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ニーチェとライプニッツ

永劫回帰の発見以後の1886年、ニーチェはライプニッツによる「意識は表象の一偶有性にすぎない」というテーゼを賞賛している(『悦ばしい知識』第5章「われら恐れを知らぬ者」357、講談社学術文庫『ニーチェ』山崎庸佑p338参照)。

アガンベンやカウルバッハがしたようにライプニッツの先見性が見直されるべきだろう。

参考:
http://d.hatena.ne.jp/m-takeda/20060914/p1

『バートルビー 偶然性について
<つまるところ、ツァラトゥストラの永遠回帰は、ライプニッツの『弁神論』の無神論的な変種でしかない。それは、ピラミッドの一部屋一部屋のなかには起こったことの繰り返しだけをつねに見て、そのことによってのみ、現実の世界と可能世界のあいだの差異を抹消して世界に潜勢力を回復する。ニーチェの決定的な経験を、はじめて、それもほとんど同じ用語を用いて定式化したのがまさにライプニッツだということも偶然ではない。「人類が、現在ある状態に充分に長く持続すれば、個人の生までもが些末な細部に至るまで同じ状態であらためて起こるという瞬間が必ずや到来するだろう。私自身も、このハノーファーという名の都市にいて、ライネ河の河岸でブラウンシュヴァイクの歴史の研究に取り組み、同じ友人たちに同じ意味の手紙を書いているところだろう」。

 筆生バートルビーが、筆写を放棄することを決心する瞬間まで固執しているのがこの解決法である。ベンヤミンは、永遠回帰を居残りの罰課Strafe des Nachsitzens、怠慢な生徒に教師が課す、同じ文章を何度も筆写させる罰課に喩えたことがあるが、そのときベンヤミンは筆写と永遠回帰とのあいだにある内密の照応関係を発見している。(「永遠回帰とは、宇宙に投影された筆写である。人間は、自分のテクストを終わりなく反復して筆写しなければならない」。)かつてあったことの無限の反復は、存在しないことができるという潜勢力を完全に放棄している。その執拗な筆写にあっては、アリストテレスの偶然的なものにおけるのと同じように、「非の潜勢力という状態にあるものが何もなくなる」のだ。潜勢力への意志とは、じつは意志への意志であり、永遠に反復される現勢力であり、反復されることでのみ潜勢力を回復される現勢力なのだ。筆生が筆写をやめ、「筆写を放棄」しなければならないのはそのためである。p77-78>


(アガンベンにはさらにライプニッツの論理学的「ピラミッド」への批判がある。
http://takakuwa.at.infoseek.co.jp/texts/fff.html#27
<[...] ライプニッツは次のように想像する. デルポイの神託でアポロンはセクストゥス・タルクィニウスに対して, ローマ王になれば不幸に見舞われるだろうと告げたが, この応えに満足しなかった彼はドドネのユピテルの神殿におもむき, 自分を悪人へと運命づけた神を責め, その運命を変えてほしいと, あるいはせめて間違いを認めてほしいと言う. ユピテルがこの頼みを拒絶し, ローマをあきらめるようにあらためて言うと, セクストゥスは神殿を退出して, 自分の運命に身をまかせてしまう. しかし, この光景に立ちあっていたドドネの司祭テオドロスが, この件についてさらに知りたいと思う. 彼はユピテルの勧めにしたがってアテナイのパラス神殿におもむき, そこで深い眠りに落ち, 夢のなかで見知らぬ国に運ばれていった. そこで女神パラスが見せてくれたのが〈運命の宮殿〉である. それは輝く頂上のある巨大なピラミッドで, その基礎は無限に下に続いている. 宮殿の部屋は無数にあり, そのそれぞれがセクストゥスの可能な運命のそれぞれを表している. それぞれの可能な, だが現実のものとはならなかった世界がそのそれぞれに対応する. その一室にテオドロスは, セクストゥスが神に説得されて神殿から出てくるところを見る. そこでは, セクストゥスはコリントスに行き, 小さな庭を買っている. 庭を耕すうちに彼は財宝を発見する. 彼は誰からも愛され重きを置かれて, そこで, 老年まで幸福に暮らす. また別の部屋を見ると, セクストゥスはトラキアにいて, そこで王の娘と結婚して王座を継承し, 民衆に敬慕される幸福な主権者になっている. また別の部屋を見ると, 彼が送っているのは平凡な人生だが, 苦痛はない. このようにして, 部屋から部屋へ, ある可能な運命から別の可能な運命へと続いている.「部屋はピラミッド状になっていた. 頂上に向かうにつれて部屋は美しくなり, それはより美しい世界を表していた. そしてついに, ピラミッドの終わりの, 最上階の部屋にたどりついた. それはあらゆる部屋のなかで最も輝かしい部屋だった. というのも, ピラミッドには始まりはあったが, 終わりは見えなかったからだ. つまり, ピラミッドには頂上はあったが, 基礎はまったくなかった. 下は限りなく大きくなっていたからだ. それは, 女神の説明によれば, 無限にある可能世界のなかには, 最善の世界が1つあるからであり, さもなければ, 神は世界を創造しようと決定することもなかっただろうというのだ. だが, 自分より完成度の劣る世界をもたない世界は1つもない. ピラミッドが終わりなく下に向かって続いているのはそのためである. その最上階の部屋に入ると, テオドロスは恍惚に我を忘れた [...]. 我々は真の現実の世界にあり, おまえたちは今, 幸福の源そのものにある, と女神は言った. これが, おまえたちが忠実に仕えるならユピテルが用意してくれるものだ. そしてこちらが今あるセクストゥス, 現実のこれからのセクストゥスである. 彼はすっかり怒って神殿を退出し, 神々の助言を軽んじている. 見よ, セクストゥスがローマに行き, いたるところで混乱の種をまき, 友人の妻を犯している. ほら, 父とともに追放され, 戦に敗れて不幸になっている. もし, ここでユピテルが, コリントスにいる幸福なセクストゥス, トラキアで王となっているセクストゥスを選んでいたなら, このような世界にはならなかったであろう. だが, 彼はこの世界を選ぶより他はなかった. この世界は他のあらゆる世界を超えて完璧な, ピラミッドの頂点を占める世界なのだ」>

http://essentia.exblog.jp/2934781/
フリードリヒ・カウルバッハFriedrich Kaulbach『ニーチェにおけるモナドロギー』
<普遍的存在と個体的存在の関係について、ニーチェとライプニッツのバランス感覚は驚くほど良く似ています。ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』などを読むと、「スピノザがドイツ観念論の王様だ」ということになるのですが、ニーチェにおける「普遍的存在と個体的存在との構造関係」はライプニッツなのです。ニーチェの哲学において、ニーチェやキリストやソクラテスのような個人一人一人は、決して「没個性」の存在ではなく、個として輝かしい光を放ちうる存在です。それは「個という名のモナドであり、形而上学的点である」と評されて、全く問題ありません。

もちろん、『弁神論』を著して神の存在を擁護し、予定調和を説くライプニッツは、ニーチェから「背後世界論者」として批判されます。つまり、「世界の意味付け」の段階で、ニーチェとライプニッツは乖離するのです。「世界の構造」に関しては、ニーチェは驚くほどライプニッツ的だと思います。>


ただし、先に示したようにニーチェはライプニッツに関しては自覚的だったと見ていい。
ハイデッガーが強調するように(ハイデガー『ニーチェ』第三巻では最後にライプニッツの24命題が引用される)論理学的な認識の果に、論理学を否定、逸脱する力をそこにみるべきなのだろう。
個人的にはヘーゲル経由でスピノザが誤解されていることが多いので、ライプニッツよりもスピノザの影響を強調したい。なぜならニーチェの永劫回帰はライプニッツ経由の論理学的なものというよりはスピノザの無限理解に基づいたより数学的なものだからだ(スピノザの「神への(知的な)愛」は幾何学に基礎を持っていた)。

ニーチェをカントの批判の延長と考えた(ニーチェの仮想敵はカントであるのは間違いない)ドゥルーズもスピノザとニーチェに言及しながらそのことを強調しているように思えるが、柄谷行人の方が明確にスピノザの無限に関して書いているので(『探究2』)今後のニーチェ読解により有効だと思う。

(ドゥルーズの批判を援用し、ニーチェが様態による逆転を目指し、想像力を擁護することを協調するならばニーチェはネグリあたりと近いということになる。)

また、ニーチェの歴史的なものに対する戦いは、題材は違っていても、スピノザの『神学政治論』にその理想的な形を見出せると思う。
by yojisekimoto | 2008-09-29 22:10 | ニーチェ


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