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ニーチェと永劫回帰:デューリング再考

シュタイナーによれば、ニーチェはデューリングから永劫回帰のアイデアを得たと言う(シュタイナー『ニーチェ』)。ニーチェの蔵書のなかにあるデューリングの著書にはニーチェの書き込みが残っているのだ。

ニーチェはデューリングの『厳密な科学的世界観と生命形成論としての哲学教程』(1875年)における記述の否定的記述から永劫回帰の説をあみだしたことになる(邦訳シュタイナー『ニーチェ』p197)。現在の一瞬を極小小粒子の特定の連関結合(Kombination)として描いている点が(同p195)スピノザよりもライプニッツに近いかも知れない。

以下、邦訳シュタイナー『ニーチェ』(p198-199)より(ドイツ語原文は以下のサイトから追加した。http://www.archive.org/stream/cursusderphiloso00dhuoft/cursusderphiloso00dhuoft_djvu.txt,pp.84-85))。

<デューリングはこう述べている(引用者注:原著84頁にあるという)、『したがって意識を有するすべての生命のより深い理論的根底として、言葉のもっとも厳密な意味における、被造物の無窮性が要求される。つねに新しい形態を送り出すこの無限性の存立は、それ自体可能であろうか? 物質の粒子の数やエネルギーの総量が考慮されると、空間と時間という恒常的媒介が無制限のヴァリエイションを保証せぬかぎり、粒子連関結合の無限反復は不可能となるだろう。有限数の存在からはやはり有限数の結合しか生じえないのだ。しかし本質との矛盾を来すことなく、たしかに有限数の存在ではないと想像されうるような存在があるとすれば、その存在からは、無制限の多様性を持つ状態や連関が生じうるにちがいない。そうなると我々が宇宙の形成の摂理のために要求しているこのの無限性は、どんな変化をLも可能にし、一定期間ほぼ不変の状態を出現させたり、あるいは完全な自己同一性をすら可能にするだろう。ーーもっとも、すべての変化が停止することだけは不可能であるが。この無限性を有する原初状態に対応した存在の、表象を得んとする者が反省すべきことは、時間的展開の真の方向性がただ一つしか存在しないということと、因果も同様この方向に沿って生じているということである。相異を曖昧にすることの方が、明確にとらえることより易しいものである。相異による間隙を跳び越えて、結末を発端からの類推によって想像することはたやすいことである。しかし我々はそのような浅薄な短絡は慎もうでほないか。なぜなら宇宙の中にいったん生じた存在は、どれも同じ取るに足らぬ日常茶飯事などではなく、我々がそこから帰納や予測を行う、唯一無二の確実かつ明白な根拠であるのだから(後略)("Der tiefere logische Grund alles bewussten Lebens fordert daher im strengsten Sinne des Worts eine ünerschöpflichkeit der Gebilde. Ist diese Unendlichkeit, vermöge deren immer neue Formen hervorgetrieben werden, an sich möglich? Die blosse Zahl der materiellen Theile und Kraftelemente würde an sich die unendliche Häufung der Combinationen ausschliessen , wenn nicht das stetige Medium des Raumes und der Zeit eine Unbeschränktheit der Variationen verbürgte. Aus dem, was zählbar ist, Tiann auch nur eine erschöpfbare Anzahl von Combinationen folgen. Aus dem aber, was seinem Wesen nach ohne Widerspruch gar nicht als etwas Zählbares concipirt werden darf, muss auch die unbeschränkte Mannichfaltigkeit der Lagen und Beziehungen hervorgehen können. Diese Unbeschränktheit, die wir für das Schicksal der Gestaltungen des Universums in Anspruch nehmen, ist nun mit jeder Wandlung und selbst mit dem Eintreten eines Intervalls der annähernden Beharrung oder der vollständigen Sichselbstgleichheit, aber nicht mit dem Aufhören alles Wandels verträglich. Wer die Vorstellung von einem Sein cultiviren möchte, welches dem Ursprungszustande entspricht, sei daran erinnert, dass die zeitliche Entwicklung nur eine einzige reale Richtung hat, und dass die Causalität ebenfalls dieser Richtung gemäss ist. Es ist leichter, die Unterschiede zu verwischen, als sie festzuhalten, und es kostet daher wenig Mühe, mit Hinwegsetzung über die Kluft das Ende nach Analogie des Anfangs zu imaginiren. Hüten wir uns jedoch vor solchen oberflächlichen Voreiligkeiten; denn die einmal gegebene Existenz des Universums ist keine gleichgültige Episode zwischen zwei Zuständen der Nacht, sondern der einzige feste und lichte Grund, von dem aus wir unsere Rückschlüsse und Vorwegnahmen bewerkstelligen. "』。デューリングは、状態の永続的反復は人生にとって何の魅力もないと考えている。彼はこう述べているのだ。『生に魅力が必要であるという原則は、同一形態の永遠の反復とは相容れないことがこれで自明のこととなった("Nun versteht es sich von selbst, dass die Principien des Lebensreizes mit ewiger Wiederholung derselben Formen nicht verträglich sind. ")』と。
 デューリングが数学的に考察し、その結果をありありと異様な像に描いてみせながら、自分でもおぞましく顔をそむけて否定し去った見解に、ニーチェは結局己れの自然観を通じて肯定的に到達したのである。
 私(引用者注:シュタイナーのこと)の論文からの引用をさらに続けよう。
 「物質粒子とエネルギーに関し有限回の連関結合のみが可能であると仮定した場合、我々はまたもやニーチェの(同一事象の反復回帰〉の考えを見い出すことになる。つまりデューリングの見解から採った、ほかならぬ正反対の結論が、ニーチェによって弁護されている一節を、アフォリズム203(ケーゲル版のー二巻とホルネッファーの著作『ニーチェの永劫回帰説』の中のアフォリズム22)の中に見い出すことができるのである。『エネルギーの総和は一定であり、(無限)ではない。その種のいい加減な概念上の逸脱は慎もう! したがってたしかにこのエネルギーの状態や変化や結合や展開の数は、途方もなく大きなものであり実際上(測り難い)けれども、やはりそれでもともかく一定であり無限ではないのだ。すなわちエネルギーは永劫に同一であり永劫に動的である。ーー今のこの一瞬に至るまですでに一つの無限が経過したのである。すなわちあらゆる可能な限りの展開がすでに存在したにちがいないのだ。したがって今現在の展開は一つの反復であるにちがいなく、今を産んだ展開も今から生じる展開も同じことであって、未来も過去も果てしない反復の連続であるのだ(略)」>

まとめるなら、<シュタイナーの解釈によれば、(略)進化論からは「超人」思想を、そしてエネルギー総和の一定説からは「永劫回帰」の思想を生みださざるをえなかった「同時代との闘争者」なのである。>(シュタイナー『ニーチェ』p217解説より)ということらしい。
ただし、「霊人」ではなく「超人」であるところにニーチェの限界がある(同書p197)。

ちなみに、エンゲルスは主にこの本に抗するようにして『空想から科学へ』の前身となる『反デューリング論』(1877年、序論と社会主義論である第三部が後にまとめられた)を書いた。
そこにはマルクスがプルードンに対してなしたような自己欺瞞と剽窃がある。例えばエンゲルスの『自然弁証法』Dialektik der Natur 1873 〜1886のタイトルはあきらかにデューリングの『自然的弁証法』Naturliche Dialektik, 1865を意識している。

デューリングの上記書籍は最近ドイツで復刊された。
" Cursus der Philosophie als streng wissenschaftliche Weltanschauung und Lebensgestaltung"Dühring, E. (1875)、
(邦題は『厳密な科学的世界観と生命形成論としての哲学教程』あるいは『哲学教程,厳密な科学的世界観および生命形成論として』(1875) とも表記される。)

現状における無理解を改めるためにも、またニーチェの思考の跡を確かめるためにもドイツ語板の復刊は重要だし、邦訳を望みたい。
by yojisekimoto | 2009-12-11 10:23 | ニーチェ


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