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『細雪』とゲンズブール

先日亡くなったマサオ・ミヨシが『オフセンター』の中で、谷崎潤一郎の『細雪』のラストが下痢の話になることを誰も論じていないと書いていた(これは三島由紀夫や大島渚について辛辣だが的確な評を提示していて刺激的な本だ)。
ミヨシはある種の侵犯及び反抗を読み取っているのだが、これは近代主義的な構図のもとにある読みであろう(『源氏物語』の品定めを男女逆にしてパロディー化するところ等は確かに「侵犯」ではあるのだが)。

ところで、フランスのシンガーソングライター、セルジュ・ゲンスブールは死後発表することを定めていたインタビューのなかで、しかもその最後の発言として以下のように言っていた。

<「自分の下でする」というだろう。何しろ、「する」という動詞は最も原始的なる言葉だから。「私は音楽をする」とか「私は映画をする」とか、「写真をする」、「詩をする」というけれど、私たちが小さい時には、「ママン、しちゃったよ」と言うと何をしたかわかるだろう。>
(邦訳『ゲンスブール×2ノワール』128頁)

最後の、死後に天国で?インタビューしたという設定の発言はちょうどここで終わっている。

ゲンスブールも谷崎も最後(生涯の最後と作品の最後)に、より根源的な言葉、しかも母の記憶と結びつくものとしてスカトロジーを選択したのである。
フロイト的な分析も可能だが、両者とも最後の最後まである種の逆説的なダンディズムを保持していたことが特筆される。
by yojisekimoto | 2009-12-05 13:29 | 文学


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