アガンベンのスピノザ論

現代イタリアの思想家であるアガンベンは、そのドゥルーズ論のなかで、通常無視されることの多いスピノザのヘブライ語文法論に関して以下のように述べている。

 <現存するスピノザ著作集の中に、彼がセファルディー(スペイン系ユダヤ人) の母語であるラディン語で書いた唯一の文が収録されている。それは、『ヘブライ語文法綱要』[Compendium grammatices linguae hebraeae]の一節である。ここでこの哲学者は、能動的再帰動詞の意味を、ひとつの内在因の表現、つまり、作用者と受動者が唯一にして同一の人称であるようなひとつの行為の表現として説明している。この動詞の変化形(ヘブライ語で、接頭辞を標準形ではなく強意形に付け加えて形成されるので、すでにそれ自体で他動詞的=横断的[transitivo]な意味をもっている)の意味を解き明かすには、スピノザが最初に提供しているラテン語の同義語「自己を訪れる」[Se visitare]は、明らかに不適切である。そのためにスピノザは、このラテン語をすぐに 「訪れるものとして自己を構成する」[se visitantem constituere]という特異な表現で限定している。さらにもう二つの例が続く。しかし、そのラテン語の同義語(「自己を立てる=出頭する」[se sistere]と「自己を散歩に与える=散歩に耽る」[se ambulationi dare])もスピノザにはどうやら不満らしく、自分の民族の母語に頼らざるをえなくなるのだ。「散歩する」[passeggiare]は、ラディン語(つまり、セファルディーたちがスペインから追放されたときに話していた古スペイン語)では、pasearse(「自分を散歩につれてゆく」[passeggia-se]は、現代スペイン語ならばむしろ、pasearあるいはdar un paseoというだろう)といわれる。内在困に相当する語、すなわち同一の作用者に帰される行為に相当する語としては、このラディン語の単語は格好の例である。実際、この語が示す行為、すなわち、「自分を散歩につれてゆくこと」[passeggiar-se]としての「散歩[passeggiata]の中では、作用者と受動者が絶対的な不明瞭性の闘(ソリア)に入りこんでいて判然とは区別しがたくなっている。
 第一二章で、スピノザは不定名詞(不定法は、ヘブライ語ではひとつの名詞として語形変化する)がとる対応形の意味についても同じ問題に着手する。スピノザはこう記している。「作用者と受動者とが唯一にして同一の人称であるということは往々にしてあるので、ユダヤ人には第七の新しい不定法をつくることが必要だったのである。この不定法によって、ユダヤ人は、作用者と受動者に同時にかかわるような行為を言い表すことができた。つまり、能動形と受動形を同時にもつわけである。…だからこそ、内在困としての作用困にかかわる行為を表現するような、もうひとつ別の種類の不定法を発明する必要があった。…すでに述べたように、これによって「自分自身を訪れるものとして自己を構成する」[visitare se stesso]、あるいは「構成すること」、要するに「訪れるものとして自己を提示する」(constituere se visitantem,vel denique praebere se visitantem)が意味されるのである」
 つまり、内在困が問題として呼び出してくるひとつの意味論的な星座こそ、哲学者=文法家スピノザが数多くの例(contituir se visitante,mostrar se visitante, pasearseパセアルセ)によって懸命に把握しようとしたものなのであり、内在性の問題を理解する上でそれがもっている重要性は、けっして軽視されるべきではない。パセアルセが指し示す行為にあっては、たんに作用者と受動者を区別できない(誰が何を散歩につれていくのか)ーーそれゆえ、ここでは、能動と受動、主語=主観と目的語=客観、他動詞と自 動詞といった文法のカテゴリーは失効してしまうーーだけではなく、手段と目的、可能態と現実態、能力と行使といった対概念も絶対的な不確定領域の中に入り込んでしまう。だからこそスピノザは、可能態と現実態、無活動と活動性が一致する(訪れるものとしての自己を構成する、訪れるものとしての自己を提示する)という表現を使ったのである。要するに、内在の目眩とは、内在が、存在の自己構成と自己提示の無限運動を記述する、すなわち、パセアルセとしての存在を記述する、ということなのだ。
 さまざまな様態や出来事が実体に内在することを示すために、ストア派の哲学者がまさに散歩の譬喩を使うのも、けっして単なる偶然ではない(クレアンテス [ストア派の哲学者。ゼノンの後継者]とクリュシッボス[同じくストア派の哲学者。クレアンテスの後継者] はこう問答する。散歩するのはいったい誰なのか。魂の主導権を握る部分によって動かされた肉体なのか、それとも主導権を握っている部分そのものなのか)。のちにエビクテトスが卓越した着想で道破するように、存在様態は、存在の(体操をする)[fanno la ginnastica] のだ(gymnasaiには、語源上、「むきだしの=裸の」[gymnos]という形容詞も感じとられるべきだろう)。>
(アガンベン「絶対的内在」『現代思想2002.8』所収より)

こうした文法論と哲学的汎神論をつなげて論じることは、日本人が日本語を論じる際にも参考になる(チョムスキーも影響を受けたフンボルトの文法論も同様の示唆を与えるだろう)。また、スピノザのヘブライ語文法論は唯一邦訳されていない著作なので、その邦訳も待たれる。

さて、紹介したいのはアガンベンが、若いとき、パゾリーニの『奇跡の丘』にキリストの十二使徒の一人フィリポ役で出演しているということだ。
Il Vangelo secondo Matteo

アガンベン出演は3分27秒ごろ
アガンベンはベンヤミン的でもある暴力と神的なものの問題意識をパゾリーニから引き継いでいる(パゾリーニが生前最後に企画していたのは正パウロ伝だが、これなどはアガンベンなどの問題意識を先取りしたものだろう)。

おなじ論考でアガンベンは以下のような哲学史的見取り図を提出している。

 超越           内在

カント          スピノザ
  |            |
フッサール        ニーチェ
    \       /
      ハイデガー
     /     \
レヴィナス、デリダ  フーコー、ドゥルーズ

「(略)彼(引用者注:ドゥルーズ)の遺書を哲学の使命として引き受けるとともに、近代哲学〜その大部分は、新たな意味での「生の哲学」である〜を内在の線と超越の線ではっきり区別するような系譜図を遡及的に再構成してゆくという仕事も、その一端として必然的に課されるのである。それはたとえば、このような概略的な系統図が目安になるだろう。」(アガンベン「絶対的内在」『現代思想2002.8』)

スピノザとニーチェをつなげているあたり、的確であると言える。
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by yojisekimoto | 2009-04-21 18:58 | スピノザ


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