然性は画面全体に行き渡っている感があり、それはハイデガーの現存在に通じる。
『赤い砂漠』などではサイバネティクスへの関心がうかがえるが、そうした技術へのアンビバレントな態度もハイデガーを連想させる。
アントニオーニは「私は腹で映画を撮っている」というが、そうした感覚、つまり頭という存在と腹という存在者の間で揺れているような姿は『存在と時間』にも見られ、アントニオーニはハイデガーと同じ課題を抱えていたように思えてならない。

20世紀の存在論として、本来性の回復という課題を国籍と性別を越えた外に開くためにも、両者を比較することには意義があると思う。

(*ラカンについては後日また書きたい。)
by yojisekimoto | 2007-11-03 19:57


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