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老子とスピノザ:メモ再録

メモ:
http://yojiseki.exblog.jp/9135357/の再録です。

老子           スピノザ

      生活態度
受動性を推奨 ←→   能動性を推奨
(43,47,63他)    (第3部定理3他)

       善悪
違いなし   ←→   自由なら存在しない
20)        (第4部定理68

       知識
減少を推奨  ←→   正しい知、認識を推奨
20,48,71)      (第5部定理15第5部定理24他)

       認識
嬰児たれ   ←→   第三種認識を推奨
10他)        (第5部定理25他)

       治世(以下を参照)

老子『道徳経』65章
 古の善く道を為(おさ)むる者は、以て民を明らかにするに非ず。将に以て之を愚にせんとするなり。
http://ryufuu.cocolog-nifty.com/hibinokaze/2007/11/65_084a.html

スピノザ『エチカ』第4部定理17備考
これでもって私は、なぜ人間が真の理性によってよりもむしろ意見(オビニオ)によって動かされるか、またなぜ善および悪の真の認識が心情の動揺を惹き起こしかつしばしばあらゆる種類の官能欲に征服されるかの原因を示したと信ずる。かの詩人の言葉はここから来ている、「我はより善ぎものを見てこれを可とす、されど我はより悪しきものに従う」。伝道者〔ソロモン〕が「知識を増す者は憂患を増す」と言っているのも同じことを念頭に置いたものと思われる。
 しかし私がこうしたことを言うのは、それから無知が知にまさるとか、感情の制御において愚者と智者の間に差別がないとかいうようなことを結論しようと思ってではない。むしろ、理性が感情の制御において何をなしえ、また何をなしえざるかを決定しうるには、我々の本性の能力とともにその無能力をも知ることが必要だからである。

http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p17


老子『道徳経』74章
民(たみ)死を畏(おそ)れざれば、
奈何(いかん)ぞ死を以て之(こ)れを懼(おそ)れしめんや。
http://home.att.ne.jp/wave/ayumi/Lao/074.htm


 または、

老子『道徳経』72章
民、威を畏(おそ)れざれば、すなわち大威(たいい)至らん。

http://home.att.ne.jp/wave/ayumi/Lao/072.htm


スピノザ『エチカ』第4部定理54備考
民衆は恐れを知らない時に恐るぺきものである。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p54n



以下追記、

http://nam21.sakura.ne.jp/tao/#note72
老子 道徳経 
第七十二章
民不畏威、則大威至矣。無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此。

民、威を畏(おそ)れざれば、すなわち大威(たいい)至らん。その居るところに狎(な)るることなかれ、その生ずるところを厭(ふさ)ぐことなかれ。それただ厭がず、ここをもって厭がれず。ここをもって聖人は、自らを知りて自らを見(しめ)さず、自らを愛して自らを貴(たっと)ばず。故にかれを去りてこれを取(と)る。

人々が恐れをもたないとき、「根本的な恐怖」を経験する。 自分の住んでいる場所がせばめられないから、彼らは安心して生活している。 安心して生活しているから、彼らの生活は平和である。 それ故に、賢者は自分自身を知っているが、みずからを見せびらかさない。 自分自身を養うが、みずからを偉ぶらない。 小さな恐れを捨てるけれども、根本的な恐怖を経験する。


http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p54
スピノザ エチカ
第四部 
定理五四 後悔は徳ではない。すなわち理性からは生じない。むしろある行為を後悔する者は 二重に不幸あるいは無能力である。
 証明 この定理の始めの部分は前定理と同様にして証明される。あとの部分は単にこの感情の 定義(感情の定義二七を見よ)のみから明らかである。なぜなら、後悔する人間は最初に悪しき欲 望によって、次には悲しみによって、征服される者だからである。
備考 人間は理性の指図に従って生活することが稀であるから、この二感情すなわち謙遜と後 悔、なおそのほかに希望と恐怖もまた、害悪よりもむしろ利益をもたらす。したがってもしいつ かあやまちを犯さなければならないとすればこの方面であやまちを犯すがよい。なぜなら、もし 精神の無能な人間がみな一様に高慢で、何ごとにも恥じず、また何ごとをも恐れなかったとすれ ば、いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統一されえようか。民衆は恐れを知らない時に恐るぺきものである(民衆、恐るべきもの,タキトゥス年代誌)。ゆえに少数者の利益ではなく社会全体の利益を考慮した予言者たちが謙遜、後悔および恭順をいたく推奨したのは怪しむに足りない。また実際に、これらの感情に支配 される人々は他の人々よりもはるかに容易に、ついには理性の導きに従って生活するように、言 いかえれば自由になって幸福な生活を享受するように導かれることができるのである。 
by yojisekimoto | 2009-12-14 14:51 | 老子


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