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ドゥルーズとカント:メモ

「ジル・ドゥルーズのわかりやすい言葉でいえば、この現実のほかにいろんな可能性があるということではなく、ほかならぬこの現実が潜在性においていかに多層的で豊かであるかを発見することが重要なんだ、と。そこのところを、そのあとで出てきたSFやアニメやコンピュータ・ゲームの類は全部間違えている。(略)本当はこの現実しかない、言い換えればメタロジックなんてものはないんだから。」浅田彰

http://frequency123.tumblr.com/post/144546614
「オウムとは何だったのか」 『諸君! 1995年8月号』(文藝春秋)所収
http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/20060616
『「オウム事件」をどう読むか』 (文藝春秋)再録

カントは第一批判で、以下のように言う。
「存在=ある」はリアルな(実在的な)述語ではない、と。
カントはリアルと現実性とを分けるが、ドゥルーズはそれを再びつなげようとする。

ドゥルーズにとって潜在性はリアルな述語なのだ。
しかし、この一般性に対して単独性を主張する潜在性なる用語は、誤解を与えやすい。
ドゥルーズは潜在性を、リアル(実在的)というよりも、カントで言えば様相のカテゴリーにおける現実性として考えているように見えるのだ。それは可能性ではないと言ったときにあくまで差異として潜在性を規定するために生まれる曖昧性なのだ。
自由間接話法の欠点とも言えようか。

ドゥルーズに対してはそのプラトン主義(実在主義)を批判するバディウ(これは先の曖昧性を逆から解釈している)、先に引用した浅田彰のような意見に対しては「ゲーム的リアリズム」を主張した東浩紀がいる。

ただし、ここでは状況論的な可能性を論ずる余裕はないので、それよりも思想的潜在性としてハイデガーの存在の重要性を示しておきたい。
先日の日記にもデリダ、ドゥルーズ双方の思想を準備したハイデガーについて書いたが、そこにはスピノザに対する無視という問題があった。

ドゥルーズは明らかにスピノザよりの実在論的な思想家だが、スピノザをライプニッツ的多数性に位置づけることでハイデガーを受け継いだのだ。

個人的にはスピノザの単独性を明らかにしつつ、潜在性の哲学の展開が可能なのではないかと考えている。


追記:
冒頭の浅田の発言に呼応するものとして、以下の言説がある。
<クリプキが現実社会から出発して可能世界を考えるとき、その現実社会とは、素朴な経験的世界ではなく、すでに可能性から見られた現実性の世界である。ここに一種の循環がある。クリプキの批判者はこの論理的循環を衝く。しかし、この循環は、「現実性」が「可能性」なしに考えられないということにすぎない。最初にのべた多数世界論に欠けているのは、この現実性なのである。>(『探究2』(単行本版p52)
by yojisekimoto | 2009-08-22 20:27 | カント


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