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岡倉天心と聖徳太子

以下、1890(明治23)年の東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)での岡倉の講義ノートより。

「余、明治十七年頃美術取調のとき、フェノロサ、加納鉄哉とともに、寺僧を諭して秘仏を見んことを請う。寺僧のいわく、これを開かば必ず落雷すべし。〔略〕落雷の事はわれらこれを引受くべきを約し、始めて寺僧の承諾を得て堂扉を開かんとす。僧等怖れて皆去る。〔略〕七尺有余の仏像、手に珠を載せ截せ つぜん然 として立てるを見る。一生の最快事なりというべし。幸いに落雷にも遭わざりき。」(『岡倉天心全集第4 巻』、1980 年、平凡社、pp.36-37. 岡倉天心『日本美術史』、平凡社ライブラリー、2001 年、pp.57-58.)。
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上記は定本柄谷行人集4巻p167でもほぼ同じ箇所が引用されているが、柄谷が指摘するように岡倉らによる宗教と美術の分離は近代国家を準備するものでもあった。
廃仏毀釈に対する反時代的奮闘という功績も岡倉にはあっただろうが、柄谷は岡倉のアジア主義に対して後年の柳宗悦を擁護する。ここには他者があるというのだ。

以下、柳宗悦の肉声。



先の岡倉とフェノロサが発見した仏像に話を戻すと、この救世観音および法隆寺に関しては、梅原猛、栗本慎一郎、倉西裕子らによる興味深い議論がある。
柄谷はまったくこれらの議論に触れないが、それはネーションの誕生を歴史的に遡行しすぎるのは遠近法的倒錯だからだ。

とはいえ、「救世観音」と呼ばれるこの聖徳太子をモデルとしたと考えられる仏像(倉西氏の意見は違う)には「物自体」とも言える不気味さがある。

また、聖徳太子の歴史性を考察するなかで(太子は仏教一辺倒ではなかったと言う説もある*)、朝鮮の文化、仏教以上に多様な文化の存在を歴史のなかに確認できると思う。


注:
太子の死後つくられた刺繍「天寿国繍帳」は、太子の死後の世界を描いたものだが、仏教に特化されないという説がある。「天寿国」という言葉がキリスト教を連想させると言う考え方もある。





以下、『隠された聖徳太子の世界』よりCG復元図。
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追記:
近年の大山誠一の研究では救世観音は729年の長屋王の変以降の作らしい(『天孫降臨の夢』)。
「天寿国〜」も690年以降の作であるという。
これらの説は梅原説とも一致するが、斑鳩寺を造った厩戸王の実在までは否定できないのだから聖徳太子として後年神格化されたのは事実としても、その存在を否定するのはレトリックが過ぎると思う。
by yojisekimoto | 2010-01-08 19:00 | 歴史


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