『芸術作品の起源』

ハイデガー、『芸術作品の起源』。
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この論文はゴッホの絵*を論じていることで著名であり、

1、物と作品、
2、作品と真理、
3、真理と芸術という三章から成り立っている。

そしてこれらは(物と芸術を同じく「現実界」にあるものと解釈すると)以下のようにラカンのボロメオの環的循環構成になっていると解釈できる。

     1、物(芸術、現実界)

2、作品(想像界)     3、真理(象徴界)

ハイデガーは、まず1では、道具的性格は想像界の芸術が明らかにし、
そして2では、芸術は(本質存在ではなく事実存在が優位であるという)真理が核となるとし、
さらに3では、その真理は空間的(大地,世界)である以上に、歴史的に現実化するべきだ、とする。

さて、ここで仮説だが、木田元によって強調される、本質存在、事実存在の差異は、それぞれマルクスのいう使用価値、交換価値に対応し得るのではないだろうか?
その解釈を援用し読み直すなら、

1、ゴッホの絵が明確にした本質存在=使用価値は、
2、事実存在=交換価値によって初めてその真理を明らかとされ、そこではまたプロレタリアート=大地とブルジョア=世界の対立が背景としており、
3、また最終的にはそうした階級闘争は空間的というよりも歴史的に捉えられなければならないとする、
ということになろうか。

ちなみに詩作による詩人の投企は命がけの飛躍ということになるであろう。

ハイデッガーはラカンのように循環論法を構造化して示していないので、論理学の一歩手前で立ち止まることを強いる。そして同時にヘーゲルほどではないが、歴史観の強要と決断を強いる。

ただ、木田元も解説するように、ハイデガーはニーチェのように芸術作品の受容者側や制作者側からではなく作品そのものを主体的に論じている点で、唯物論的でありなおかつ(明確な中心を措定しないことからも)十分構造論的なのである。

その際、制作というギリシア的概念が重要になるが、これも制作者を措定するというよりも自然生成に近い概念、つまり事実存在をそのつど更新するものとしてである。

もちろんそのギリシア賛美とその詩的決断は反時代的で不可能なことなので、結果的に決定不能ということになる。

ここで指摘したかったのは、ハイデガーをその循環論法と非論理性から全否定するということではなく、ハイデガーが批判するマルクス主義とハイデガー哲学は相似だということである。

そして木田元が言うように事実存在がカントいうカテゴリーの様相、本質存在がカントいうカテゴリーの質に相当するなら、カントに立ち返る必要性をも指し示していると言えようし、マルクスとカントがハイデガーを介在することで有機的に繋がる可能性があるということでもある。



左足用?の靴(ゴッホが蚤の市で購入したものだと言う)が2つ描かれたこの絵は、最近の研究では、ゴッホの弟テオとの二人三脚を宣言したものと解釈され得る。もちろんこの解釈は作者側の視点によるもので、ハイデガーには不可能だったというよりも、ハイデガーが意図的に避けた解釈ではある。
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by yojisekimoto | 2008-11-25 21:01 | ハイデガー


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